第41話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜


(このストーリーはフィクションです。作中の人物、企業などはすべて作者が創作したものです)




     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


        十月  



       〈四一〉



  バー・カウンターの端の椅子に腰を下ろすとメルバは、ステージで歌っていたわたしに向かって手を振った。十時を数分過ぎたころだった。

  「さくら]は六組、三十一人の客で賑わっていた。空いたテーブルはなかった。店に出ていた女たちも全員が客のテーブルに着いていた。

  わたしは五十七歳の日本人内科医、ドクター奥野と流行歌[フタリノ ヨアケ]をデュエットしていた。わたしがドクター奥野の相手をするのはそれが四度目だった。ドクターは、わたしが休んだ日も含めて、連続五日間―二日目からはわたしに相手をさせるのが目的で―通ってきていたのだった。自分の病院のスタッフや友人―男性三人と女性二人の計五人―を連れて、十日間のフィリピン旅行を楽しんでいる最中だということだった。…日中のゴルフのせいで、全員が真っ赤に日焼けしていた。

  メルバがしばらく行方不明になっていた日のことでなければ、わたしは彼女に何より先に、ドクター奥野が自分のスタッフたちに向かってなまりの強い英語で〈俺はマニラに残る。みんな日本に帰れ。俺は退職してここに住む。トゥリーナを愛しているからな〉と―丸きり冗談とも思えない口調で―宣言したとき、そう宣言したあと、わたしの肩をいっそう強く抱きしめながら突然大きく笑いだしたとき、わたしがどんなにいやな思いをしたかを話していたかもしれない。

  ありがたかったことに、ドクター奥野のグループは翌朝にはセブ島に向かって、その数日後には―乗り換えのためにマニラ国際空港に立ち寄りはするものの―セブから日本に向かって発つことになっていた。

          ※

  スポットライトの中にいたわたしには、店の暗い片隅にいるメルバの表情がはっきりとは見えなかった。いつもと様子がどこか違っているかどうかも分からなかった。わたしは苛立っていた。歌い馴染んでいたその歌のテンポがひどくのろく聞こえていた。

  曲が終わりきらないうちにわたしはドクター奥野のそばを離れた。〔ちょっと失礼します〕とも言わなかった。そんなわたしの態度にドクターが立腹していたとしても、わたしはただ無視していたに違いなかった。

  メルバの横の椅子に腰をかけ、呼吸を整えると、わたしはたずねた。「だいじょうぶ、メルバ?」

  「ええ。遅くなってごめんなさい。心配されたでしょう?」

  わたしは静かにうなずいた。「正直に言うとね。…でも、もう安心」

  「連絡する手段がなかったものですから。…ごめんなさい」。メルバの声はいつもどおりに聞こえていた。少なくとも、彼女の帰りは、夕方のラッシュ時の混雑する街路で交通事故に遭ったとか、妹の一人が急に病気になったとかいう事情で遅れたのではなさそうだった。

  「いいのよ、もう。ところで、ローサとマリアは…」。わたしはそこで口をとめた。〔ローサとマリアは悪い知らせを持ってきたわけではなかったのね〕とたずねる心の準備はまだできていなかったのだ。わたしはつづけた。「あなたといっしょにマニラの町が歩けて、ずいぶん楽しい思いをしたでしょうね」

  「わたし、二人を、ほら、[アリストクラット]に連れて行ったんですよ。立派な食事ができて、二人ともとても幸せそうでした。…けさ、二人を優しく迎えてくださったことに、わたし、本当に感謝しています」

  「妹さんたちに会えて、わたしもとても嬉しかったわ」

  「日が沈む前に家に帰り着けるように、二人は午後の早い時間にバスに乗せてやりました。とうに家に着いているはずです」。メルバは淡々とした口調で言った。

  わたしは再び落ち着かない気分になっていた。…〈では、二人をバスに乗せたあとの時間を彼女はどこで何をしながら過ごしていたのだろう〉という疑問に捉えられて。

          ※

  二人ともしばらく何も言わなかった。わたしは次に何をきいたらいいかを思案していたし、メルバは次に何をどう説明したらいいかを考えているに違いなかった。

  先に心を決めたのはわたしだった。「バタンガスからは良い知らせ?」

  「そのことですけど…」。瞬間ためらってから、メルバはつづけた。「あとで時間を空けてくださいませんか」

  「ええ、もちろん」

  店の中は数週間ぶりの大入りで活気に満ちていた。マネジャーのマヌエルはカラオケ・マシーンの操作に追われていたし、〔ママ〕グロリアは客たちの機嫌をとるためにテーブルを次から次へと渡り歩いていた。…メルバとわたしが二人だけほかから離れて長く私的な話に耽るのは、確かに、賢いことではなかった。

  「わたしのテーブルに来る?」。わたしはメルバにたずねた。「それでよかったら、あなたを迎えるようドクター奥野にたのんでって、わたし、ママに言うけど?」

  「ありがとうございます。そうしてください。今夜はわたし、一人きりじゃない方がいいようですから」

  「そう?」

  メルバがどういう意味でそう言ったのかはどうせ数時間後には分かるのだから、と自分に言い聞かせて、わたしはバー・カウンターを離れた。

          ※

  「君はかわいい目をしているね、メルバ。けっこう、けっこう」。ドクター奥野はむしろ喜んでメルバを迎えてくれた。

  その夜ドクターがメルバをほめたのはその〔かわいい目〕についてだけではなかった。メルバの[ツガルカイキョウ フユゲシキ]を聞いたあとのドクターは、〈君は日本の歌を日本人の歌手よりもじょうずに歌う。いや、実にいい歌だった〉と言いながら彼女の手を握って、その手をしばらく離さなかっただけではなく、自分の方から[タチマチ ミサキ]や[エットウツバメ]をリクエストして彼女に歌わせたほど、彼女の歌に感動していたのだった。

  メルバが歌の力を急速に伸ばしていることには、[さくら]で働く者でさえずいぶん感心させられていた。自分自身が実力のある歌手でもあるマネジャーのマヌエルも、〈リサが去ってからは、メルバよりじょうずなのはクリスティーナだけになってしまった〉とおおっぴらに口にするほどメルバの力を評価していた。…マヌエルは真顔でこう言うのだった。〈何と言ったって、母親と祖母が学校の先生だという家の子だからね。教育の高い家で育った子だからね。何でも覚えが速いよ、あの子は。僕らとは違って〉

  ドクター奥野のグループを相手に、メルバはよくしゃべり、よくはしゃいだ。…あんなに朗らかなメルバを見たのはあれが初めてだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る