第42話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月  



       〈四二〉



  前の四日間と異なって、ドクター奥野とその連れは閉店時間の午前三時まで店で遊びつづけた。閉店時にホステス・シンガーたちが全員そろって歌う[ソット オヤスミ]を聞いても、すぐには腰を上げなかったし、店の外に出てからも、なかなか立ち去ろうとはしなかった。…マヌエルとグロリア、それにガードマンのエドガルドをその夜の務めから少しでも早く解放してやるために、わたしは自分の頬を差し出してドクターにキスをさせてやらなければならなかった。

          ※

  もう午前四時に近かった。

  メルバとわたしが入ったのは、[さくら]の近くの小さな通りにある、テーブルが五つしかない、質素な終夜営業レストランだった。

  客はわたしたちだけだった。長い思案のあと、メルバはベーコン・エッグ・サンドウィッチとミルクを注文した。食欲がなかったわたしはコーヒーが一杯あれば、それでよかった。

  店が終わってからのメルバはもう〔朗らか〕でも何でもなかった。…彼女はすごく緊張していた。怒っているようにさえ見えていた。

  メルバがローサとマリアとどう時を過ごしたのであれ、二人は、わたしが最初に恐れたように何か悪い知らせを持ってバタンガスから出てきていたのに違いなかった。

  砂糖もミルクも入れていないコーヒーをすすりながら、わたしは自分に、どんなことでも聞ける心の準備をしているよう、メルバが何を話しだそうと驚かないよう、言い聞かせた。

          ※

  そんなことでは足りなかった。

  メルバの第一声はこうだった。「人生って、トゥリーナさん、こんなふうでなければいけないんでしょうか」

  わたしは息を飲んだ。わたしが思い描いていた最悪のシナリオの一つに、きっと彼女ははまり込んでいるのだ、と思った。狼狽を隠しきれないまま、わたしはあえてたずねた。「どういう意味なの、メルバ?〔こんなふう〕って?」

  「地獄みたいに見える、ということです」。メルバの顔に奇妙な、ゆがんだ笑みが浮かんでいた。

  「そんな…」。わたしはしばらく、次に声にする言葉を見つけられずにいた。「そんなことはないわ、メルバ」。ようやく、そう言った。「人生が地獄に見えるなんて、だれにもあってはいけないわ。…特に、あなたのようないい子には」


  [さくら]の勝手口でローサとマリアを見たときから知りたかったことをたずねるときだった。「あなたのお家で、メルバ、何か悪いことが起こったのね?」

          ※

  メルバは唇をゆがめた。「継父がいなくなったんです」

  「〔いなくなった〕って、それ、どういうこと?…確かなの?」

  「ローサとマリアはそのことを知らせる母の手紙を届けに来たんです」

  わたしの頭は混乱していた。「実際に何が起こったのか、メルバ、話してくれる?」

  「継父がバタンガスのわたしたちの家からいなくなったんです。町から姿を消したんです。四日前に。…息子二人、バーニーとロビンを連れて」

  「でも、それ…。たとえば、ほら、仕事を探すためにどこかに…」

  メルバはわたしの言葉を遮って言った。「息子二人を連れて、ですか?母に何も告げずに、ですか?」

  「でも、なぜ?そのお継父さん、故郷の町をなぜか離れたがらないって、メルバ、言っていたじゃない。いなくなる理由なんかなさそうじゃない?」

  「それが、あったんです」。メルバは答えた。「このことを話すのは、どうしようもないほど恥ずかしいのですけど…。継父がいなくなったあと、ふと不安になって、母が銀行の口座を調べてみると、預けてあった母のお金が全部なくなっていたんです」

  「何ですって?」

  「本当に、わたし、死ぬほど恥ずかしくって…」

  「〔恥ずかしい〕?」

  「ええ。…いま〔母のお金〕と言いましたけど、そのお金は…。そのお金は、トゥリーナさん、実は全部、わたしがミスター高野からいただいていたものだったんです。…困ったときに使いなさいって」

  「高野さんから…」

  「わたしは知りませんでしたけど」。メルバはつづけた。「母は、実は、八月の入院費用をわたしの伯父―母の兄―などから借りて払っていたらしいんです。そうやっておいて、次に悪くなった場合に備えて、ミスター高野からいただいたお金は全部銀行に預けていたらしいんです。それがなくなっていたんです。…母の体は治りきっていないというのに。母はまだ復職できずにいるというのに。いまでも薬を飲みつづけているというのに。いつまた入院しなければならなくなるか知れないというのに」

          ※

  わたしは呆然としていた。

  手にしたグラスの中のミルクをぼんやりと見つめたまま、メルバはしばらく何も言わなかった。楕円形の皿に乗せられたサンドウィッチは、手もつけられず、テーブルの片隅に押しやられていた。

  「高野さんにもらったお金」。それにつづける言葉をわたしは見つけることができなかった。

  「大変な額です」。メルバはため息混じりで言った。「ワタシ トテモ ハズカシイ。もうミスター高野の前には出られません。あの人に顔を向けることができません」

  メルバが陥っている状況にあるのであれば、わたしも同様に感じていたはずだった。

  十日前にレストラン[アリストクラット]で高野さんが言ったことをわたしは思い出した。僕がこれまでに経験してきたところから言えばね、メルバ、この国の人たちは本当に頻繁に<恥ずかしい〉という言葉を口にするんだよね。ハジ。…恥辱だとか不面目だとかいう意味なんだけどね、そのハジを土台にしたサムライ文化をいまも引き継いでいるとされる日本人たちよりも、はるかに頻繁にね〉

  高野さんが観察してきたとおりなのかもしれなかった。〈でも〉とわたしは思った。〈どうしてメルバが〔こんなふうに〕恥ずかしい思いをしなければならないのだろう〉

          ※

  安っぽい同情を示す以上のことをしなければならない、とわたしは感じていた。現実的に対処する方策を考え出すことがメルバへの年長の友人としての義務だ、という気がしていた。…そういう方策があるとすれば。

  メルバと母親は、持ち逃げされたお金を何としても取り戻さなければならなかった。…母親の病気が再び悪化すれば、すぐにも、治療費、入院費として、そのお金が要るのだった。病欠が長引いて、もしも母親が退職を強いられるようなことになれば、メルバと彼女の妹たちは、日々の必需品を購入するためにも、そのお金が要るようになるはずだった。

  わたしはメルバにたずねた。「お父さんたちがいそうなところ、立ち寄りそうなところ、思いつかない?親類の家だとか、お友だちの家だとか?思いつかなかったら、そのお金でお父さんがしそうなことを考えたら?何かしたいと言っていなかった?あ、バーニーのカレッジは調べてみた?バーニーの居所が分かれば、お父さんも見つけられるんじゃない?」

          ※

  感情を抑えた声でメルバは答えた。「継父たちが立ち寄ったり訪ねたりしそうなところは、そのカレッジも含めて、全部連絡してみたと、妹たちが持ってきた母の手紙に書いてありました。でも、あの人たちの行方はまだつかめていないそうです。不便なことにわたしたちの家には電話がありません。継父の親類や友人たちのところもないところが多いんです。ですから、本当は、母はこの四日間、たいした追跡はできていないと思います。それに、母の手紙によると、連絡がついた親類たちも、皆が母に協力的だったというわけではなさそうなんです。継父を嫌っていることを隠さない人や、わたしたちの家族と関わり合いになりたくなさそうな人もいて…。協力的に聞こえた人たちの中にも、いくらかのお金で継父に口どめされた人がいたかもしれません。少しのお金でどんな嘘でもつく人、世の中に少なくないでしょう?」

  「でも…」

  「わたし、とにかく」。メルバは視線を宙に向けた。「お金を使い果たす前に継父を見つけ出すことはできないだろうという母の思い、正しいと思うんですよ」

  「そんなふうに否定的に考えるのは早すぎはしないかしら」。わたしは言った。「あなたとお母さんにできることが何かあるはずよ」

  「あるでしょうか?わたしにはそうは思えません。母もおなじです。何もないと思ったからこそ、母はローサとマリアをわたしのところに送り出したのです。手紙で母がわたしに伝えたかったことは、簡単に言ってしまえば、〔どうしたらいいだろう、メルバ?〕ということにつきます。母はいま、母の人生で初めて、体よりも心の方が弱くなっているようです。母は、受けたショックが大きすぎて、以前そうだったような、分別があって思慮深い人ではなくなっているようなんです。ですから、いまはわたしがしっかりしていないといけないんです。家族みんなが惨めな状態に陥ってしまわない道を、わたしが見つけ出さなければならないんです」。メルバは数度、首を横に振った。「本当に…。ここに来てとうとう、妹たちと病気の母の面倒を見なければならないのは、ほかのだれでもなく―もちろん継父ではなく―わたしだってことが、疑いようもなくはっきりしました」

          ※

  本当に〔地獄みたい〕な話だった。

  わたしは、未遂に終わった〔反乱計画〕のあとメルバが、故郷の町の外で仕事を探そうとしない継父について〈実の父に似て、わたしも心が邪悪なのかもしれませんね。でも、わたしの推測どおりに、継父が教師として学校に戻りたいという夢を持っているとしたら、わたし、いまでも、それ、不公平だ、と思うような気がします〉と言ったこと、それに応えて自分が、その継父の夢のことはともかく、メルバの幼い妹たちにとっては、父親と母親がいつもそばにいるというのは、それだけでとてもいいことなのだ、と話したことを思い出していた。…あのとき、メルバは素直に〈そうですね。そう考えて暮らしていれば、いつか継父が違って、良いように、見られるようになるかもしれませんね〉と、わたしの言葉を受け入れたのだった。

  〔継父が違って見られる〕ときがきていた。でも、数か月後に継父が見せたのは、メルバが思いもしていなかった、彼女の家族への裏切り者という姿だった。…〔心が邪悪〕だったのは継父の方だった。

  陰鬱な気分でわたしは自分にたずねかけた。〈そんなことがあっていいのだろうか。高野さんが心を込めて渡したお金のせいで、メルバが継父に裏切られることになっただなんて…。高野さんのヤサシサを証明するするはずだったお金がメルバを新たな困難に陥れただなんて…〉

  悲しげにほほ笑む高野さんの顔がわたしの胸に浮かんでいた。

  小林という日本人の貝殻ボタン製造業者がフィリピン女性、エヴェリンに対して行なった中途半端なビジネス協力計画のことを振り返りながら高野さんがこう言ったことがあった。<もちろん、〔誠実な〕気持ちがあればいつも事がうまくいくと言っているんじゃないんだよ。いや、それどころか、そんな、どうしようもない自己満足の〔誠実さ〕はしばしば周囲の人たちを傷つけてしまったりするんだよね〉

  そう言いながら、高野さんは、間違いなく、学校生活に戻りたいという夢を最終的にメルバに捨てさせることになった自分の申し出を後悔していたのだった。高野さんは、申し出をそんなふうに後悔したからこそ、今度は〔誠実さ〕を―言葉でだけではなく―具体的に示そうと、彼女にお金を渡していたのだった。…そのお金があとで彼女を再び〔傷つける〕ことに―彼女の家族をこんな形で崩壊させることに―なろうとは、もちろん、思いもせずに。

          ※

  メルバが陥っている新たな困難のことは、わたしの口からは高野さんに伝えないようにしよう、とわたしは心を決めた。あの人に告げるかどうかの、そんな重大な判断は、メルバ自身がしなければならないはずだった。

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