第44話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈四四〉



  その日の午後、メルバとわたしはタフト・アヴェニューのバス停にいた。

  ネイヴィー・ブルーのキャンヴァス製の大きなバッグがメルバの足元にあった。中には―マニラで暮らした五か月間ほどのあいだに彼女が読んだ本と雑誌を除く―彼女の持ち物のすべてが詰め込まれていた。

          ※

  〈一週間ほどで戻って来られたら、と思っていますけど〉。寮でバッグに物を詰めながらメルバは言った。〈バタンガスの家で起こっていることをこの目で見るまでは、それがいつになるかは分かりません。それより長くなるかもしれませんし、短くてすむかもしれません。母の体の具合がいまはどうなのか、もう働けるのかまだ働けないのか、母がわたしに何をしてほしいと考えているか、そういうことで、それ、変わってくると思います。いずれにしても、こういうの、向こうで使うことになるかもしれませんから、全部持っていっていた方が…。これも含めて〉。彼女が手にしていたのは一冊のノートだった。〈たとえ一週間でも、練習していないと忘れてしまいそうですから〉。その中に彼女が自らローマ字で書き写した日本の歌の歌詞の数はすでに百以上になっているはずだった。

           ※

  建設中の[ライトレール]の高架と道路わきの建物のあいだに、透き通った青空が見えていた。いつ雨季が明けてもおかしくないころになっていた。

  一か月あまりでもうクリスマスだった。

  通りはすべてがいつもどおりだった。自動車の行き来は激しかったし、空気はディーゼルとガソリンの排ガスでひどく汚れていた。ジープニー運転手たちは、乗客になりそうな歩行者を見つけるたびに、色彩豊かに塗りあげた自分たちの車を所かまわず急停車させていたし、タクシー運転手たちは、互いにバンパーをぶつけ合わんばかりにしながら、われ先にと車を走らせていた。 

  わたしたちは黙り込んで、メルバをバタンガスへ運ぶバスがやって来るのを待っていた。

           ※

  [さくら]の近くのレストランを夜明け前に出て以来、メルバは一度も高野さんの名を口にしていなかった。

  わたしも、高野さんがサポーテから電話をかけてきたことは彼女に告げていなかった。

  メルバの心は、もらったお金を継父に持ち逃げされたという、高野さんには聞かせられない出来事で塞がれているはずだったし、わたしの頭は、高野さんがサポーテで新たな〔フィリピン人の苦難〕に関わっているらしいという情報は彼女の心を傷つけるだけだろう、という考えにすっかり捉えられていた。

  けれども、時間がなくなりかかっていた。わたしは、もう一つだけ、何時間も胸につかえていた質問をメルバにしておかなければならなかった。

  「メルバ、あなたが発つ前に…」。わたしは口を開いた。「高野さんが次にお店に顔を出したときのことだけど…。あなたがいない理由をあの人にどう説明したらいいかしら」

  「実は、わたしもおなじことを考えていたんですよ。どう話してもらおうかなって」

  「で、どう説明しようか」

  「あんな恥ずかしいことはミスター高野には話せません。それだけは分かっているんですけども…」

  「ええ。…でも」

  「それに、ミスター高野に不必要な心配をさせるわけにもいきません」

  「それも分かるわ。…だったら?」

  「いとこの結婚式に出るために帰った、というのはどうでしょうか」

  「あ、それ、よさそうね、メルバ。ええ、わたし、それでいくことにするわ。でも、もし、もし、あなたが、いま考えているのよりも長く、一週間以上、バタンガスにとどまっていなきゃならないことになったら?」

  「そういうことだって、あるかもしれませんよね。あ、わたしは急に日本に行っちゃった、というのはどうでしょうか。お別れのあいさつをする間もなかったって?」

  「だめよ。それ、うまくいかないわ。カラオケシンガーがある日突然日本に向けて発つというのは、〔ママ〕リサがそうだったように、現実にはちっともめずらしいことではないけど、そんな方便は高野さんを悲しませるだけじゃない?それに、第一、ほら、わたしがそう伝えた翌日にあなたがお店に戻ってくることだってあるんだから」

  「ああ、そうですよね。そんなの、だめですよね」。メルバはひどく狼狽しながら応えた。

  愚かなことに、わたしはそのとき、メルバがそれほど狼狽したわけを考えてみようとはしなかった。

          ※

  「そんなの、あまりかわいくないですよね」。メルバは急いでつづけた。「ミスター高野にそんなたちの悪い嘘をついてはいけませんよね。ですから、どうぞ、親類の結婚式に出席するためにバタンガスに帰って、ついでに少しゆっくりしているんだって、そう伝えてください。それで、もし、わたしの滞在が長引いたら、とりあえず、〈どういうわけだか、わたしにも分からないんですよ〉とでも言って…」

  「それもあまりいい考えじゃないんじゃない、メルバ?高野さんはそんな答えには満足しないわよ。あなたがお家で何をしているかをわたしが知らないなんて、あの人、信じないわ。もし信じたとすれば、あの人、あなたに何か悪いことが起こっているんじゃないかと思って、バタンガスに行くかもしれないわ。それは避けたいでしょう?」

  「でも、いい説明がほかには何も思いつかないんです」

  「じゃあ、こうしておきましょう、メルバ。なるべく一週間で戻ってくるようにしてちょうだい。それでも、向こうに長くいなければならなくなったら、わたしに電話をかけて。その時点で、二人でまた、何かほかの説明を考えましょう」

  「ええ、そうします」。メルバは少しほっとしたようだった。「本当に、おせわになりっぱなしで…」

          ※

  北の方からバスが近づいていた。

  「ローサとマリア、それにお母さんに、よろしくね。…気をつけて、メルバ」

  バスのステップに足をかけそうになってから、メルバは応えた。「ありがとうございます。いつまでも変わらず、親切で優しい人でいてくださいね。それから、ミスター高野には、わたし、だいじょうぶだって…。ほら、このとおり元気でいるって、伝えてください」

  ステップで振り返ったメルバの顔にすばらしい笑みが浮かんでいた。…若さの真っ盛りにある自分がどんなに美しくほほ笑むことができるかをしっかり記憶しておいてほしい、とわたしに訴えてでもいるかのような。

          ※

  それがわたしが見たメルバの最後の姿だった。

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