第48話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈四八〉



  数分後、わたしはどうにか泣きやんでいた。マヌエルとわたしは[さくら]への道をゆっくりと戻り始めていた。わたしは、気持ちを落ち着かせるよう自分に言い聞かせていた。

  マヌエルは言った。「メルバはどうしても、すぐに、現金が必要だったんだ。…それも大金が。母親が倒れ、病院に担ぎ込まれて、すごく費用がかかる集中治療を受けていたから」

  「それ、違います」。そう言いきったけれども、わたしの頭はひどく混乱していた。「メルバはそんなことは言っていませんでした。あのとき、お母さんは入院してはいませんでした。その話、妹たちがメルバに届けた、お母さんからの手紙に書いてあったことと違っています」

  メルバの継父の非道な行ないことが口から出そうになっていた。

  「その手紙に何が書いてあったか、書いてあったことについてメルバが君にどう説明したかは、僕は知らないけども、トゥリーナ、あの子が僕に話したところでは、その手紙はそもそもあの子の母親ではなくて、おばが書いたものだったらしいよ」

  「メルバのおばが書いた?」

  メルバのすぐ下の妹、ローサの言葉がさっと頭に浮かんできた。〈昨夜はあまり眠れませんでしたけど、おばが起こしに来てくれたときには、すぐに〉。メルバに会いに出て来た朝、ローサを起こしたのは、確かに、母親ではなく〔おば〕だったのだ。

  マヌエルは言った。「ああ。このおばという人が、近くの銀行で急に倒れた、あの子の母親を、それからずっと世話している、ということだったよ」

  「銀行で?」。メルバの母親が銀行で倒れるというのも不審な話ではなかった。

  「ああ、そうだって。…気の毒だとは思うけども、メルバの母親は自分の体にもう少し気を配っておくべきだったと思うな。何しろ、その日は朝から、あまり気分が良くなかったそうだから。ほかの用事で旦那が外出していたにしてもだよ。まして、引き出そうとしていた額は、近所のだれかからでも借りられたかもしれない程度だったようだからね」

          ※

  間違いなかった。メルバが高野さんからもらったお金を継父が持ち逃げしてしまったという事実や、継父が突然姿を消したことを怪しみ始めたメルバの母親には、銀行に出かけていって自分たちの口座残高を調べてみる必要があったのだということは、マヌエルには伝わっていなかった。マヌエルは、メルバの母親は銀行で昏倒してしまったのだということは知っていたけれども、そうなったのは、口座からお金がなくなっていることを知って、母親が激しいショックを受けたからだろうと推測できるような話は何も聞いていなかった。…メルバは、たぶん、そのことが万が一にもマヌエルの口を通して高野さんに知れることを怖れて、嘘をついていたのだった。メルバは、母親の状態がどれほど悪いか、だから、どれぐらいのお金がどれほど緊急に必要なのかなど、売春の世界に関する必要な情報を聞き出すためには避けられないとことだけしか、マヌエルには話していなかったのだった。

          ※

  互いにひどく矛盾はしていないにしても、明らかに内容の異なる二つのストーリーを、メルバは、一つはわたし向けに、もう一つはマヌエル向けに、用意していたのだった。そして、彼女がわたしに必ずしも全部本当のことを話さなかった理由を想像するのは、マヌエルに嘘をついた理由を言い当てるのと同様に、それほど難しいことではなさそうだった。

  母親が緊急入院したことをわたしに隠すことでメルバは、わたしにそれ以上の心配をさせないように―心配したわたしが母親の状態のことを思わず高野さんに告げてしまうのを避けようと―したのに違いなかった。メルバは、彼女の母親の健康状態画が悪くなっているという事実を高野さんが, たぶんリサから、聞き出していたことを忘れてはいないはずだった。そのことを思い出して、わたしには継父が高野さんのお金を持ち逃げしたという事実は隠しきれても、母親の新たな入院のことはやはり隠し通せないのではないか、そのことを知った高野さんがすぐにもバタンガスに飛んでくるのではないか、飛んできた高野さんがまた財政的に支援しようと言い出すのではないか、と怖れていたのに違いなかった。継父の持ち逃げを隠してもう一度高野さんの支援を受けること―そんなハズカシイこと―がメルバにできるはずはなかったし、彼女にとっては、そもそも、高野さんのヤサシサを試すようなこと、〔同情〕を引くようなことは、もう二度としてはならないことだったのだから。…彼女の自身の〔尊厳〕を保ちつづけるためにも。

          ※

  マヌエルはわたしの重い足どりに合わせて歩いてくれていた。

  「メルバの話を聞いたとき実は、僕はあまり感傷的にはならなかったんだよ、と言っても、君は僕をひどい人間だとは思わないよね」。マヌエルは言った。「何しろ僕は、あの子がいま直面しているような不幸は、うんざりするほど数多く見てきたからね。…僕はメルバに、できるだけ簡潔に、事務的に、こんなふうに話してやったよ。

  「僕がトゥアーガイドやタクシー運転手たちから聞いているところでは、メトロ・マニラでいま一番繁盛している店、つまり、いい稼ぎになるチャンスを女の子たちに与えている店は、[クラブ蘭]だ。このクラブはきれいな女の子を集めていて、インテリアも立派で、マネジメントがいいという評判だ。金持ちのフィリピン人も好んで客になっているぐらいだそうだ。それに、思いのほか重要なことらしいけど、客を店に連れてくるトゥアーガイドやタクシー運転手たちへのリベートも、よそよりは大きいということだ。  「メルバは真剣に耳を傾けていたよ。僕はつづけた。…当然、女の子によるのだろうけれども、大方のこと言えば、客とひと晩過ごせば、クラブに一〇〇ペソから一五〇ペソの手数料を払ったあとでも、三〇〇ペソ(一三ドル)から五〇〇ペソ(二二ドル)の稼ぎになるということだ。客からもらうチップは別にして。

  「驚いたことに、トゥリーナ、メルバは僕以上にビジネスライクだったよ。〈一週間に一人客がついたら、月収は二、〇〇〇ペソ以上になりますね〉。彼女はそう言ったんだ。〈それだけで、[さくら]での稼ぎを超えます。一週間に二人だったら、四、〇〇〇ペソ、二日に一人だったら…〉」

          ※

  十日前に[さくら]の近くの終夜営業レストランでメルバが言葉を強めて言ったことをわたしは思い出していた。〈本当に母の〔結婚相手は金持ちであればあるほど〕よかったんです。こんなことになったあとですから、わたしどうしても、そう思ってしまいます。人の幸せを保証してくれるものはお金しかないんだって考えてしまいます。何かを犠牲にしてでも追い求める値打ちがあるのはお金だけなんじゃないのかって〉

  メルバはあのときすでに、自分の家族を新たな災厄から救い出すために次に何をするかを決めていたのだった。そんな考えをわたしに聞かせながら、彼女は懸命になって、未知の、日の当たらない世界に間もなく入っていかなければならない自分を鼓舞していたのだった。

          ※

  「僕は冷静でいるように努めていたんだよ。だけどね、トゥリーナ」。マヌエルは言った。「そんな大金が稼げるほどたくさんの客が自分につくだろうかとメルバにたずねられたときには、僕は何も答えることができなかった。あの子ならすばらしいカラオケシンガーになれる、ということなら、僕にも請け合うことができたよ。でも、彼女の体をほしがる男がたくさんいるだろうかって?」

  マヌエルの声が遠く聞こえていた。

  「そんなことは僕は考えたくもなかった。そんな話はもう終わりにしたかった」。彼はつづけた。「だけど、メルバにはもう少し、知っておきたいことがあった。今度は、その商売が日本ではどうなっているかについてね」

  わたしは何の反応も示さなかった。示すことができなかった。

  「あの子は最終的な目標を日本に置いていたんだね」。マヌエルは言った。「僕はこう説明したよ。…店の〔シャチョウサン〕ミスター花田から聞いている話では、女の子は日本では、夜も昼も、二十四時間、働かなければならない。たいていは〔ヤクザ〕組織の一部である売春オペレイターの指示におとなしく従いながら。商売のやり方はいろいろあるだろうけれども、基本的には、女の子たちは、五人とか七人とか、数人ずつ、一つのアパートに住ませられ、いつ、どこで、どういう客と会え、という電話での指示を待つことになる。日本の組織は一般に能率がいいことで知られているけれども、売春オペレイターも例外ではないから、日本ではマニラでよりもうんと多くの客につけると考えていい。

  「フィリピン人売春婦の日本での〔値段〕は平均して、ひと晩だったら三〇、〇〇〇円ぐらい、USドルならだいたい一二〇ドルというところだ。女の子が受け取れるのはその半分だそうだ。…今度は僕がこう言ったよ。〈だから、メルバ、君が一か月間に二十日働けば、六〇ドルの二〇倍、一、二〇〇ドルが君の月収ということになる。君がカラオケシンガーとして初めて日本に行って稼げるはずの額の、たぶん、二倍以上だ。昼間も働けば、当然、稼ぎはもっと大きくなるわけだ。しかも、合法的なエンターテイナー・ヴィザを持って日本に行くカラオケシンガーとは違って、君は、君にその仕事をくれている組織と君自身との関係を当局に追跡されないよう、初めから非合法にトゥーリスト・ヴィザで入国するのだから、六か月ごとに一度フィリピンに戻る必要もない。君は一年を通して働くこともできるわけだ。そうすれば、君の年間収入は当然…〉」

          ※

  「メルバ自身も、頭の中で、見込み収入を計算しているようだったよ」。マヌエルはつづけた。「そこらの商店主などにも決して負けない真剣さでね。〈ところで、メルバ〉。僕は最後にこうつけ加えた。〈その仕事をくれるプロダクションや人物は注意して選ぶんだな。この商売はほとんどが〔ヤクザ〕の手で行なわれているわけだから…。外国での、非合法の仕事なのだから…。君はいつも弱い立場にあって、そこにつけ込もうとする者がいるかもしれない。君の稼ぎをかすめ取ったり、残忍に、とことん君を酷使したり…〉」

  「いいえ!」。わたしは再び大声を上げていた。「あの子はそんなことにはなりません!」

  マヌエルは静かに言った。「僕も、そんなことにならなければいいが、と思っているよ、トゥリーナ。…メルバはどう反応したと思う?」

  わたしは首を振った。

  「彼女は冷たく苦笑しながら、こう言ったよ。〈いまのわたしにできるのは、自分の幸運を祈ることだけです〉。僕は応えた。〈僕も君の幸運を祈っているよ、メルバ〉」

          ※

  わたしはメルバといっしょに幸運を祈る以上のことをしたかった。しなければならなかった。

  「とにかく、マネジャー」。哀願するようにわたしは言った。「あす、一日休ませてください。あの子に会いに行ってきますから。会って、ほかに打つ手がないかどうかを話してきますから」

  「言っただろう、トゥリーナ?」。マヌエルは言った。「遅すぎるって?」

  「いいえ、まだ間に合うかもしれません。メルバをとめることができるかもしれません」

  「あの子をとめることはもう、だれにもできないよ」

  「でも、わたし、どんなことをしてでも…」

  「その気持ちは分かるけど、君に何ができる?」

  自分に何ができるかなんて、わたしは考えてさえいなかった。それでも、わたしは答えた。「まだ何かができるかもしれません」

  「分からないのか、トゥリーナ。あの子には大金が必要なんだよ。それも、いますぐ。…あの子にくれてやる大金を君が持っているのでなければ、君はあの子の助けにはならないんだ」

          ※

  〈もしかすると、高野さんならまだ〉。数分後、負けが決まったも同然のカードゲームを逆転するための切り札でもあの人があるかのように、すがる思いで、わたしは考えていた。〈メルバを救うことができるかもしれない。高野さんは、自分はフィリピン人の苦難に対して〔アウトサイダー〕でいるしかない、と言ったけれども、これは〔フィリピン人の苦難〕なんかではないんだ。メルバの苦難なんだ。あの子の人生最大のトラブルなんだ。そんなトラブルにあの人が〔アウトサイダー〕でいられるわけはないんだ。そう、あの人だったら…〉

  「だけど、トゥリーナ」。マヌエルは言った。「君にカネがあろうとなかろうと、やはり、メルバには会おうとしない方がいい。バタンガスには行かない方がいい」

  「なぜです?」

  「第一には、あの子はもうあそこにはいないはずだからだ」

  「〔いない〕って?」

  「だから、あの子はもう働き始めているだろう、ということだ。…売春婦として。僕に会いにきたとき、あの子はそれぐらい、一日も無駄にはできないというぐらい、行動を急いでいたんだ」

  「でも、まだ、そうと決まったわけでは…」

  「あれから何日過ぎている?」

  わたしは答えなかった。自分を責めていた。メルバのことを心配しだしてからも、優柔不断にさらに数日間を過ごしてしまっていたことを悔やんでいた。

  「[クラブ蘭]にも行かないことだな、トゥリーナ」。彼はつづけた。「あそこに行ってもあの子には会えはしないと思うよ。確かに、僕はあのクラブのことを話したけど、実際に働く場所としてあんな目立つクラブをあの子が選ぶとは思えないからな。…[さくら]からも遠くはないし、とにかく日本人の男たちがよく行く店なんだから」

          ※

  [さくら]で働く多くの女たちがそうだったように、メルバが高野さんを慕っていることに気づいていたらしいマヌエルが〔高野さんだって[クラブ蘭]に顔を出さないとは限らない〕あるいは〔たとえ高野さん自身は行かなくても、あの店に通う人物があの人の友人か知人の中にいて、その人物がメルバと知り合い、知り合ったことを高野さんに話すことだってあるかもしれない〕というふうにほのめかしているらしいことには、わたしはどうにか気がついた。高野さんがそういう場所に出入りするところを想像するのは簡単ではなかったけれども、そんな可能性はないとは言いきれなかった。まして、あの人にそんな友人か知人がいるはずはない、とは…。

  〈もっと早く、高野さんに助けを求めておくべきだった〉。わたしの悔やみは、いくら悔やんでも悔やみきれないほど大きかった。〈あの人がサポーテから電話をかけてきたときに、メルバの帰りが遅い、あの子の妹たちは何か悪い知らせを持ってバタンガスから出てきたのかもしれない、とわたしの不安をあの人に告げておくべきだった。たとえ、あの子の〔尊厳〕が一時的に傷つけられるようなことになっていたとしても、わたしはそうしておくべきだった。もしあのときそう告げていれば、あの人は急遽[さくら]に戻ってきて、あの夜メルバと話し、あの子を救っていたかもしれなかった。救っていたに違いなかった。あの子はそんな世界に入らずにすんでいたに違いなかった〉

          ※

  「メルバは」。マヌエルは言った。「バタンガスに帰る前に、これからどうするかについて君に全部告げたはずだ、と僕は思い込んでいたんだ。…あの子自身が僕に、このことについては君には自分の口からじかに伝えたい、だから、自分の心の準備ができるまでは、君には話さないでいてくれ、と言っていたからね。

  「あの子に会おうとするなという第二の理由はそこだ、トゥリーナ。…あの子は本当のことを結局は君に明かさなかった。明かせなかった。なぜだったのだろう?

 「僕が思うに、トゥリーナ、あの子は君に、マニラで一番親しくなった友人である君に、自分の最後の姿を仲間のカラオケシンガーの一人として思い出してもらいたかったのじゃないかな。…これからマニラと日本で、数百人、あるいは数千人の行きずりの男たちに体を売ることになる、気の毒な女の子、としてではなくね」

          ※

  流れ出る涙をわたしは抑えることができなかった。…その涙の向こうに、タフト・アヴェニューのバス停でメルバが見せたすばらしい笑顔が見えていた。

  「だから、トゥリーナ」。マヌエルはつづけた。「もし君がこれまでどおりにメルバに優しい人間でいたいのだったら、あの子のことは放っておくことだな。あの子に起こったことで君がいまどんなふうに感じているかは、分かっているつもりだよ。だけど、いまのあの子のためには、君はあの子から静かに遠ざかっているのが―これ以上恥ずかしい思いをあの子にさせないのが―一番なんだ。それが思いやりというものだと思うよ」

          ※

  そんな言葉の裏でマヌエルは、たぶん、高野さんを彼女に会わせないようにするのもわたしの彼女への〔思いやり〕だ、と言っているはずだった。わたしはそう受け取っていた。…高野さんが土壇場で最大限の努力をしてくれればメルバはまだ救われるかもしれない、というわたしの最後の希望はとうに断たれていたのだった。

  わたしはあまりにも多くの日々を無為に過ごしていたのだった。

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