第46話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜
〜フィリピン〜
=一九八四年=
十一月
〈四六〉
「あなたに電話よ、トゥリーナ」。グロリアは言った。わたしはグロリアの表情をうかがった。何か悪いことが起こったことを知らせる、わたしの家族からの緊急電話というわけではなさそうだった。
わたしの心臓の鼓動が速くなった。そんな時間に電話をかけてきそうな人物は、ほかには、メルバと高野さんの二人しかいないはずだった。
そんなわたしの胸の中が見えでもしたかのように、グロリアはつけ加えた。「でも、お気の毒。メルバからでも、高野さんからでもないのよ」
わたしは首を傾げた。
「そうではなくて」。グロリアは言った。「ジョセフという人から」
いったん収まりかけていた心臓の鼓動が再び速くなった。良い知らせがないのにジョセフが電話をかけてくるはずはなかった。わたしは、電話機が置いてあるバー・カウンターに小走りで向かい、受話器を取り上げると、ほとんど叫ぶように言った。「いい知らせですね?」
「なんだよ、トゥリーナ。驚くじゃないか。…そんなに急かないで」
ジョセフの声は明るかった。とうとう、東京の近くに仕事を見つけてくれたのだ、とわたしは直感した。
彼は言った。「あした、オフィスに来てくれる?」
「ええ、行きます。でも、わたしのために良い仕事を見つけたって、いま言ってください」
「そんなに大きな声を出さなくてもいいよ、トゥリーナ。こっちには全部はっきり聞こえているんだから」
「ごめんなさい。ここ、テープの音楽の音が大きいものですから。ですから、そちらは大きな声で話してください」
「だから、あした、と言ったんだけど」
「いま聞かせてもらいたいんです。場所だけでも…」
「分かったよ。君が働くことになるバーは、埼玉の所沢というところにあるんだ。どこだか分かる?」
「いいえ」
「よかったな、トゥリーナ。東京都のすぐ隣なんだよ、これ。東京駅から電車で一時間ぐらいしかかからないんだってよ。すごいだろう?」
「ええ、本当に。…どうお礼を言えばいいのか。ありがとうございます」
※
克久は、鶯谷の駅に近い、あるコンドミニアムの、両親が所有しているユニットに一人で住ませてもらっていた。所沢はそこからもあまり遠くないはずだった。…二年前、鎌倉で半日いっしょに過ごしたあと、克久について初めてそのユニットに行ったとき、東京駅から鶯谷まではほんの数駅だったことを、わたしは覚えていた。
「それで、行けるのはいつなのですか」
「君は、ネグロス島のバコロッドのかわいそうな女の子の代わりに行くことになるんだ。この子が、その仕事に就くチャンスを待っているあいだに、肺炎にかかってしまったもんだからんね。だから、君はもうトゥリーナ・モレーノではない。新しい名前と生年月日、出生地を持つことになる。僕は数日中にだれかに、日本大使館の査証印がすでに押されたこの子のパスポートを君のものに変えさせる。この前受け取った君の写真を使ってね。…もちろん、その費用は別に払ってもらうよ」
「喜んで」。わたしは応えた。…パスポートの変造というような不法行為に自分が関わることへの罪の意識を押し殺して。
「で、そういうことがすべてうまくいくと、トゥリーナ、君の出発は二、三週間後ということになるな」
「本当ですか」。体が震えだしていた。「それ、確かなんですね」
「つまらないことをたずねないの、トゥリーナ。君をからかうためにわざわざ僕が電話をかけると思う?」
「思いません。でも、あんまり急で…。あんまり嬉しいものですから。…そのネグロスの女の子のことは気の毒に思いますけど」
「それがあの子の運命なんだよ」。ジョセフはそう言いきった。「だから、トゥリーナ、早く体が治り、次のチャンスが来るよう、あの子のために祈ってやるんだな。祈りながら、君はこのチャンスを最大限に活かせばいい。あの子のために君ができるのはそれだけだよ」
「分かりました」
ジョセフは言った。「とにかく、もう少し君に話しておきたいことがあるから、あす、オフィスに顔を出してくれ。分かった?」
「もちろん、うかがいます。あすの午前中に顔を出します」
「それで結構。今夜は愉しく過ごすんだな、トゥリーナ」。電話が切れた。
※
クリスティーナがわたしにほほ笑みかけていた。どうやら、わたしの笑みに応えているものらしかった。
「いい知らせだったのね」。彼女は言った。「秘密のボーイフレンドから?」
「もっといい人から」。冗談めかせて、わたしは答えた。…答えながら、電話をかけてわたしを喜ばせることなんか、もう克久にはできないのだ、と思っていた。
「そうなの?」。クリスティーナは首を傾げた。
「ね、クリスティーナ。わたしたちだって、たまには、心が安らぐような、先が明るく見えてくるような、そんな知らせを耳にしたいわよね」
「肩にのしかかっている問題をちょっとのあいだ忘れることができるような、ね」。彼女は苦笑まじりで言った。
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