第47話 あるカラオケシンガーのメモワール〜

   〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈四七〉



  〔二、三日後〕になっても、高野さんは[さくら]に戻ってこなかった。

  わたしは不安だった。サポーテで見たものが何だったにしろ、とにかくすぐに町を離れるよう、あの人を何とかして説得しておくべきだった、という思いがますます大きくなっていた。けれども、こうやればあの人をマニラに戻らせることができていたはずだという案は、相変わらず、何一つ頭に浮かんでいなかった。そのことで、わたしの不安はいっそう膨れ上がっていた。

          ※

  メルバからの電話もなかった。彼女がバタンガスに帰った日から約束の〔一週間〕が過ぎるまでにはまだ二日あったというのに、わたしの気持ちは落ち着かなくなり始めていた。

  メルバが戻った道をわたしもバスで辿ってみようか、あの子が元気でいるところをバタンガスまで見に行こうか、という思いが何度もわたしの胸に浮かんだ。

  でも、わたしがバタンガスに出かけているあいだに、高野さんが[さくら]に電話をかけてくるかもしれなかった。[さくら]に戻ってくるかもしれなかった。

  [さくら]の仕事仲間たちには―彼女たちがそれを信じたかどうかはともかく―高野さんに言おうと決めていたのとおなじように、メルバはいとこの結婚式に出席するためにバタンガスに帰っている、としか告げていなかった。だから、彼女たちには、高野さんといっしょになって心配することはできても、メルバが長くバタンガスにとどまっている理由、わたしまでが急に休みを取った理由を、あの人にちゃんと説明することはできなかった。説明できない彼女たちは、高野さんを煽り立て、メルバの様子を見るためにバタンガスまで行ってみてはどうかと薦めるかもしれなかった。

  わたしは[さくら]で待っているしかなかった。

          ※

  二人から連絡がないまま、また数日が過ぎた。

  根拠はなかったけれども、わたしは、高野さんがサポーテで巻き込まれている出来事は、電話をかけてきたときあの人が予想していたものよりはうんと厄介なものだったのだ、と思い込んでいた。そう思い込んで、気を沈ませていた。電話であの人が〈君に時間があるようだったらちょっと見てもらおうかな、ひょっとしたら君が関心を抱くかな、と思ったことがあった〉と言ったとき、もしもう少し違って反応していたら、と自分を責めていた。

  メルバへの心配は、彼女がわたしとの約束を破ったことが明らかになった八日目になって、頂点に達した。なのに、わたしはそれからまた一日待つことにした。彼女がわたしに電話をかけられない理由ならいくつでも思いつくことができたからだった。…何より、メルバは継父を見つけ出すことにすっかり追われているのかもしれなかった。もしかしたら、すでに見つけ出して、起こった混乱の収拾策を話し合っているのかもしれなかった。そうでなかったら、妹たちか母親の世話に予想していた以上に時間を取られているだけなのかもしれなかった。

          ※

  二人からの連絡は次の日になってもなかった。

  わたしの心配は急速にメルバの方に傾いていった。予告も説明もなしに高野さんが連絡を絶つのはそれが初めてではなかったのに対して、メルバは、たとえ何に煩わされていようと、何日間も約束を無視しつづけるような子ではなかったからだった。

  一日、あるいは二日、休みがほしいとマネジャーのマヌエルに願い出ようと決心したのは、メルバをタフト・アヴェニューのバス停で見送った日から数えて十日後のことだった。

  夕方、六時ごろだった。わたしは[さくら]の前でマヌエルをつかまえた。

          ※

  わたしの願いを聞いたマヌエルがあんなふうに反応しようなんて、わたしは予想していなかった。

  彼はほとんど喉を詰まらせながら言った。「バタンガスに行って、メルバの様子を見てきたいって?彼女に会ってきたいって?そう言っているわけ、トゥリーナ?」

  「ええ。でも、なんでそんなに驚くんです?」

  「〔なんで〕って…」。マヌエルはためらった。

  「そんなことでは休みはもらえないんですか」

  彼は腕時計に目をやってから言った。「ちょっと、そこらを歩かないか」

  「その方がよかったら…」。休みがほしいという話のためになぜ二人で通りを歩かなければならないのかは分からないまま、わたしは答えた。

  歩いてきた方向に戻り始めたマヌエルについて、わたしも歩きだした。

  エルミタの通りにはもう、さまざまな色のネオン・サインが輝いていた。

  マヌエルはしばらく何も言わなかった。わたしに何をどう告げたらいいかを考えているのに違いなかった。

  わたしは苛立ち始めていた。…胸の中で不安が膨らんでいくのを感じていた。

  彼が口を開いたのは、数ブロック歩いたあと、エルミタに十店以上はある[さくら]の競争相手の一つ、[都]の前にたまたまさしかかったときだった。「トゥリーナ、メルバには会いに行かない方がいいな」

  「どうしてですか」。挑むような口調だった。

  「遅すぎると思うよ」

  「〔遅すぎる〕って、それ、どういう意味ですか?」

          ※

  いつもと違って、マヌエルのしゃべり方ははっきりしていなかった。「メルバが一度仕事に遅れてきた日のことは、トゥリーナ、もちろん覚えているよな?」

  「ええ。あのあと、彼女と話しもしました。でも、それが何か…」

  「じゃあ、あの子がいま、どんなトラブルに出くわしているかも知っているよね?」

  「知っているつもりです。あの子が話してくれましたから。…でも、その話し方から想像すると、マネジャー、あなたもすでにメルバから話を聞いているようですね。正直に言うと、わたし、ちょっと驚いています」

  「あの子がじかに、何もかも話してくれたんだ」

  マヌエルと話す時間をいつ、どんなふうにしてメルバがつくったのかが、わたしには分からなかった。メルバはあの日、妹たちを見送ったあと伯父を訪ね、話を聞いていたために、[さくら]の開店時間に遅れたはずだった。店に姿を見せてからあとは、バタンガス行きのバスに乗るまで、ずっとわたしがいっしょだったのだから、わたしの知らないあいだにマヌエルと会うことなど、彼女にはできなかったはずだった。

  わたしの訝る表情に気づいて、マヌエルはつけ加えた。「遅れてきた日、サン・ニコラスの僕の家を突然訪ねてきてね」

  「そうだったのですか」。〈マヌエルに会いに行ったことを、メルバはなぜわたしに告げなかったのだろう〉と胸の片隅で思いながら、わたしは言った。「これが無作法に聞こえたら許してください。でも、それ、いったい何のためだったのですか。メルバがなぜマネジャーの自宅を訪ねなければならなかったんですか」

  「メルバは君に何もかも話したと思っていたけどな」

  「〔何もかも〕って?」

  マヌエルは数度、首を横に振った。

  わたしはつづけた。「〔何もかも〕聞いたと思っていましたけど?」

  「君が聞いたのは、どうやら、〔何もかも〕じゃなかったみたいだな」

  わたしは高まる苛立ちを抑えることができなかった。「もしそうなのならその〔何もかも〕を全部わたしに話してください」

          ※

  「こういう話をするのも、たぶん、僕の仕事の一部なんだろうけれども、トゥリーナ」。マヌエルは立ちどまり、顔をまっすぐわたしに向けた。

  人通りの多い歩道上で突然向かい合いながら立ちどまった二人のあいだを若い男性が一人、さっとすり抜けていった。

  「辛い仕事だよ、トゥリーナ、これは。メルバは実は…」。マヌエルはそこで視線をそらせた。

  「〔実は〕?」

  彼は視線をわたしに戻した。「実は、メトロ・マニラの売春クラブの実情が知りたいといって、そういう情報がほしいといって、僕を訪ねてきたんだ」

  「嘘でしょう?」。わたしは大きな声で笑おうとした。「からかわないでください」。でも笑いは出てこなかった。

  「もちろん、からかってなんかいないよ」。マヌエルの声は静かだった。「あの子は、トゥリーナ、あの世界に入るって、すっかり腹を決めて、あの日の午後遅く、僕の家にやって来たんだ」

  「まさか!そんなはずはありません!だって…」

  そう言ってはみたものの、マヌエルがわたしにそんな嘘をつく理由はなさそうだった。…メルバは連絡を絶っていた。

  わたしの目から急に涙があふれ落ちた。

  通りすがりの人たちがわたしに好奇の視線を向けていた。でも、わたしは自分を抑えることができなかった。「メルバをとめなきゃ、わたし!どうしても、あの子をとめなきゃ!」。何の方策も思いつかないまま、わたしは叫んだ。

  マヌエルは、顔を曇らせながら、憐れむように、わたしをじっと見つめていた。

  わたしは彼の腕を取り、それを強く揺すりながら言った。「なんでこんなことに?なんで?」

  答えは返ってこなかった。…こないことは分かっていた。

  

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