第43話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

  〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月



       〈四三〉



  長い沈黙のあと、メルバはつづけた。「妹たちをバスに乗せたあと、わたし、実は、クバオに住んでいる伯父、母の兄を訪ねたんです」

  その説明でわたしの疑問の一つが解けていた。「それで帰りが遅くなったのね」

  「ええ。…覚えていますか。バタンガスの家に[さくら]についての情報を持って来た、八月の母の入院の際には中心になってお金を工面してくれたという、あの伯父です。カラオケシンガーとして働くようわたしを説得した?わたしに、お前は何しろ長女なんだから、としきりに言った?」

  「覚えているわ」

  [ピスタング・ピリピーノ]でメルバから高野さんとの関係や彼女の家族が置かれている状況のことを聞いた日が、わたしには、実際に過ぎていた時間よりはうんと遠くに感じられていた。

  「伯父の家に行ったのは…」。メルバは言った。「伯父に宛てた母の手紙を届けるためでした。それ、伯父に〔すぐにもお金が必要な状態になったから、また用立ててほしい〕と伝えるための手紙だったと思います。…わたしには、そんなことをしても無駄だという気がしましたけど。

  「だって、この国の人たちがたいがいそうなように、伯父自身も、たぶん、お金には困っているのですから。母にはすでに一度、お金を都合してやっていたのですから。それに、母の親類や友人たちは皆そうだったはずですけど、伯父も、わたしたちがあのお金を持っていたことは知らせられていなかったと思います。ですから、母は伯父に、継父が実の子二人を連れていなくなった、とは告げても、そのお金を継父に持ち逃げされた、とは伝えることができなかったはずです。それを伝えなかったら、その手紙でどんなに懸命に、自分はいま人生最大の苦難に直面しているのだって母に訴えられても、伯父には母のパニックの深刻さが伝わらなかったと思います。…伯父にできることと言えば、たぶん、母といっしょになって、たとえば、メイドとしてどこかで働くようローサを説得するぐらいしかなかったんじゃないでしょうか。数か月前に、カラオケシンガーになるよう、わたしを説得したときみたいに。

  「もちろんわたし、ローサがそんなことになるようにはさせません。あの子は頭が良くて、とても勤勉な子なんです。ちゃんとした教育を受ける資格がある子なんです。…わたしの家族の中からは、学校を途中でやめる子はもう絶対に出しません」

          ※

  わたしの心は沈みきっていた。メルバの決意がどんなに固くても、ローサのために彼女がしてやれることはあまりないように思えていたからだった。自分が日本で働ける日が少しでも早く来るようにと祈るほかにできることはメルバにはないのではないか、という気がしていたからだった。

  メルバはつづけた。「わたしの家族のことで伯父とじかに、二人きりで話すのは、きのうが初めてでした。でも、伯父はわたしを一人前に扱ってくれて、わたしがそれまで聞いたことがなかったことを、思いのほか、たくさん、あれこれとしてくれたんですよ。

  「読み終えた母の手紙をたたんだあと、伯父は長いあいだ、首を横に振りつづけました。それから急に、無責任だと継父を罵り始めました。…あのお金のことはその手紙でも、やはり、知らせられていないようでした。

  「伯父はケソンシティーにある、ある家具問屋で長く、アシスタント・マネジャーとして働いています。その伯父が継父について最初に言ったことが、もう、わたしには大きなショックでした。伯父は、自分の下で正社員の梱包出荷要員として働いたらどうだと継父に持ちかけたことがある、と言ったのです」

  「そうだったの?」

  「わたしも驚いてしまいました。伯父が継父にそんないい仕事のチャンスを与えようとしたことがあったなんて、わたし、またく知らなかったんです。…その話を継父にしたのは、伯父が言うには、[さくら]で働くようわたしを説得に来た日の少し前のことだったんですって」

  「〔少し前〕?」

  「ですから、ええ、継父はその仕事の話を断ったんです。継父がどういう理由で断ったか、トゥリーナさん、想像できますか」

  わたしは首を横に振った。

  「継父は、自分は長いあいだ背骨に痛みを抱えていて、そのせいで、体をきつく使う仕事ができないんだって、そう言ったんですって。…わたし、そんな話はそれまで聞いたことがありませんでした」 

         ※

  ため息を一つ洩らしたあと、メルバはつづけた。「〔背を悪くしている〕という継父の話を〔間違いない〕と母が認めたと聞いたとき、わたし、信じられませんでした。母は自分の実の兄になぜ嘘をついたのだろうと、わたし、頭がすっかり混乱してしまいました。〈継父がついた嘘をとっさに取り繕おうとしただけなのだろうか、母は?それとも、継父が自分と離れてケソンシティーに出稼ぎに行くのがいやだったのだろうか?その家具問屋は、バタンガスからほんの三時間ほどで行き着けるところにあるのに?何か月も会えないというわけでもないのに?あるいは、母は自分のボーイフレンドを自分の兄の〔下〕で働かせたくなかったのだろうか〉などと考えて。

  「そうでなければと、わたし、思いました」。メルバの顔に冷たい苦笑が浮かんだ。「〈母と継父にはすでに、ほかのだれでもない、わたしを日本で働かせようという考えがあったものだから、伯父の親切な、その勧めを断ったのでしょうか?そんな嘘をついて?〉」

  わたしの背筋に冷たいものが走った。

  メルバの口調は驚くほど淡々としていた。「わたしが日本で働いたら、継父が出荷要員として稼げる額の何倍ものお金が家族に入ってくるはずだ、というので?わたしに働かせた方が得だ、というので?」

  その〔何倍ものお金〕は、確かに、だれにとっても大金だった。だれかがだれかに嘘をつく動機にもなりそうだった。ましてや、メルバの母親は、自分の体が悪化しつづけていく中で、財政的にもますます大きな窮地に陥っていたのだから。

  わたしはメルバの疑いを〔あなたのお母さんに限っては…〕と打ち消してやることができなかった。

  「本当のことは分かりません」。メルバは言った。「でも、いいんです。それはもうすんだことです。過去のことです」

  〈そんな重大な嘘をついたかもしれない母親を、〔過去のこと〕として許すといっても〉とわたしは思った。〈これまで尊敬し、信頼しきっていた実の母親がこれからはいままでどおりには信じられないということになれば、メルバはこの先、いったいだれを頼りにして生きていけばいいのだろう〉

          ※

  「そのあと、伯父は母を非難し始めました」。メルバは言った。「駆け落ちをやめて夫―わたしの実の父親―のところに戻るようにと何度も言い聞かせようとしたけれども、母は耳を貸さなかったって。…好きな教師の仕事をつづけるのだ、つづけたいという思いを理解してくれる男の人と暮らすのだ、という母の決意に反対していた人が、わたしの実の父親以外にもいたんですね。

  「冗談みたいにでしたけど、母はわたしに一度こう明かしたことがあるんですよ。〈あの兄さんには、〔お金をたくさん持っている人間にくっついているのが結局は賢い生き方なんだ〕と助言されたことがあるのよ〉って。でも、それは、母がボーイフレンドと暮らすようになったことに伯父が強く反対している、というような話し方ではありませんでした。…母がそんな話をしたのは、まだ、継父と母が、二人とも、教師として働いていたころで、裕福という言葉からはほど遠かったのですけど、日々の暮らしは何とかなっていましたし、母はまだ体を悪くしていませんでした。母の、わたしたちの、平穏をすぐに脅かすようなものは何も見えていなかったんです。あのころの母は、本当に、ボーイフレンドとの―諍いも暴力もない―新しい暮らしに満足しきっているようでした。母にとっては、何年ぶりかで味わう、最高に幸せな時期だったと思います。…そのボーイフレンドにいつか、こんな形で裏切られることになろうなんて、もちろん、あのころの母には想像できていませんでした。

  「伯父は自分の妹にひどく立腹していました。母の無分別がこういう事態を招き寄せたのだと言いました。〔結婚相手は金持ちであればあるほどいい〕という自分の持論が現実的だったことが、明らかに遅すぎるけれども、ここに来て、はっきりした、と言葉を強めました。…伯父は、継父が逃げ出したのは、継父の失職を母の病気が後追いすることになって、家族が経済的にどうにもならない状態に陥ったままであること、良くなる見込みがないことにいや気がさしたからだ、とほとんど決め込んでいたんです。

  「伯父はこう言いました。〈お前の母親には、メルバ、〔予期しない事故や病気があるかもしれない。突然お金に困ることがあるかもしれない。そんなとき、教師二人の給料で、どうやって乗り切るつもりだ。夫のところに戻れ。戻って謝れ。謝って、またいっしょに暮らしてもらえ。それが娘たちのためにもなるのだ〕とずいぶん強く言ったのだけども、あいつは聞かなかった。聞かなかったから、こういう目に遭ってしまった〉」

          ※

  「伯父の話には何度も驚かされてしまいましたけど」。メルバはつづけた。「こんなふうに言われたときには、わたし、全身からすっと力が抜けていくような気がしました。〈お前はかわいそうな子だ、メルバ〉。伯父は言いました。…わたしに〔カラオケを歌え〕と言いに来たときには見せなかった、わたしにすごく同情してくれている表情でした。それから、伯父はつづけました。〈母親があんな男を好きなったりしてなきゃ、お前もこんな辛い思いはしいていなかっただろうに〉

  「〈あれ?〉とわたしは思いました。〈わたしがこんなふうに生きなければならなくなった原因は、暴力をふるう、継父から職を奪った、あの父ではなく、母ですって?〉〈みんなが大変な思いをしているのは、母のせいですって?〉

  「そんなわたしの疑問に、答えはすぐ返ってきました。まだわたしに同情的な口調で、伯父はこう言ったのです。〈メルバ、お前の母親があんな教師とあんな関係になっていなければ、お前の父親も、あいつが学校で働くのをやめさせようとはしなかっただろうし、あんな暴力をふるうようなこともしなかっただろうにな〉」

  「あなたのお母さんがその人を好きになったのが先、ということ?」。わたしはメルバにたずねた。

  「そうなんだそうです」。メルバは答えた。「二人の恋愛が噂になったものだから、母が働くことに父が反対するようになったそうなんです。それでも母が働きつづけたから、父が暴力をふるうようになったんだそうです。…もちろん、どんな状況にしろ、暴力が許されてはいけないのですけど」

  「ええ、もちろん。でも、それ、あなたがお母さんから聞いていた話とは…」

  「母の説明では、母は無垢な被害者でした。父の古風な価値観と持って生まれた残忍さが悪者でした。でも、伯父はこう言いました。〈お前の母親は、妻に死なれ、息子二人を残された男を憐れみすぎたのだ。そんな男の助けになりたいという考えに、分別なく、取り憑かれてしまったのだ。あの男と知り合ってからのあいつは、事実上夫に頼って生きているだけ、という自分の生き方に満足できなくなって…。お前の母親は、メルバ、教師の家に生まれ、聡明な子として育っていた。大学でも、魅力的な黒い瞳をした、若さに満ち溢れた、長身でほっそりとした、上品な、頭のいい学生として、皆に好かれていた〉。伯父はそこでちょっと苦笑しました。〈あのころの彼女は、いまのお前とおなじように、まだほっそりとしていたんだよ〉。伯父はつづけました。〈そんなところがお前の父親の目にとまり、彼女は熱心に求愛された。…思えば、あれは、そこそこに富があり、コミュニティー内での将来の地位が約束された人物との、あまりにも簡単な結婚だった。そうだったから、お前の母親には、自分が実はどんなに運のいい女であるかが分かっていなかった。カネのない人生がどんなに辛いものかが分かっていなかった〉。それから、伯父はつづけました。〈遅すぎるよな、メルバ。いまになって気づいても〉」

          ※

  メルバは冷静さを保ちつづけていた。「伯父が話してくれたことはそれで全部です。伯父の話はでたらめではないと思います。伯父には嘘をつかなければならない理由はなさそうですから。伯父は次の週末にバタンガスに行くつもりのようでした。…たぶん、母が頼んだお金は持たずに。

  「ということで、継父はいなくなりました。わたしたちは一文なしの状態で取り残されてしまいました。でも、わたし、いまは、こんなことがあったおかげで、とてもいい勉強をいくつかさせてもらったという気がしています。一つ目は、人は何かの妄想に取り憑かれてしまってはいけない、ということ。…ミスター高野と由実さんが離婚したのも、結局は、彼女の仕事への妄想が原因だったわけでしょう?」

  メルバは払いすぎるほど犠牲を払ってその考えに辿り着いていたのだった。…わたしは、高野さんと奥さんは共に、二人が抱いていた価値観の、気の毒な犠牲者だと思う、とは言わなかった。そんなことは言えなかった。  「二つ目は」。彼女はつづけた。「男と女のあいだの〔憐れみ〕がどんな役割を果たすか、ということです」

  間違いなかった。それは〈相手に同情するような立場から、メルバ、だれかを文字通り〔愛する〕ことができるだろうか〉という十日前の高野さんの言葉への、メルバの間接的な反応だった。…自分の母親の〔憐れみ〕がどんな結末を迎えたかを知ったメルバの。

  「母は、継父と住むようになった経緯、事情について、どうやら、わたしに嘘をついていたようです。…わたし、事があんなふうに醜く進んでしまったのは父の保守的な考えのせい、教師でいたいという母を理解しない父のせい、という母の説明を信じていました。信じて、母の考え、行動の方が正しい、と思っていました。町の子供たちのためにいい教師でいつづけたいという母を、わたしにできる限り助けていきたい、と心に決めていました。ですから、体が悪くなり、母が働けなくなったあと、カラオケシンガーとして働いてくれ、と言われたときも、最後には、母の代わりに働くのはシカタガナイこと、わたしの宿命だと、自分を納得させることができていました。

  「でも、もういいんです。なぜ嘘をついたのかといまさら母を責めても、そこからは何も出てきません。すんだことです。いまは、家族のために、妹たちのために何ができるかを考えて…」

          ※

  メルバに何か声をかけなければ、という思いで頭の中はいっぱいだったのに、わたしはどんな言葉も思いつかなかった。

  先に口を開いたのはメルバだった。「本当のことを言いますと、わたし、あの伯父が好きじゃなかったんですよ。わたしたちの新しい家族とはあまり親しくつき合いたくない、といった素振りがときどき見えていましたから。でも、親しくしたがらなかった理由がはっきりしました。わたしの実父から母がそんなふうに逃げ出したことを、伯父は苦々しく思っていたんですね。母とは、自分の方からはあまりつき合いたくなかったんですね。…母に何かを、どうしても、と頼まれれば、それは実の妹の頼みですから、拒否はしなかったようですけれども。わたしを説得しにバタンガスまでやって来たときのように。

  「それに、伯父の考えは正しいものでした。本当に、母の〔結婚相手は金持ちであればあるほど〕よかったんです。こんなことになったあとですから、わたしどうしても、そう思ってしまいます。人の幸せを保証してくれるものはお金しかないんだって考えてしまいます。…何かを犠牲にしてでも追い求める値打ちがあるのはお金だけなんじゃないのかって。いえ、自分もいつかはお金持ちになって見せる、と言っているんじゃないんですけど…」

  「それ、違うと思うわ、メルバ」。わたしは言った。…わたしが日本で稼いだお金が原因となって起こった、セサールとのあいだの醜い諍いを思い返しながら。「お金がいつも幸せを保証してくれるとは限らないわ。あなたの二番目のお父さんが証明したように、お金って、ときには魔物にもなるのよ」

  そう言う自分が必ずしも正直でないことに、わたしは気づいていた。最後にブラカンから克久―のアンサーリング・マシーン―に電話をかけて以来、胸の中で急速に大きくなってきていたある思いに歯止めをかけるためにあえて自分はそう言ったのだ、ということがわたしには分かっていた。…わたしはこう考えるようになっていたのだった。〈わたしがユキのために手にしなければならないのは、本当は、娘に愛情も愛着も示さない父親ではなく、ユキがちゃんと暮らしていけるためのお金なのかもしれない〉

  克久から連絡がない日の数を数えるのをやめてしまってから、もうずいぶん経っていた。

  悲しげにわたしを見つめているメルバから、わたしはそっと視線をそらせた。

  

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