第50話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

  〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五〇〉



  二十分後。高野さんとわたしはアヤラ博物館のそばの公園のベンチに並んで腰を下ろしていた。

  「どこから始めようかな」。最初のタバコに火をつけると、あの人は足元に視線を下ろしながら言った。「ずいぶん日が経ってしまって…。そのあいだにいろんなことが起こったからね」

  本当に〔ずいぶん日が経ってしまって〕いた。わたしの方にも〔いろんなこと〕が起こっていた。でも、わたしは口を開かなかった。メルバのことを先に話しだす心の準備はまだできていなかったのだ。

  わたしはあの人がサポーテでの出来事について話し始めるのを待った。

  けれども、顔を上げた高野さんの口から出た言葉は、わたしが予期していたものとは違っていた。あの人は突然、微笑を浮かべながら、こうたずねてきたのだ。「ところで、メルバはどうしてる?元気?」

          ※

  「あの子は」。わたしはそこで少しためらいはしたけれども、[さくら]を出るときに恐れていたようなパニックには陥っていなかった。「あの子は、高野さん、ニホンニ イキマシタ」

  マネジャーのマヌエルと話した翌日に考えついていた―その翌日に彼が[さくら]の女たちに告げていた―嘘だった。

  「ホントウニ?」。高野さんは声を高めた。「あ、それ冗談なんだ。だろう、トゥリーナ?」

  わたしは首を横に振りながら、胸の中であの人に言った。〈メルバはわたしに、あなたへの嘘を、そうついてもらいたがっていたんですよ〉

  高野さんは眉をひそめた。「そう?行ってしまったんだ…」

  わたしはうなずいた。

  「日本に行くのは早くても来年の三月か四月になるだろうって、あの子は言っていたんだよ」

  「ええ、最初はそういう予定だったようなんですけども…」

  指に挟んだタバコからたち上る細い一筋の煙を、あのひとはしばらくぼんやりと見つめていた。

  そんなあの人を見ながらわたしは、レストラン[アリストクラット]で、あの人がタバコをつかむやいなや、メルバがいつもの習慣からあの人のライターにさっと手を差し出したことを思い出していた。

          ※

  「いつ発ったの?」

  「先週の火曜日です」

  「五日前か」。高野さんは頭の中で、過去の時間表を整理しなおそうとしているようだった。

  「あの子は実は、高野さん、あなたがサポーテから電話をかけてきた翌日から、いとこの結婚式に出るためにバタンガスに戻っていたんですけど、そのあの子のところに、あの子のプロダクションから突然連絡があって…。急に出発日を告げられて…。ばたばたと準備を整えて…」

  「そんなに急に…」

  「ええ」。そう応えてから、わたしはつけ加えた。「そんなふうでしたから、あの子を空港で見送ったのは、あの子のお母さんのほかは、わたしだけでした」

  もし、高野さんが女たちにたずね回れば、その火曜日にわたしがどこにも出かけていないことが知れる惧れがあったけれども、わたしはあえてその危険を冒すことにしたのだった。…メルバが[さくら]の仲間の―わたしを含めた―だれにも見送られずに日本へ発ったと知れば、あの人は悲しむだろう、と思ったからだった。

  わたしはいつもより饒舌になっていた。「[さくら]で前に、似たようなことを経験していませんか、高野さん?わたしたちの日本行きの予定は、いろんなことが原因で、しょっちゅう変わるんですよ。ほら、リサのときだって急に決まったでしょう?マニラ国際空港に行って、プロダクションからチケットを受け取るまで便名を知らないことだって、しばしばなんですから」

  そう説明しながらわたしは、わたしの出発日も二週間後にはやって来るかもしれないとはまだこの人には伝えない方がいいようだ、とぼんやりと考えていた。

          ※

  「あの子、不安そうじゃなかった?」。高野さんはたずねた。

  「いいえ、ちっとも」。わたしはもうためらうこともなくあの人に答えた。「というより、むしろ、ずいぶん期待しているようでした。思ったより早く日本で働けるようになったって」

  「そう…」

  わたしは言った。「でも、あの子、残念がっていました。日本へ発つ前に高野さんに会っておきたかったって」

  高野さんは自分自身に向かって一度顔をしかめてから、わたしにたずねた。「日本でのあの子のアドレスはもらってあるよね、トゥリーナ?」

  「あの子が福岡のどこかにいることは間違いないんですけど、高野さん」。わたしは答え始めた。福岡を選んだのは、自分が一度そこで働いたことがあるという理由からにすぎなかった。

  「ここでもおなじ。何という名のクラブ、パブ、バーで働くことになるのかは、日本に着いてみるまで分からないことが案外多いんですよ。日本のプロダクションが、グループで空港に着いた女の子たちを実際に見てから、それぞれが働くお店を決めることがあるからなんです。女の子に店を選ばせず、勝手を言わせず、プロダクションの仕事をやりやすくするために、そうするんですって」。まったくの嘘ではなかった。「ですから、日本での正確なアドレスは実際にその店に着いてからでないと分からないというのは、めずらしいことではないんです。でもメルバはわたしに、最初の手紙はできるだけ早く出すと約束してくれています。ですから、高野さん、あの子のアドレスはもうすぐ手に入るはずです」

  そう請け合っているあいだにも、わたしは胸の片隅で、メルバが日本から連絡してくるのを高野さんが待ちきれなくなる前にわたし自身の日本行きの日が来てくれればいいが、と願っていた。

  その〔わたしの日本行きの日〕というのは、わたしが高野さんの姿を永遠に見なくなる日でもあったのに。

          ※

  「ゲンキ ナイデスネ、高野さん」。自分が感傷的になりすぎる前に、わたしは言った。

  「そんなことはないよ、トゥリーナ。だけど…。どう言えばいいのかなな、これ。…大きな仕事が一つ終わってしまった、という感じかな。最後の仕上げのところがあまり気に入らない状態のまま」

  「高野さん、メルバはあなたと知り合えて、いい友だちになることができて、すごく幸せだったんですよ。それが高野さんの〔仕上げ〕。気に入っていい、りっぱな〔仕上げ〕だったと思います。…本当に、高野さん、あなたはあの子のためにできる最高の〔大きな仕事〕をしてきたんです」

  わたしたち三人の関係を反映する、言葉足らずのぎこちない会話だった。高野さんは自分とメルバとのあいだにあった出来事には触れなかったし、わたしはわたしで、そのことをメルバがわたしに告げていたかどうかをはっきりさせなかった。それにもかかわらず、わたしにはあの人の言おうとしていたことが分かったし、あの人にもわたしの言いたいこと理解できていたはずだった。

  「そう思えればいいのだけれども…」

  「もちろん」。わたしは言葉を強めた。「あの子は幸せでした」

  けれども、メルバが高野さんと過ごした幸せな時間はあまりにも短かった。幸せはあまりにも早くあの子の記憶の中にしまい込まれていた。

  「やっぱり、トゥリーナ、僕には分からないよ」。高野さんは言った。「僕があの子から多くのことを学んだ、あの子には多くのことを学ばせてもらった、ということなら、よく分かっているんだけどね。…人間というのはどういうふうに生きるべきなのか、というのが大仰に聞こえるなら、地にちゃんと足をつけて生きるというのはどういうことなのか、ということを含めてね。実際、あの子は僕にとって、公平で鋭い、いい批評家だった。自分自身の現実生活に根ざして物事に対応しようとするあの子の姿勢が、僕は本当に好きだった。あの子以上に人生に誠実になれる者は、そう多くはないんじゃないかな。あの子のその誠実さで僕は目を開かせられたような気がしているよ。あの子には、これからどう生きていくべきかについて考えるための重要なヒントをもらったと思っているよ。あの子には大きな借りができてしまった。いつか、どこかで、何らかの形で、その借りが返せたらいいんだけどね」

  「あなたがそう思っている限り、高野さん、何だって返すことができますよ」。できるだけ明るい声をつくって、わたしは言った。「人生は長いし、わたしたちの前途にはいくらでも時間があるのですから。そうでしょう?」

  「そうだね」。かすかな笑みがあの人の唇に浮かんで、すぐに消えた。

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