第51話  ~あるカラオケシンガーのメモワール~

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五一〉



  「メルバが日本へ発とうとしていたころ僕は」。高野さんの声にはまだ、メルバを見送ることができなかったことへの悔いが残っていた。「君が想像しているように、トゥリーナ、僕はサポーテでの出来事にすっかり気を奪われていた。ほんのちょっと[さくら]に立ち寄ってみる気にさえならないほどに…」

  「サンダリ ラマング(ちょっと待ってください)、高野さん」。わたしの頭は混乱していた。「〔ほんのちょっと立ち寄る〕って、それは、そのころマニラに一度、もしかしたら何度か、戻ってきていた、ということなんですか」

  「正直に言うと、そうなんだ」。あの人は唇をゆがめた。

  「何てことでしょう」。頭が熱くなっていた。「でしたら、なぜ…。なぜ、メルバに会いに来ようとしなかったのですか」

 「そうしなかったことを、いま、ひどく後悔しているよ」。高野さんは眉をひそめた。「だけど、マニラに戻っていたあいだの僕は、[さくら]でに限らず、どんな場所ででも、とにかく、愉しく遊ぼうという気分ではなかったんだ。映画も見たくなかったし、音楽も聴きたくなかった。歌いたくもなかった。…そういうことが、何もしたくなかった、というより、何もできなかったんだ」

  「後悔されていることは分かりますけど」。にじみ出しそうになる涙を押しとどめながら、わたしは言った。「もし、高野さん、あなたに会うことができていたら、あの子は…」

  「本当に、どんなに後悔してもし足りないと思っているよ」

          ※

  「電話で君に話したように、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「僕はあのころ、サポーテとマニラで、あることを懸命になって調べていたんだ。僕にとってはすごく重要に見えた、僕には見逃すことができなかった、あることを」

  あの人は視線を上げ、マカティのそびえ立つ高層ビル群の上に広がる青空を見上げた。

  「そうだな、初めから話すことにしようかな。いい?」。あの人はもう心を決めていた。

  わたしはうなずいた。

  「僕のサポーテでの出来事との関わりは、トゥリーナ」。あの人は話し始めた。「あとでしだいに明らかになってきたことを特に暗示するわけでもなく、こんなふうに始まったんだ。…もう二週間以上も前のある晩のこと、僕はホテルの自分の部屋にいて、みょうに、だれかと、親しいだれかと話がしたい気分だった。…もっとも、あのころはずっと、そんな気分の日がつづいていたんだけどね」

  高野さんは、やはり、[さくら]にはなるべく顔を出さないようにするというメルバとの約束を頑なに守りつづけていたのだった。…そんな気分と戦いながら。

  わたしは言った。「遊ぶというのではなく、[さくら]の友だちみんなの様子を、ほら、ちょっと見にくることだってできたでしょうに」

  「なるほどね。でも、そういう考えは頭に浮かばなかったよ」。高野さんは微笑混じりで応えた。「だから、僕はとにかく、そんな気分で、部屋でぼんやりとテレヴィを見ていた。…ヴィルマ・サントスがうんと若かったころに主演した映画だったかな。

  「だから、電話のベルが突然鳴りだしたとき、僕はすごく嬉しかった。あのころは、トゥリーナ、ほら、小林という人物のために働いていたときとは違って、友人の矢部と連絡し合うこともなかったし、電話のベルの音を聞くことなんかほとんどなかったからね。…ティムかマーヴィンが、僕が部屋で元気にしているかどうかを確かめるために、たまにロビーからかけてきてくれるぐらいで。

  「あの夜も、僕はまず、その二人のうちのどちらかからの電話だろうと思った。…ありがたかったよ。でも、違っていた。聞こえてきた言葉は日本語だったんだ。〈ゲンキカ、高野?〉」

          ※

  「いまはサウディ・アラビアのリヤドゥにいる吉田からの電話だったよ。…彼のことは覚えているよね、トゥリーナ?」

  「もちろん。…高野さん、あなたに、この国はマガンダだって言った人。そう言って、あなたをこの国に誘った人」

  「半年前に…」。高野さんはふとため息を洩らした。「もう何年も前のことだったように感じるよ」

  〈その半年間に、ずいぶんいろんなことが起こったようですからね、あなたにも〉。わたしは思った。でも、声にはしなかった。そうするには、わたしは、やはり、少し感傷的になりすぎていた。

  高野さんはつづけた。「電話は、中東に転勤した彼が初めてかけてきたものだった。久しぶりの電話だったからね、僕たちはまず、互いの健康のことをたずね合い、次には僕が彼の家族のことをたずねた。彼は少し冷笑的な口調で〈僕が知っている限りでは、みんな元気で暮らしているようだよ〉と答えた。…そうなんだ、トゥリーナ、吉田の家族はまだ日本にとどまっていたんだ。〔リヤドゥでは、マニラの日本語学校とおなじ程度の教育さえ受けさせられないから〕という理由で。日本人の夫婦には、トゥリーナ、別れて暮らさなきゃならない理由があれこれあるもんだね」。あの人の声にも冷笑が混じっていたかもしれない。

          ※

  「〈ところで、高野〉。吉田は突然声の調子を変えた」。高野さんはつづけた。「明るい、何かを喜んでいるような声だったよ。彼は言った。〈僕がマニラから一度、ロサンジェルスにいる君にテレックスを送ったことがあるの、覚えてる?〉。僕は〈ああ〉と答えたけど、記憶はまだ少しぼんやりしていた。彼は〈あれ、三年ほど前のことだよな〉と言った。〈ああ、そうだったな〉。そう応えているうちにも、僕の記憶はいくらかはっきりし始めていた。僕は言った。〈君は僕に、君の顧客二人に南カリフォルニアの、そうそう、ジャンクヤードと廃車のシュレッディング業者を何個所か見せてやってくれ、と言ってきたんだった〉。彼は応えた。〈そうだ、そうだ。ただし、正確に言えば、あの二人は必ずしも〔僕の顧客〕ではなかったけどね〉。僕は言った。〈あのテレックスのあと電話で話したときにも君がそう言ったのを、いま、思い出したよ〉

  「トゥリーナ、吉田と僕は長いあいだの友人同士で、就職先もおなじ会社になっていたんだけども、一緒に働いたことはそれまでなかったんだよね。彼は非鉄金属、僕は消費者向け電子機器、という具合に、[明和]の組織の中でそれぞれ別の部門に配属されていたからね。だから、そのテレックスを受け取ったとき僕は、彼の仕事を手伝うときがとうとうやって来たと思って、みょうに嬉しかったよ。…次の連絡が来るのが待ちきれずに、マカティから遠くないダスマリナス・ヴィレッジにあった彼の自宅にわざわざ電話をかけたぐらいにね。

  「三年ほど前のそんな出来事を思い返しながら、僕はリヤドゥの吉田に言った。〈でも、吉田、あれはなんだか奇妙な要請だったな。テレックスをもらった日に君の自宅に電話をかけたら、君は、テレックスの公式メッセージで言ってきたこととは違って、その二人のロサンジェルス訪問にはあまり真剣につき合わなくてもいい、というようなことを言ったよ〉。彼は応えた。〈覚えていたか、高野?〉。僕は言った。〈そうじゃなくて、少しずつ思い出してきているだけだよ〉。〈だから、高野、あの電話では僕らは結局、あの二人のことはあまり話さなかったよな?〉。吉田は僕にたずねた。〈僕のマニラでの暮らしのこと、君の南カリフォルニアでの、そうだな、〔孤独な〕毎日のことの方に話題を移してしまって?〉。僕は答えた。〈ああ、そうだったね〉」

          ※

  「吉田が記憶していたとおりだったよ、トゥリーナ。吉田は、由実さんと別居してカリフォルニアで暮らしている僕が必ずしもそれに満足しているわけではないということに最初に気づいた人物だったからね、あのときも僕の話をよく聞いてくれたし、僕もずいぶんしゃべったと思う。そんなふうだったから、三年前、その電話を切るころには、そのテレックスのことは二人の頭からほとんど消え去っていたんだ。

  「実際に、トゥリーナ、二週間以上前にかかってきたその電話で吉田はこう言ったんだよ。〈僕に関して言えば、三年前のあの一件は僕の記憶から完全に抜けていたんだけどね〉。僕も白状した。〈こちらも同様だよ。少なくとも、この二年間ほどは、君からのあのテレックスのことは思い出したことがなかったと思うよ〉。それから、僕は彼にたずねた。〈で、吉田、君はなぜ急にあのテレックスのことを思い出したんだ?〉

  「〈急に思い出した〕んじゃなくて、思い出させられたんだ〉と吉田は答えた。〈一昨日、マカティ・オフィスの僕の後任者…。それ、児玉という人だけどね、その人から突然、問い合わせの電話がかかってきて〉。僕はたずねた。〈〔問い合わせ〕?どんな?〉。吉田の答えはあいまいだった。〈実のところ、児玉さんがどんな目的で電話をかけてきたのかは、僕にも分かっていないんだ。あの人が僕に質問したのは、事実上、〔カヴィーテ州のサポーテで操業している[ナヴァロ・メタル]という会社のことで何か知っていることはないか〕ということだけだったからね」

  〔三年ほど前のテレックス〕と〔サポーテ〕とのつながりはまだ明確ではなかった。けれども、高野さんが話をどこへ持っていこうとしているかは、わたしにも見当がつきかけていた。

          ※

  「その会社の名は、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「僕にも馴染みがなかった。もちろん、その町の名は知っていたけどもね」

  わたしは言った。「あなたの、タバコ売りのお友だち、フェリックスの家族が住んでいるところですものね」

  「そのとおり」。あの人は応えた。「吉田は児玉さんに、そんな会社のことは聞いたことがないと答えてから、逆に児玉さんに、どうして児玉さんがそのサポーテの会社に興味を抱いているのかとたずねたそうだ。すると、児玉さんは〈いえ、その会社が[明和]のマカティ・オフィスにいくらか収入をもたらすかもしれないということが最近分かったものですからね〉と答え、吉田が次の質問をする前に〈そういうことですか。分かりました。どうも〉とつぶやいて、唐突に電話を切ったんだって。…当惑している吉田を放り出して。

  「吉田は僕に〈どうだ、はっきりしない話だろう〉と言った。〈確かにね〉と僕は応えた。〈それで?〉。吉田は答えた。〈だけどね、高野、電話が切れてから二、三分経ってから僕はまず、マカティ・オフィスで働いていたときにナヴァロという名の人物数人と知り合いになっていたことを、次には、何てことだろうね、その中に[ナヴァロ貿易]の創業社長であるミスター・ナヴァロが含まれていたこと、さらには、この社長を、ほかでもない、日本のあるスクラップメタル業者に紹介したことがあったことを思い出したんだ〉。〈〔スクラップメタル業者〕?〉と僕はたずね返した。彼は言った。〈もう、僕が言おうとしていることが分かっただろう、高野?〉

  「〈ああ、そういう気がするよ、吉田〉。と僕は答えた。〈君は、つまり、僕が三年ほど前に自ら南カリフォルニアのジャンクヤード数個所に案内したあの二人が、どうやらその後、そのミスター・ナヴァロをパートナーとして、彼らの計画を実現したらしい、と言ってるんだろう?〉。吉田は言った。〈ああ、そういうことだ。マカティの児玉さんはどこかで、僕とミスター・ナヴァロ、それにあのスクラップメタル業者…。ところで、高野、あの業者の名を覚えてるか?〉。僕の記憶はもうかなり鮮明になってきていた。〈あれは[東海メタル・リサイクリング]だったと思うけど?〉。〈そうだ、そいつだ〉と吉田は言った。〈児玉さんは僕とミスター・ナヴァロ、[東海]の三年前の関係をどこかで、たぶん偶然に、知ったんじゃないかな。知って…。そうだな、あの口調から判断すると、僕がマニラ勤務中に〔[明和]のマカティ・オフィスにいくらか収入をもたらすかもしれない〕チャンスを活かし損ねていたことを僕に思い出させたかったのかもしれないな。もし僕が当初、事をうまく扱っていたら、サポーテにある[ナヴァロ・メタル]はいまごろ、[明和]にいくらかでも手数料をもたらしていたはずだというんで。いや、僕の勝手な想像だけどな、これは〉」

          ※

  「〈だけど、高野〉と吉田はつづけた。〈児玉さんの意図はともかく、この話にはちょっと驚かないか?本当に、あの連中が、あの国際三角貿易事業計画を、実現したのだったら?〉。僕は答えた。〈君は[東海]の能力に疑問を抱いていたからな。いや、僕も君の驚きに同感するだろうけどね、もし、君とミスター・ナヴァロ、[東海メタル・リサイクリング]、それに[ナヴァロ・メタル]の関係が、君が想像しているとおりだと立証されたら〉。吉田は急いた口調で言った。〈立証できるかどうか、高野、当たってみないか?サポーテに出かけて?ああ、確かに三年前、僕はあまり彼らを高く評価していなかったよ。だけど、君と僕は間違いなく[東海]を助けた。彼らの準備に手を貸した。…三年前には、すごく野心的ではあったものの明らかに資質が欠けているように見えていた彼らが、いま、あの国際事業計画をどんな具合に運営しているかを見るのは、面白いかもしれないぞ〉。吉田もすっかり記憶を取り戻しているようだった。

  「彼は最後にこう言ったよ。〈いや、それだけじゃないよ、高野。僕らが協力していなければ創設されていなかったかもしれない[ナヴァロ・メタル]はいま、サポーテで地元の人たちを、たぶん、何十人か、雇用しているんだよ。僕らの三年前の仕事が、僕らにそういう意図があったかどうかは別にして、いまサポーテの人たちに仕事と収入をもたらしているんだよ。僕らも少しは誇りに思ってもいいのかもしれないよ、そのことでは。…高野、君は三年前に、そのマガンダな国のマガンダな人たちのためにマガンダな仕事を一つしていたのかもしれないよ〉

  「結局、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「あの夜吉田が僕に電話をかけてきたのは、それが言いたかったからだと思うよ。僕がロサンジェルスでやった仕事にもいい面があったんだというのか、ロサンジェルスでは悪いことばかりがあったわけではないのだというのか…。とにかく、この話は僕を元気づけるはずだと考えて吉田は電話をかけてくれたんだと思うよ。だから、彼はあんなに嬉しそうな声で話し始めたんだね。…電話が切れたあと、トゥリーナ、僕はしばらく、自分の胸が少しずつ温かくなっていくのを感じていたよ」

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