第45話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈四五〉



  メルバがバタンガスの家に帰ってから二日が過ぎていた。[さくら]にはまだ客が入っていなかった。ステージに上がって、日本の新しいヒット曲を練習していた数人を除けば、女たちはいつものように二、三人ずつ寄り合って、取りとめのない話をしながら時間をつぶしていた。

  わたしの横には、日本での五度目の仕事のために二か月後にはマニラを離れる予定になっていたクリスティーナが座っていた。二人は交互に、以前に働いたことがある日本の〔オミセ〕での体験談を、冗談混じりで相手に聞かせ合っていたのだった。

          ※

  クリスティーナが急に声の調子を変えたのは、彼女が働いた三番目の〔オミセ〕での体験を話し終えてからだった。「ね、トゥリーナ、日本での数か月間の暮らしを愉しいものにするためにわたしがこれまでしてきたこと、次に行ったらまたしそうなことを話したら、聞いてくれる?」。顔に奇妙な笑みが浮いていた。

  「それ、お金はあまり使わないで、ということ?」。冗談口調でわたしはたずねた。

  「まあ、そうね。…わたしのお金は使わないで」

  「聞かせてもらうわ。でも、それ、何かしら。…ウィンドウ・ショッピング?」

  「もっと想像力を働かせて」

  「そうね。暮らしを愉しくするため、でしょう?」

  「そう」

  「あなたのお金はほとんど使わないで?」

  「もっと正確に言うと、わたしのお金は〔まったく〕使わないで」

  「え?お金を全然使わないで何かが愉しめるの?」

  クリスティーナはうなずいた。

  「分からないわ。降参よ。…答えを聞かせてちょうだい」

 「いいわよ。でも、これ、だれにも話しちゃだめよ。約束してくれる?」

  「ええ、あなたがそう望むなら」

  「それはね、トゥリーナ、向こうに行くたびに、新しい日本人のボーイフレンドを持つこと」

  「そうなの?」。三日前に[さくら]の勝手口で、メルバの妹たちを背にしたクリスティーナが〈わたし、ボーイフレンドとの、夜通しのデイトから戻ってきたところなんだけど…〉と言ったことを、わたしは思い出していた。

  「だから、これまでに、四人。…あの人たちには、それぞれ違う形で、本当に愉しい思いをさせてもらったわ。お金持ちもいたし、見かけのいい人もいた。それぞれに最低でも一個所はちょっとした魅力があったわけ。…どの人とは言わないけれど、おかしいね、寝なかった人もいるのよ、その四人の中には」

          ※

  それがクリスティーナの告白でなければ、わたしはあまり驚いていかなかったに違いなかった。…日本での暮らしをそんなふうに愉しんでいるフィリピン人カラオケシンガーも少なくないことを知っていたから。

  「最初の人はね、有名なロック・ギターリストだったわ。二十五歳のね。あのとき、わたしは、パスポートでは十八歳ということになっていたけど、本当は、十六だった。この人は、六本木のディスコとか吉祥寺のライヴハウスとか、東京のおもしろいところに、あちこち、わたしを連れて行ってくれたのよ。自分の大掛かりなステージ・ショーにも招待してくれたわ。…そうね、日本で愉しく過ごす方法を、わたし、この人から学んだんだと思う。この人は〈俺はクリスティーナの歌のうまさを買って、彼女をこうやって連れて回っているんだ。もっと勉強してもらおうと思って、彼女にいろんなところを見せてやっているんだ〉なんて、自分の友だちなんかに言っていたけど、わたしには、この人がわたしの容姿に惹かれていて、〈これが俺のいまのガールフレンドだ〉って周囲の人たちに自慢したがっているということが分かっていた。…そんなふうに自慢されるのって、わたし、嫌いじゃなかったけどね。

  「二番目の人は、岡山の裕福な実業家の息子で、赤いベンツのコンヴァーティブルを乗り回していたの。…フィリピンではそんな贅沢な車に乗れるチャンスなんか、わたしにはないでしょう?」

  「ちょっと待って、クリスティーナ」。わたしは言った。「あなたはいま二十歳。で、十六歳のときから、日本人のボーイフレンドを四人持ったわけね。でも、あなたにはいま〔夜通しのデイト〕をする相手がいるのよね?フィリピン人の?」

  「ええ。その人はロベルトという名なの。彼には二年ほど前に出会って…。だから、そう、トゥリーナ、四人目の人とロベルトは、どういうの?…重なっていたのよ」

  「これはわたしが口出しすることじゃないかもしれないけれど、クリスティーナ…」

  「トゥリーナ、わたしね、自分にはもう少しましな値打ちがあるんじゃないかという気がしてならないの。…ロベルトはわたしより三歳年上の、物の考え方がしっかりした、いい人なんだけど…。それに、わたし、彼のことが本当に好きなのかも知れないんだけれど…。彼は、持っているものなんか事実上何もない、将来の望みもほとんどない、若いフィリピン人にすぎないわ。…わたしには、わたしを愉しませてくれる人が要るの。わたしの現実―お金がなくてパナイ島で泥まみれの苦しみを味わっている家族のこと―をときには何もかも忘れさせてくれる人が要るの。わたしは、そんな底なしの悲惨さに四六時中、一年三百六十五日、捕われっぱなしになっていたくないの」

          ※

  わたしは応えた。「わたしにも、クリスティーナ、できることなら忘れてしまいたいことがたくさんあるわ。だから、あなたが言っていることも理解できると思う。でも、あなたは、そんなにきれいで、すごく才能に恵まれたシンガーで、しかも、まだ若い。望みをもっと高くしていた方が、というのが変なら、天から授かったものをもっと大事にした方がいいんじゃない?」

  「ありがとう、トゥリーナ、そんなにほめてくれて。嬉しいわ。でも、これ、たずねさせてね。〈この国にいて、こんなにお金のないわたしがどうやったら望みを高くしていられるかしら〉

  「他人を助けるとき、お金をいくら出せるかを相手にたずねない人間がこの国でどうやったら見つけ出せる?…お金は才能の何倍も物を言うの。才能を見せる前に、財布を大きく開いて見せなきゃならないの。…ひどいことには、多くの場合、体もね。〔ママ〕リサがプロのレコード・シンガーになりたいって夢を捨ててしまったのはどういう事情からだったか、一番知っているのはあなたでしょう、トゥリーナ?」

  わたしはうなずくしかなかった。

  「そういう要求に応えられなかったら、あるいは応えなかったら、どんな高い望みもそれでおしまい。〔ママ〕リサは、全然お金がなかったわけではなかったのかもしれないけど、レコード音楽業界内のそんな人間たちの言いなりにはなりたくなかったんでしょう?そんな業界には関わり合いたくないと思ったんでしょう?だから、一方で、美容院を経営し始めたのでしょう?

  「トゥリーナ、わたしね、自分がこれまで、だれにも悪く利用されなかったことを幸運だとも、わたしの誇りだとも思っているのよ。世間のことはほとんど何も知らずに、プロのレコード・シンガーになるんだって夢見ながら、十五歳でビサヤの島から出て来た女の子にとって、マニラというところは、本当に、とんでもない人間ばっかりだったんだもの。

  「だから、わたし、自分の生き方は自分で決めることにしたの。だれにも支配されないで、自分の好きなように生きることにしたの。…もちろん、わたしにできる範囲で。イロイロに住む家族への義務は果たしながら」

          ※

  「もちろん、あなたの生き方はあなた自身が決めることよ、クリスティーナ」。わたしは言った。「でも、わたしには、あなただったらどんな困難でも克服できるような気がする。あなたにはほかにいい道が開けると思う」

  「わたしも、その半分ほどでいいから、希望を持っていられるといいんだけどな。でも、わたしには、自分がせいぜい、裕福な日本の男たちと遊ぶ、ちょっとは稼ぎのいいカラオケシンガーにしかなれないんだってことが、よく分かっているの。まるで、一流劇場の舞台の中央に立つスター・シンガーででもあるかのようにわたしを扱ってくれる、わたしに途方もないぐらいわがままを言わせてそれを喜んでいられる、そんな日本の男たちと遊ぶ…。どんなひどいことになっても」。クリスティーナは苦笑した。「その人たちは、わたしからお金を巻き上げようとはしないでしょう?」

  店にまだ客が入っていないことを確かめると、クリスティーナはその晩最初のタバコに火をつけた。「言うまでもないけど、日本での、わたしのそんなところはロベルトには何も話していないのよ。そんなこと、あの人が知る必要はないものね」

  「わたしにはなぜ?」

  「このことをだれかに一度話しておきたかったからかな。それに、トゥリーナ、あなたは、他人の話をすごく理解してくれる人に見えるんだもの。…自分のことをよく知ってくれている人がどこかにいるって感じるの幸せじゃない?あなたにとっての〔ママ〕リサのような人が…」

          ※

  「ロベルトとは最初にどこで出会ったか、当てられる?」。クリスティーナはたずねた。

  「これも難しい問いね。…ああ、きっと、あなたの故郷イロイロで、だわ」

  「初めの〔ウィンドウ・ショッピング〕よりはうんとましな答えだけども、それもはずれ。わたし、彼とは、ロハス・ブルヴァードのアメリカ大使館の前であった政治集会で出会ったのよ」

  「本当に?あなたもその集会の参加者だったわけ?」

  「そんなに驚かないで、トゥリーナ」

  「だって、それって政治集会でしょう?」

  「似合わない?」

  「意外な取り合わせだわ」

  「わたしはね、トゥリーナ、反政府行動なら、どんなものでも、みんな支持しちゃうの。そんな集会にしょっちゅう出るというわけではないし、集会が何のために開かれているのか、ちゃんとは分からないこともあるんだけどね。ほら、たとえば、学生たちが米軍基地の撤去を激しく求めていることとかね。だって、こんなふうに思わない?いいにしろ、悪いにしろ、米軍の基地に頼って暮らしているフィリピン人が何万人もいるでしょう?基地が撤去されたあと、その人たちにどんな仕事を提供するつもりかしら、あの学生たちは?」

  「いまのフィリピン人には反政府感情を抱く理由が、多かれ少なかれ、あれこれあるとは思うけど、クリスティーナ、あなたはやはり…」

  「わたしは左翼でもないし、NPAの考えに同調しているんでもないのよ。そういうんじゃなくて、政府の国の治め方、フィリピンが向かっている方向が好きじゃないだけ。何の希望もない状態に息が詰まって、ときどき大きな声が出したくなるだけ」

  「だから、政治集会に顔を出すようになったの?」

  「そう、ときどきね。…単純なの。でも、ロベルトは違うのよ。あの人はすごく真剣なの。あの人が求めているものは〔フィリピンの完全な独立〕なの。…特に、アメリカからの。〔マルコス政権の国民支配を長引かせようとするすべての権力〕からの。…あの人、そう言うの。

  「あの人はロック・ギターも弾かないし、赤いベンツとも無縁に生きているんだけど、とにかく真剣なの。…わたしが日本でつくったボーイフレンドたちは、自分の国のことなんかにはまるで関心がなかったわ。ロベルトはあの人たちとは全然違っていた。

  「ロベルトと出会った、二年ほど前のその集会が、実は、米軍のスービック海軍基地とクラーク空軍基地の撤去を求めるものだったのよね。…ロベルトはたまたまわたしの隣に立っていた人。

  「何かの拍子に視線が合ったのをきっかけに言葉を交わし始めてすぐに、あの人が、ほかのほとんどの参加者と違って、学生じゃないと分かったときには、わたし、驚いちゃった。自分もそうじゃなかったのにね。だから、あの人が、自分はクラーク基地で働いている機械工だと自己紹介したときには、もっと驚かないわけにはいかなかったわ。…だって、あの人は、この不景気の中で、自分の仕事がなくなってしまうようなことを、恐れもせず求めていたのよ」

          ※

  クリスティーナはつづけた。「集会がまだ穏やかに進んでいるあいだに、あの人、自分の考えをこんなふうに話してくれたのよ。あの人が使ったものにできるだけ近い言葉で言うと…。〔ソヴィエトに対する太平洋での軍事的優位を保つために、どうしてもフィリッピン国内に二つの基地を維持しておきたいアメリカは、マルコス政権をほとんど無条件に支持し、財政支援をつづけているけども、デモクラシーと経済に関して言えば、アメリカがそうしている限り、国民生活はましにはならないだろう。というより、フィリピン国民の生活はいっそう破壊されていくだろう。見ろよ、マルコス政権は何十年間もつづいているというのに、この国には、競争力のある産業は一つも育っていないし、敬意が払えるような教育も行なわれるようになっていないじゃないか。確かに、米軍基地はフィリピン人にいくらか職を提供しているよ。僕も基地で働いて生きてきた人間の一人だよ。だけど、そんなものをただありがたがっていちゃだめなんだ。そんな仕事をありがたがっているようでは、いつまで経っても、フィリピン人は自分たち自身の産業を築き上げることができない。この国は自立できない。外国に援助を乞うだけの国になりきってしまう。ソヴィエトはアメリカにとっては脅威なのかもしれないけれども、フィリピン国民にとってはマルコス政権が緊急の脅威なんだ。僕らは、基地も要らない、マルコス政権支持も要らない、というところからやり直さなければならないんだ〕

  「わたし、すっかり感心しちゃった。そんなところまで、考えたことがなかったからね。それに、あの人、理想のためになら自分の仕事なんか放り出してもいい、と決意していたわけでしょう?わたし、たちまち、この人は信用できる人だって思い込んでしまった。

  「あれからほぼ二年が過ぎたわ。あの人は月に一度かそこら、できるだけ、メトロ・マニラのどこかで反政府集会が開かれているときに、アンヘレス・シティーからわたしに会いに出て来るの。

  「さっき言ったように、あの人は、自分の信念に対する誠実さを別にすれば、事実上何も持っていない人なのね。でも、その誠実さがあの人の宝物だと思う。そんなものを持ちつづけているフィリピン人、あんまりいないでしょう?

  「それはよく分かっているのよ。でも、トゥリーナ、いつもこの国のそんな現実を憂えながら生きていて、愉しい?…わたしにはそんな生き方はできない。わたしは、愉しいことがほんの一日ないだけでも生きられない、弱い人間なの。愉しみなしには、翌日働くことさえできないの。なのに、あの人はわたしを愉しませるということがほとんどできない人なの。

  「じゃあわたし、どうしてロベルトとの関係をつづけているんだろう?…正直に話すとね、トゥリーナ、わたし、あの人と寝るとき、すごく幸せに感じるのよ。なぜかと言えば…。

  「それはね、外国人を相手に働いて、外国人から―あの人にとっては―法外な大金を稼ぎ出すカラオケシンガー、ホステスとして働く、わたしみたいなフィリピン女を、あの人が実際には嫌っていることを知っているからなの。あの人が、そんな女たちを、国民への裏切り者でもあるかのように見なす、禁欲的な愛国者であることを知っているからなの。分かる、トゥリーナ?あの人はね、犠牲と忍耐を基本道徳にしている人なの。だから、あの人の目には、わたしは何も犠牲にしていない、何にも耐えていない、軽い人間に見えて仕方がないらしいの。…それ、たぶん、当たっているんだけどね。  「あの人はこれまで、わたしを愛しているって言ったことがないし、わたしがカラオケ・ホステスである限りは、これからも言わないと思う。にもかかわらず…。くり返させてね。にもかかわらず、あの人はわたしを失うことができないの。わたしのことがあきらめられないの。わたしのことが好きなの。

 「ね、トゥリーナ、そういうのって、すばらしいって思わない?女に対する一番純粋な評価だって思わない?理想の女性像とはひどく違っているけれども、どうしても愛さずにはいられない、なんて?わたしは、そこのところがすごく気に入っているの。そのことでとても幸せに感じるの。

  「いっしょに泊まったモーテルを出る前にわたしが身づくろいを始めるでしょう?ふつうの女の子よりはちょっと派手な化粧をし始めるでしょう?それを見るあの人がどんな悲しそうな表情を見せるか、トゥリーナ、想像できる?」

  三日前に[さくら]の勝手口で嗅いだ香水の香りを思い出しながら、わたしは答えた。「想像できるような気がするわ、クリスティーナ。…それに、そのとき、あなたの化粧の下にもおなじような悲しみが隠されているのだろうな、ということも」

  「まあ」。クリスティーナは驚きの声を上げた。

          ※

  〔ママ〕グロリアがわたしたちの方に近づいてきていた。

  クリスティーナはまだ、わたしの顔を見つめていた。

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