第53話 ~あるカラオケシンガーのメモワール

 〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五三〉



  高野さんは話しつづけた。「その電話があった日の翌朝、僕のサポーテ行きに同行してくれるようフェリックスに頼むつもりで、僕はホテルの玄関を出た。彼はちょうど、一人の客にタバコを売り終えたところだった。…彼は喜んで承諾してくれた。タバコ売りの商売を休ませるわけだから日当を出すという僕の申し出を飲んでもらうまでに、少し時間がかかったけどね。彼は、交通費を出してもらえればそれでいい、と言って退かなかったんだ。

  「数週間ぶりに家に帰ることができるというので、彼はすごく嬉しそうだったよ。…親しい友人である僕の役に立つことができそうだ、というふうにも喜んでくれていたかもしれないな。

  「フェリックスはタガログ語でこんなふうに僕にたずねたよ。〈アノ アング イヨング ハンガッド サ パグビシータ、ホ〉(どういう目的で訪ねるのですか)。僕は彼に、サポーテに[ナヴァロ・メタル]という会社があるのを知らないかとたずね返した。彼の答えは、金属を扱っているらしいカマリグ(倉庫)のことなら聞いたことがあるけれども、その〈倉庫〉が[ナヴァロ・メタル]なのかどうかは知らない、というものだった。彼はちょっと恥ずかしそうに、〈あの町から長く離れて暮らしていますから…〉とつけ加えたよ。

  「いや、実際には、トゥリーナ、僕らの会話はいま話したように滑らかに進んだわけではないんだよ。前にも言ったように、僕のタガログ語は実用的なところからはまだほど遠いし、フェリックスも英語を話すには大変な苦労を強いられる状態だからね。だけど、ジープニーでサポーテに向かっているあいだ、彼は僕との会話をすごく愉しんでいるようだった。辞書を開いて言葉を探すのがおもしろくて仕方がないというようにさえ、彼は見えたよ。…僕は彼の家族のことや商売のことをたずねた。僕にとってもすごく愉しい行程だった。

  「フェリックスの家に着くと、家にいたのは彼の弟たち、妹たちだけだった。彼らを僕に紹介するとフェリックスは、近所の家で家事手伝いの仕事をしていた母親のネナに僕が来たことを知らせにいった。…弟たち、妹たちも僕のことを知っていたよ。前にフェリックスが話してくれていたんだね。彼らは僕がみやげに持っていったキャンディーを喜んで食べてくれた。とてもいい子たちだったよ。

  「期待していたとおりに、[ナヴァロ・メタル]のことは、フェリックスが連れて帰ってきてくれたネナが知っていた。…すぐに訪ねてみようと思ったけれども、ネナは〈時間が少し早すぎますけども、軽いものをこさえますから食べていってください〉と僕を昼食に招いてくれた。フェリックスの家族に囲まれて、僕はとても愉しい食事をさせてもらったよ。昼食が終わり、後片づけが終わると、ネナは仕事に戻っていった」

          ※

  「だけど、トゥリーナ」。高野さんは言った。「僕の、そんな愉しい気分は、フェリックスと僕が彼の家から歩いて行けるところにあったそのメタル会社の表門の近くまで行ったとき、突然、さっと吹き飛ばされてしまったよ。

  「門は鉄の扉で閉ざされていて、その扉の前に、長身でがっしりした体格の男性が一人、遠目にも怒りをあらわにして、立っていたんだ。…フェリックスが急いで僕に耳打ちしてくれたところでは、男性はアルベルト・ゲラという名の、ふつうはアルと呼ばれている、町から少し離れたところにあるトウモロコシ農場のカパタス(作業長)だった。フェリックスの家からほんの一〇〇メーターほどしか離れていないところに住んでいて、フェリックスの父親が生きていたころ、父親とアルは、日曜の朝、よくいっしょに闘鶏場に出かけていた友人同士だったんだって。

  「僕らはそれ以上門に近づくのをやめて、いったい何が起こっているのか、様子を見ることにした。身を隠すところが近くになかったものだから、何となく路肩に身を寄せてね。…〔倉庫〕の中からは何の応答もないようなのに、アルは閉ざされた門扉越しに何かを叫びかけつづけていたよ。

  「ふつうの光景ではなかった。少なくとも、アルを無視して僕がその門扉をノックするような状況ではなかった。…いやな前兆?よくは分からなかったけれども、僕は不安になり始めていた。目の前の光景は、僕がうっすらと期待していたものとは大きく違っていたからね。どう見ても、マガンダには見えなかったからね」

          ※

  「やがて、僕らがそこにいることにアルベルトが気づいた。僕の隣にいる少年がだれであるかも、彼にはすぐに分かったようだった。突然、フェリックスに笑いかけてきたからね。直前までの怒りがまるで嘘だったかのように、にこやかにね。その突然の笑顔に一瞬たじろいだようだったけれども、フェリックスはアルに向かって片手を上げ、その手を軽く振って見せた。

  「僕に〈やあ〉とあいさつすると、アルはタガログ語でフェリックスと何かを話し始めた。聞き取れた会話の断片から判断すると、アルは僕が何者であるかを知りたがっているようだったよ。…そのアルベルトの表情がさっと明るくなったのはフェリックスが最後に〈シャ イ マルーノング マグサリータ ナング イングレス マブーティング マブーティ〉(この人は英語がすごくじょうずなんですよ)と言ったときだった」

          ※

  「アルは、四十歳ぐらいかな、かなりきちんとした英語をしゃべる人だったよ。…彼は、半信半疑と驚きが入り混じったような表情で〈本当に日本人なのですか、ミスター・タカノ〉とたずねてきた。僕は自分が日本人であるということに何か格別の意味があるのだろうかと思いながら答えた。〈ええ、フェリックスが説明したとおりです、ミスター・ゲラ。でも、わたしのことは浩史とよんでください〉。彼は間を置かずに応えた。〈じゃあ、ヒロシ、僕のこともアルと呼んでもらおうかな〉。僕はうなずいた。彼はつづけた。〈それにしても、驚いたな。〔フェリックスが説明したとおり〕と言うのだから、タガログ語が分かるんだね、ヒロシ、君は?〉。〈ええ、少し〉と英語で応えたのは僕ではなくて、フェリックスだったよ。

  「〈ところで、ヒロシ〉。アルベルトは言った。表情がいくらか硬くなっていたよ。〈その日本人が、僕が知っている限りでは外国人観光客など訪ねてくることがないこの町にどういうわけでやって来たのか、改めてたずねてもいいかな。…いやフェリックスによると、〔倉庫〕が見てみたいということらしいだけど?〉

  「僕は、トゥリーナ、どう答えていいかが、すぐには分からなかった。…閉ざされた鉄の扉の向こうへ投げかけられていたアルの怒りの声がまだ、僕の耳に残っていたからね。僕は〈あの会社が〉と言ってから、少しでも時間を稼ぐために、〔倉庫〕の方を指差した。〈どんなふうに経営されているかにちょっと興味があったものですから。…というのは〉。僕はそこで言葉をとめた。何かが原因で[ナヴァロ・メタル]に不満があるらしいアルには、僕にはそのメタル会社とつながりがあるようだから、とは伝えない方がいい、と感じたんだ。僕は咄嗟にこうつづけたよ。〈というのは、僕のビジネス仲間の一人が、あの会社は、外国企業とのジョイント・ヴェンチャーにフィリピンの企業がどうやれば成功するかを示す良い見本だ、と言っていたものですから〉。…セブでもサポーテでも、トゥリーナ、僕は嘘をついてばかりだね」

  わたしは無言で首を横に振った。

  高野さんは軽く苦笑してからつづけた。「〈すると、ヒロシ〉とアルは言った。〈君はフィリピン人のジョイント・ヴェンチャーパートナーを探しているわけだ?〉。少し考えてから僕は〈そうではなくて〉と言った。〈その、僕の仲間に、代わりにあの会社を見てきてくれと頼まれただけなんです〉。アルは〈そうか、この国に投資しようというのは、その仲間の方なんだ〉と言うと、大きく一度うなずいたよ。…分かった、その先は話してくれなくていい、とでもいうようにね」

          ※

  「アルは表情を改めると」。高野さんはつづけた。「僕に〈時間はある、ヒロシ?〉とたずねてきた。〈もう少し話がしたいんだ、君と。君があの〔倉庫〕を見る前に〉。僕は、ある、と答えた。アルが[ナヴァロ・メタル]に立腹している理由が聞けるのならどれだけ時間を使ってもいい、と感じたからね。彼は独り言のように〈こんな道端じゃなくて、ちょっとくつろげるところがいいな〉と言うと、彼は僕らがやって来た方に向かって歩き出した。

  「僕とアルの英語での会話をフェリックスがどれぐらい理解しているかは分からなかったけれども、彼は、アルとおなじぐらい真剣な顔つきで、僕らの数歩あとをついてきていたよ。

  「歩きながらアルが僕に自己紹介したところによると、彼は―フェリックスが簡単に説明してくれていたように―あるトウモロコシ農場の作業長で、畑で働く労働者たちを監督、指揮するほか、彼らの働き具合を上司に報告するという仕事を与えられている、ということだった。〈もっとも、現実には…〉と彼はつけ足したよ。〈現実には、仕事の内容は、労働者たちを自動車でその日の作業場に運んでいき、夕方運んで帰ることだけに限られているようなものだけどね〉」

          ※

  「フェリックスと僕がアルに最初に連れて行かれたのは、だけど、トゥリーナ」。高野さんは顔を曇らせていた。「〔ちょっとくつろげるところ〕なんかじゃなかった。…地元の小さな診療所でね。…アルの甥の一人で、ルーベンという名の、まだ幼い男の子が、そこのベッドの上に寝かせられていたんだ。体のあちこちを包帯で巻かれてね」

  「かわいそうに」。その子がそうなった事情は分からないまま、思わず、わたしはつぶやいていた。

  「ルーベンは四歳だということだった。…両足の先から腰の辺りまでと両手、さらには両腕の先の方が包帯で巻かれていたよ」

  「ひどいけが」。上の娘、テレサとほとんどおなじ年頃のその男の子に、わたしはすっかり同情していた。

  高野さんは顔をしかめながら答えた。「火傷を負っていたんだ」

  「〔火傷〕…」

  「つきっきりでルーベンを介護していた母親―アルの妹―ヴェロニカに僕は、トゥリーナ、いま思えば、ずいぶん的外れな質問をしてしまったよ。〈ナグラーロ バ シャ ナング アポイ (この子は火遊びをしていたんですか)〉とたずねてしまったんだ。ヴェロニカは激しく首を横に振りながら答えたよ。〈ヒンディ(いいえ)!〉

  「そのときの僕は、トゥリーナ、なぜか、ルーベンの火傷と[ナヴァロ・メタル]を関連させては考えていなかったんだ。たぶん、包帯を巻かれて横たわっていたルーベンの姿にすっかり気を取られてしまっていたからなんだろうね。アルはそのメタル会社のことを話すつもりで―その話にきっかけをつけるつもりで―僕をそこに連れていっていたのに違いなかったのにね」

          ※

  「そのあとの説明はアルが引き受けた。…ルーベンに何が起こったのか。起こったあと何があったのか。

  「自分の家からあまり遠くないところの路上をひどく苦しみながらルーベンが歩いているのを近所の女性が見つけたのは、その五日前のことだった。その女性はひと目で、ルーベンが、特に両足に、ひどい炎症を起こしていることに気づいた。ルーベンを腕に抱き上げると、その女性は大急ぎでヴェロニカの家に向かった。その光景を見た人たちのなかの何人かが女性を手助けした。家ではヴェロニカが家族のために夕食の支度をしているところだった。

  「鉄工である、彼女の夫、ブルーノは、数か月前に仕事仲間の一人と口論したあと、その男を殴ってけがを負わせ、まだ刑務所に入れられていて、家にはいなかった。…マルコス大統領の熱心な支持者である―暗殺されたアキノ元上院議員の国家的指導者としての潜在能力を強く疑っていた―ブルーノを、その仲間の男が皆の前でひどくからかったことが原因だったんだそうだ。…フィリピンの巷では、トゥリーナ、まだ、政治がそんなふうに熱いんだね」

  両親が住んでいるブラカンの町も〔そんなふうに熱い〕町の一つなのかもしれなかった。あの町でも、町民たちは選挙のたびに、マルコス派と反マルコス派に、つまりは、たぶん、すでに権力とお金の流れの近くにいる人々とこれから違う形の流れに近づきたい人々に分かれて、底辺の支持者たちにいたるまで、それは激しく戦い合っていたのだ。

  「ルーベンのけがを見て」。高野さんはつづけた。「ヴェロニカはたちまち動転してしまったけれども、自分が落ち着いていなければならないこと、息子の不幸をただ悲しんでいるときではないことは分かっていた。ルーベンを運んできてくれた人たちに手を貸してもらって、彼女は全速力で息子を診療所まで連れていった。

  「ルーベンを最初に発見した女性を含めてだれ一人、この子がどこで、何で、なぜそんなにひどい火傷を負っていたかは知らなかった。…医者の診断によると、ルーベンの火傷はアシム(酸)によるものだった」

  「酸ですか」。わたしはつぶやいた。「酸に触れたのですか、近所で?」

  わたしがそうたずねたのは、ブラカン州の、わたしの実家がある町から遠くないメイカウアヤンという町では金細工が盛んで、そこでは、金から不純物を取り除くために、人々は日常的に酸を使用しているということを聞いていたからだった。そんな町でなら、確かに、幼い子供が誤って酸に触れる危険もあるに違いなかった。…でも、サポーテでも金細工が盛んなのかどうかについては、わたしには知識がなかった。

          ※

  そんなことを考えたあとだった、わたしが〈ちょっと待って〉と思ったのは。わたしは自分にたずねた。〈わたしが聞いている話はいったい何なのだろう〉

  高野さんの話は、あの人から聞くことになるだろうとわたしが予想していたものとは明らかに異なっていた。

  苦難や災厄に見舞われていたのは、どうやら、あの人の大事な友人であるフェリックスの家族ではなさそうだった。フェリックスの家族の問題に関わり合っていたから高野さんはマニラに戻ってこられなかったのだ、というわたしの思い込みは間違っていたようだった。災難に出遭っていたのは、真実気の毒ではあるものの、あの人とのあいだに親しい関係などまるでなかった、サポーテでたまたま出会っただけのアルという人物の妹の家族だった。

  〈そうだとしたら〉。わたしは思った。〈メルバを妹たちが訪ねてきた日―高野さんがサポーテから電話をかけてきた夜―わたしがもう少し強く、もう少しじょうずに説得していたら、あの人は[さくら]に戻ってきていたかもしれなかった。戻ってきて、メルバをあの子のシカタガナイ運命から救い出していたかもしれなかった〉。…わたしは、やはり、そう後悔せずにはいられなかった。後悔して、自分の無策を責めずにはいられなかった。

          ※

  「そう、近所でね」。高野さんは答えた。「ルーベンは自分の家の近くで遊んでいて、酸で火傷したんだ。でも、知らせを受けてアルが診療所に駆けつけたときにはまだ、その子がどこでどんなふうに火傷したのかは、だれも知らなかった。

  「ルーベンがどういう状況でそんなにひどい火傷を負ったのかを調べようという、ある種のティームみたいなものが、いつの間にかできあがっていた。…彼を診療所まで運ぶのを手伝った人たちとヴェロニカの親類の者たちのあいだに。自然に、アルをリーダーとして。近所の人たちは、ルーベンがどこかで事故に遭ったとしての話だけど、それとおなじ事故が自分たちの子供たちにも起きることを心配していたんだ」

  高野さんの話がそこからどこへ向かおうとしているかがわたしにも見え始めていた。…フェリックスの役割は、やはり、サポーテまで高野さんに同行し、あの人を[ナヴァロ・メタル]まで案内することに限られていたのだった。それ以上ではなかったのだった。

  〈あの夜、わたしがもう少し…〉。わたしの心は沈みきっていた。

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