第49話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜 

 〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈四九〉



  階下で電話のベルがなったとき、[さくら]の寮にいたのはわたし一人だった。女たちのほとんどは連れ立って、映画[インディアナ・ジョーンズ・魔宮の伝説]を見に出かけていた。買い物に出た者もいた。わたしは疲れていた。わたしは残り、前夜の睡眠不足を少しでも補っておきたいと、ベッドに横たわっていた。

  ベルは鳴りつづけていた。わたしはゆっくりと階段を降りていった。

  寮に住む女の数はあのときも十人を超えていた。だからわたしは、だれへの電話だろうかとも、だれからの電話だろうかとも考えなかった。わたしへの電話ではないか、とも思う理由もないはずだった。…ブラカンの両親の家には二日前に帰り、皆の無事を確かめてきたばかりだったし、メルバが電話をかけてくることはもうなかった。高野さんからの電話は、またかかってくるとすれば、前がそうだったように、夜、それも店が忙しくなる前の時間になるに違いなかった。

  けれども、〈もしもし〉という声が聞こえた瞬間に、わたしにはその声の主がだれであるかが分かった。…たちまち、心臓が激しく鼓動し始めた。

  「トゥリーナと話したいんですけど」。控えめな口調だった。

  わたしは声を抑えて言った。「わたしです、高野さん」

  「ああ」。わたしが出るとは予期していなかったらしい高野さんは数秒間沈黙したあと、つづけた。「マニラに帰ってきたよ。ホテルの部屋からかけているんだ」

  「帰ってきたんですね、やっと…」。目に涙がにじみ始めた。

  「ああ」。また間が空いた。

  指の先で涙をぬぐいながら、わたしはあの人の次の言葉を待った。

  「トゥリーナ」。あの人は言った。「僕と会う時間はあるかな、いま?」

  「ええ」。気づいたときにはもう、そう答えていた。「でも、準備のために十五分、いえ、十分ください」

  「もちろん。じゃあ、[さくら]の前で十分後に」

  「分かりました…」。わたしはもう一度涙をぬぐった。

  高野さんはためらうこともなく電話を切った。

  受話器を胸に押し当てながら、わたしはしばらく、ほとんど呆然とした状態で、その場に立ちつくしていた。

          ※

  高野さんにこれから会うとなるとと考え始めたのは、寮への階段を昇りだしてからだった。メルバの新たな境遇をただ悲しんでいる時間はもうなくなっていた。わたしは、話の内容を怪しまれられないよう彼女のことをあの人に説明しなければならなかった。彼女への友情をそういう形で現実に示すときがきていた。

  わたしの頭にはまだ、高野さんがサポーテで出遭っている出来事のことは浮かんでいなかった。あの人は実は、そのことをわたしに話すためにマニラに帰ってきたのだ、ということに気づいたのは、さらに何分もあと、ベッドのわきの壁にかけた鏡の前で髪にブラシをかけ始めてからだった。

          ※

  通りの向こう側にある薬局の壁に背でもたれかかりながら、高野さんは新聞を読んでいた。

  わたしの心臓の鼓動はさらに速くなっていた。

  わたしは急ぎ足で通りを横切り始めた。一台の乗用車が軽くホーンを鳴らしながら、わたしの前を走り抜けていった。その音で高野さんが顔を上げた。

  高野さんははにかむような笑みを浮かべてわたしに手を振ると、ゆっくりと新聞を折りたたみ始めた。

           ※

  メルバのことをマヌエルから聞いた日から、三日が過ぎていた。

  その三日のあいだにわたしは、サポーテから電話をかけてきた高野さんをあの夜すぐにマニラに戻らせることなど、結局は、わたしにはできなかったのだ、あの人にメルバを救ってもらうことはできなかったのだ、と思うようになっていた。そう思うように努めていた。そう努めて、起こったことを何もかも、そのまま受け入れようとしていた。受け入れて、胸の中の大きな喪失感を埋めようとしていた。

  〈仮に〉とわたしは自分に言い聞かせていた。〈〔メルバの帰りが遅い〕〔あの子の妹たちは悪い知らせを持ってきたのではないか〕と聞いて、高野さんがあの夜戻ってきていたとしても、あの人が[さくら]で見ることになったのは、ドクター奥野のグループを相手した、メルバの生涯一度きりの大はしゃぎだった。あの夜、直接話す機会がメルバとあの人にあったとしても、あの子はやはり、自分の新たな苦難を、笑いでごまかし、最後まで隠しとおしていたに違いなかった。すでに固めていた決意を覆し―あえてハジを忍んで―あの子があの人に助けを求めるという可能性は、やはり、ほとんどなかったはずだった〉

          ※

  それでも、わたしの喪失感は埋まってはいなかった。

  高野さんがもし〔あの夜〕か〔二、三日後〕に戻ってきていたら、とわたしは考えずにはいられなかった。

  戻ってきていたら、約束していた〔一週間〕が過ぎてもメルバが電話をかけてこなかった時点で、高野さんは〔メルバはいとこの結婚式に出ただけではないのではないか〕と心配し始めていたに違いなかった。心配して、あの人は、バタンガスへ飛んで行っていたかもしれなかった。マヌエルは〔十日後〕わたしに〔遅すぎる〕と言ったけれども、〔一週間後〕だったら、まだ、あの人がバタンガスでメルバに会うチャンスはあったかもしれなかった。二人が会っていれば、バタンガスまで来てくれたあの人のヤサシサにうたれて、メルバは、継父によるお金の持ち逃げのことはともかく、母親の緊急入院のこと―すぐにも大金が必要なこと―は話していたかもしれなかった。

  そうでなければ…。

  どんなにしっかりしていると言っても、メルバはまだ十七歳の女の子だった。彼女は実は、その〔一週間〕を、もしかしたら高野さんが助けにやって来てくれるのではないかと、すがるような気持ちで思いながら過ごしていたのかもしれなかった。彼女は、もし高野さんが自らもう一度、助けよう、と言い出してくれれば、それを素直に受けさせてもらおう、と心の片隅で思いながら、一方で、次の世界に入っていく準備をしていたのかもしれなかった。〔一週間〕というのは、ただの思いつきではなく、彼女が自ら自分に与えたモラトリアム、待機期間だったのかもしれなかった。

  あの子は救われていたかもしれなかった。

  あのとき、わたしが高野さんをマニラに帰らせることができていたら、あるいは、高野さんが自ら〔二、三日後〕に戻ってきていたら、やはり、メルバはそんな世界に入らずにすんでいたかもしれなかった。

          ※

  わたしは、次に高野さんの顔を見ることがあれば〈〔二、三日後〕という約束でしたのに〉だとか〈どうしてこんなに長く連絡してくれなかったのですか〉だとか、いまさらどうにもならない恨み言を自分が口にするのではないか、と思っていた。メルバに代わってあの人に一度はそう言うべきではないか、とさえ感じていた。

  メルバを失ってしまった悔しさは、やはり、わたしの胸からまだ消え去ってはいなかったのだった。

           ※

  けれども、わたしの高野さんへの最初の言葉は、予期していたどんなものとも違ってしまった。

  「どうしたのですか、高野さん」。わたしの視線はあの人の、肉が落ちた頬に張りついたようになっていた。「顔色が悪いではありませんか。どこか体の具合が…」

  「いや、そんなことはないよ、トゥリーナ。…だいじょうぶだ」

  自分が元気だということを示そうとあの人はわたしに向かって両腕を大きく広げて見せた。そんな仕種を見れば、わたしがまたメルバの最後の笑みを思い出してしまうなんて、当然、あの人は知らなかった。

  声が震えないように努めながら、わたしは言った。「そうは見えません。…だって、そんなにやせてしまって」

  高野さんはほほ笑みつづけた。「ああ、いくらかは体重が減ってしまったようだけど、体調は悪くないんだよ」

  そう言い終えると、高野さんは通りの方に向かってさっと手を上げた。通りがかっていたタクシーが急ブレーキをかけて停まった。

           ※

  「マングヤリング イニハティッド モ カミ サ マカティ・コマーシャル・センター(マカティ・コマーシャル・センターまでお願いします)」。高野さんはゆっくりと運転手に告げた。

  「オイ、イカウ イ マルノング ナング タガログ (あれ、あんたタガログ語を話すじゃない)」。運転手が応えた。「お客さん、中国人?」

  「ヒンディ(いや)、日本人だよ」

  「あ、そう。いや、そうじゃないかと思っていたんだけどね。…観光?」

  「そうね…」。高野さんは、ガラスが下ろされていた窓から、特に何をということもなく外を眺めていた。「観光というには、ムクハング マシャドング マタガル アング パグティラ コ サ マイニラ (僕のマニラ滞在は長すぎるかな)」

  「ということは、ビジネスで?」

  「いや、そういうことでもないんだ」

  「ほう。…愉しくやってる?」

  「よく分からないな。ナグタモ アコ ナング マラミング カイビガング マババイット サ アキン (親切な友人がたくさんできた) ことなら分かっているんだけどね」

           ※

  わたしは気持ちが落ち着かなかった。高野さんは、邪気がなさすぎるというのでなければ、あまりに誠実すぎるのだった。タクシー運転手が示す、きりのない好奇心など無視してもかまわないのだ、ということさえ知らない人のように見えていたのだった。

  「いい友人を持つというのは、何はともあれ、いいことだよね、お客さん」。運転手はにたりと笑うと、リアヴュー・ミラーでわたしを見やりながら、あの人にたずねた。「お客さんのガールフレンド?」

  ちょっとためらったあと、苦笑混じりであの人は答えた。「そうだといいのだけどね」

  「それはお気の毒に」。運転手は大仰に言った。「すごい美人なのに」

  「そうだね」

  視線をまっすぐ前に向けたまま、わたしは高野さんの肘を軽く引いた。…運転手との会話を打ち切ってほしいというわたしの願いはすぐに伝わったようだった。

  数分後、運転手はあの人にもう何もたずねなくなっていた。あの人は無言で外の景観を眺めつづけていた。

           ※

  わたしは自分に言い聞かせていた。〈この人には…。それがどんなものであれ、サポーテで起こっていることに、こんなに身が細るほど打ち込んでしまうこの人には、メルバに起こったこと、彼女がいまどんな状態にあるかは、どうしても知られないようにしなければ。知られないためになら、やはり、どんな嘘でもつかなければ…〉

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