第52話  ~あるカラオケシンガーのメモワール~



     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五二〉



  「話を、いまサポーテで起こっていることに移す前に、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「三年ほど前にどういう状況で僕がそのテレックスを吉田から受け取ったかを、ここで説明しておくね。その方が、話が分かりやすいと思うから」

   わたしはうなずいた。

  「いや、リヤドゥの吉田から電話があったあと、その〔状況〕の詳細な部分を思い出し、記憶を整理し終えるまでには実は、思いのほか時間がかかってしまったんだよ。だって、ほら、吉田は[東海メタル・リサイクリング]を〔あまり高く評価していなかった〕し、僕への説明にも熱が入っていなかっただろう?だから、僕も自然にあの仕事を軽く見るようになっていたんだね。

  「で、トゥリーナ、整理し直した記憶を元にして説明すると…。[明和]のマカティ・オフィスでの吉田の主な仕事は、フィリピン全土で掘り出される銅やニッケルを日本の巨大な精錬所向けに買いつけることだった。その吉田を、あのテレックスが僕に届いた日の二か月ほど前のある日、二人の日本人が訪ねてきた。[明和]東京本社で働いている吉田の同僚の一人が書いた紹介状を持ってね。その日本人のうちの一人は静岡県清水市にある[東海メタル・リサイクリング]の副社長で、もう一人は仕入れ部長だった。…この二人の名前は、僕も吉田も思い出せないんだ。

  「二人は、計画し始めた事業の成功の可能性を探るためにフィリピンにやって来たのだった。[東海]が知りたがっていたのは、特に二点、一つは、フィリピン国内に製造工場を開設する外国の製造業者に適用されている、マルコス政府の関税優遇免除策について、二つ目は、賃金や労働時間、もろもろの制限規則、労働者の勤労倫理水準など、労働市場の実情についてだった。

  「吉田は通訳までしてやりながら、必要としていた情報を彼らが政府当局などから入手するのを助けた。実際に、彼らはかなりの量の、有益な情報を手に入れたはずだよ。

  「そんな情報を案外に早く手に入れることができたからだろう、彼らの関心は、では、彼らが計画している事業そのものがその優遇策の対象になるかどうかという点に移った。だって、その、彼らが計画している事業というのは実は、物を〔製造する〕のではなく、アメリカから輸入したシュレッドずみの自動車スクラップメタルを金属の種類ごとにただ選り分けるだけ、というものだったからね」

          ※

  「吉田からテレックスを受け取ってから数週間後にその二人がロサンジェルスにやって来て僕に話してくれたところでは、トゥリーナ、彼らの事業計画というのはこういうものだった。まず、自動車の利用度―つまりは廃車が出る可能性―が地球上で最も高い南カリフォルニアで定期的に、かなりな量の、シュレッドずみ自動車スクラップを買いつける。…それぞれの国内でリサイクルさせる程度の安価な値打ちしかなかったスチールを磁石で取り除いたあとのアルミニウムやステインレス・スティール、真鍮、銅などが入り混じったスクラップメタルをね。あのころ、スティール以外の金属には国際的な高い需要があったんだね。次に、そのスクラップメタルをフィリピンに輸出して、そこで金属の種類ごとに、手作業で、選り分ける。…なぜ選り分けるのかと言えば、精錬所というのは、ほかの種類の金属がごくわずかしか混入していないものは認めるものの、基本的には、たとえば、アルミニウム精錬所はアルミニウムだけしか買いつけてくれないから、ということだった。最後には、選り分けられたスクラップメタルを日本へ輸出して、精錬所に買ってもらう。

  「なぜ、わざわざフィリピンに運び込んで?君ももう分かっているように、トゥリーナ、もちろん、この国の低い労働コストを利用するためだ。[東海]の副社長は〈吉田さんに助けてもらって調べたところでは、フィリピンの労賃は日本の十分の一、あるいはそれ以下なんですよ〉と強調していたよ」

          ※

  「フィリピンでの話に戻ると…」。高野さんはつづけた。「[東海]は運が良かった。フィリピン政府の役人は、地元の住民がある程度の人数で雇用されるなら、スクラップメタルの選り分け作業だけでも、関税免除の対象にしてもいい、と回答してきたんだ。

  「[東海]の二人は喜んだ。〈出て来たかいがあった〉と吉田に感謝した。でも、二人はまだ完全には満足していなかった。彼らは吉田に、さらに、スクラップメタルの選り分け施設を[東海]と組んでフィリピンのどこかに開設しようという人物―その事業のパートナー候補者―を何人か紹介してくれないか、と頼んできたんだ。

  「この辺りから、吉田は彼らを手伝うことに気が進まなくなり始めていた。そんな事業計画を実行するには、彼らはあまりにも準備が足りないように思えたからだった。[明和]に、吉田に、甘えすぎているように感じられたからだった。…吉田がこう言ったことを僕は思い出したよ。〈パートナー候補者の当てもなしに、彼らはマニラにやって来たんだよ。しかも、二人とも、ほとんど英語が話せないんだよ。英語が話せる社員もいないようなんだよ。たとえ、パートナーが見つかり、事業を始めることができたとしても、彼らにそれを運営していく能力があるかどうか。パートナーとちゃんとやっていけるかどうか〉

  「それでも吉田は、紹介状を書いた東京本社の同僚に気を使って、彼らのために、フィリピン人実業家数人と会う機会をつくったやった。その数人の中に[ナヴァロ貿易]の社長が含まれていたわけだ。…そのことは、トゥリーナ、僕はまったく知らなかったんだけどね。ほら、二週間前に吉田から電話があるまでは。だって、三年前の時点では、[東海]の二人がマニラでだれに会ったかなんて、ロサンジェルスにいる僕が関心を抱くことではなかったからね。僕の役割は、南カリフォルニアのジャンクヤードなど数個所を二人に見せるというものに限られていたわけだからね」

          ※

  「ところで、トゥリーナ」。高野さんは言った。「吉田が何より先に考えなくてはならなかったのは、自分の会社[明和]に利益をもたらすことだよね。…現実的なことを言えば、自分の顧客の利益に先立ってでも。だから、[東海]のような〔見込み〕顧客が成功の可能性が低いと思われる事業計画を持ち込んできたときは、上司に報告した上で、吉田はそれをあっさり拒んでもよかった。その計画に関われば[明和]の信用に傷がつく惧れがあると思われる場合は、彼はその〔見込み〕顧客を、むしろ、拒まなければならなかった。

  「彼は、実際に、〔どんな形にしろ、[東海メタル・リサイクリング]が海外進出を行なうのは早すぎる〕という見方を固め、[東海]への応対を儀礼的なものにとどめることにした。そして、その決定を、電話での会話の際に僕にも伝えたわけだ。〈いまの日本では[東海]のような小規模な企業までが何らかの形で国際事業に手を出そうとしているんだなと、僕はみょうに感心させられたよ〉というコメントつきでね。

  「つまり、トゥリーナ、吉田がテレックスを、スクラップメタルを扱うはずの雑貨部門を通さずに直接僕―彼の友人―に送ってきたのは、彼のある種の妥協策だったんだね。…紹介状を書いた東京本社の同僚の顔を立て、ロサンジェルス・オフィスに[東海]の二人を案内させはするものの、成算のないそんな事業計画のことで雑貨部門を正式に煩わせるようなことはしない、という。

  「ということで、僕は時間をつくり出し、彼らを案内した。…そう、〔儀礼的〕にね。そして、彼らは日本へ帰っていった。謝礼の電話がかかってきたかもしれないけれども、正直に言うと、トゥリーナ、僕は覚えていない。その後、その事業計画がどう進んでいるかという事後報告はなかった。頓挫したのかもしれなかった。気にはならなかった。…時が過ぎていった。[東海]のことは僕の頭から急速に去っていった。

  「二週間前の吉田からの電話の背後には、トゥリーナ、まあ、ざっとそんな状況があったわけだ。[東海]のことは吉田の頭からも僕の頭からもすっかり抜けてしまっていたけれども、確かに、僕らは三年ほど前に彼らをそんなふうに助けていたんだ。吉田は彼らの能力を低く評価していたし、彼らからの連絡はその後、吉田にも僕にもなかったけれども、彼らがあの計画を何とかして実現させたという可能性はゼロではなかったんだ。

  「[ナヴァロ・メタル]…。経済不況がつづくフィリピンで―カヴィーテ州のサポーテという町で―その企業がいくらかでも人々の助けになっているとすれば、それは見てみる価値があるはずだった。…二週間前、吉田からの電話が切れたあと、僕の耳にはいつまでも、〈高野、君は三年前に、そのマガンダな国のマガンダな人たちのためにマガンダな仕事を一つしていたのかもしれないよ〉という彼の言葉が残っていたよ」

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