第54話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五四〉



  高野さんは話をつづけた。「そのティームが最初に知ったのは、ルーベンは何人かの年上の遊び仲間たちと、そう、トゥリーナ、例の〔倉庫〕の、裏の〔空き地〕近くで遊んでいたということだった」

  あの人の声に緊張感が混じり始めていた。

  〔倉庫〕〔[ナヴァロ・メタル]〕〔[明和商事]〕〔吉田さん〕〔三年前〕〔[東海メタル・リサイクリング]〕〔火傷〕…。そんな言葉がわたしの頭の中に次々と浮かんでは、互いに結びつくことなく、消えていっていた。

  「〔倉庫〕は一年ほど前に、製材所だったところを改造して、操業を開始していた」。高野さんは言った。「建物の裏には、木製の塀で囲まれたかなり広い〔空き地〕があるそうだ。…アルたちに次に分かったのは、まだ傷を負っていないルーベンが、その木製の塀と地面とのあいだに空いていた〔猫しか通らないような〕小さな隙間を這い抜けて〔空き地〕に入った、ということだった。遊び仲間の一人が遠くから見ていたのだそうだ。…そのことをその子が特に気にとめなかったのは、この〔空き地〕はふだんから〔倉庫〕のガードマンたちがまったく注意を払っていないところだったかららしい。

  「アルのそんな話に耳を傾けながら、トゥリーナ、僕は神経を張りつめていたよ。だって、そのとき僕が聞いていたのは、吉田と電話で話したあと、僕がサポーテで聞きたいものだと思うようになっていたものとはひどく違っていたからね。そうだろう?」

  そうだった。高野さんは、もしかしたらマガンダな話が聞けるかもしれない、と思ってサポーテに行っていたのだった。

  わたしは、メルバのためにもっと何かができていたかもしれないという後悔に捉えられていて、あの人がサポーテに向かった目的のことを忘れかけていたのだった。

  「僕が表情を暗くしている理由を誤解したのだろうね」。高野さんは言った。「アルは突然こう言ったよ。〈クレゾールの匂いを嗅がせすぎたかな、ヒロシ。場所を変えて話そうか〉

  「僕たちはまた通りを歩き始めた。今度はフェリックスと僕がアルを挟む形でね」

          ※

  「アルのティームは次の朝、それまでに明らかになっていた事実を確認し合うと、ルーベンが〔空き地〕に入ったあとそこで何が起こったのかを知るために、〔倉庫〕の責任者、マルティネスという人物をたずねることにした。…門の大きな鉄扉の一部に設けられている通用扉から数歩入ったところで待たされていたアルたちの応対に出てきたのは、マルティネスではなくて、そのアシスタント、カスティーヨだった。アルはルーベンに何があったかを話し、事故が起こった状況を説明してくれるよう彼に求めた。カスティーヨはガードマンたちにアルたちを門の外で待たせるよう指示すると、そういう要求があったことをとりあえずマルティネスに報告してくると言って、オフィスに戻っていった。

  「カスティーヨはアルたちのところにすぐには戻ってこなかった。アルは門柱と扉の透き間から何度も中を覗いた。人々は何事もなかったかのように、淡々とそれぞれの作業をつづけていた。アルは扉の向こう側のガードマンたちに、カスティーヨかマルティネスを呼んできてくれるよう訴え始めた。何の反応もなかった。三〇分ほどが過ぎた。ティームの中の一人が立腹して、閉ざされたままの通用扉を何度か蹴った。やはり、反応はなかった。  「通用扉がほんの三〇センチメーターほど開いたのは小一時間経ってからだった。ガードマンの一人が無言で一枚の紙片を差し出していた。アルがそれを受け取ると、ガードマンは、やはり無言でさっと扉を閉じた。…アシスタントのカスティーヨの署名がある短い文書だった。〔[ナヴァロ・メタル]は、当社の私的建造物内に無断で侵入した者に起こったことについては当社が責任を取る理由は一切ない、と考えている〕という内容だった」

          ※

  「アルと彼の親類の者、それに近所の人たちは〔倉庫〕のその対応にいっそう腹を立てたけれども、これからどうするかを話し合うために、いったんアルの家に引き揚げることにした。明らかになっていたのは〔[ナヴァロ・メタル]はその敷地内で事故があったことを否定していない〕ということだった。ティームの意見は、〔倉庫〕に責任を取らせるべきかどうかについての議論は後回しにして、〔〔倉庫〕の近所の住人たちはルーベンに起こったことが再発することを恐れている〕〔事故が起こったとすれば、二度と起こらないように改めてほしい〕ということは明確に[ナヴァロ]に伝えた方がいい、という点で一致した。彼らは、翌朝もう一度そろって〔倉庫〕を訪ねることを決めた。

  「一夜が明けた。アルは、前の日に約束した時間に皆がヴェロニカ―ルーベンの母親―の家に集まってくるのを待っていた。だけども、おかしなことに、近所の人たちはだれも姿を現さなかった。三十分間待ったあと、アルは自分の親類の男性二人に、来なかった人たちの様子を見てくるよう指示した。ますますおかしなことに、だれも自宅にはいなかった。…彼らは勘違いをして直接〔倉庫〕に行ったのかもしれない、という希望的観測が間違っていたことは、アルと彼の親類たちが〔倉庫〕の門が見えるところに着いた時点で分かった。鉄の扉の前には、緊張した様子でガードマンが二人立っているだけだったからね。

  「そのガードマン二人は、アルたちとは地元の行事などを通じて互いに知り合っている仲だった。だけど、この日の彼らの態度は、そんなことを忘れでもしたかのように、初めからまるで冷ややかだった。前の日と違って、アルたちのメッセージをマルティネスに取り次ごうともしなかった。…暴徒に囲まれた鎮圧部隊の警官が見せるようなひどい張りつめ方で、無言でそこに突っ立っているだけだった。そう対応するようマルティネスに命じられているのに違いなかった。…成果は何もないまま、アルたちはヴェロニカの家に引き揚げた」

          ※

  「前日の約束を破って二度目の〔倉庫〕訪問に姿を見せなかった近所の人たちのうちの一人に診療所からの帰り道でアルがたまたま出合ったのは、その日の午後遅い時間だった。…口の重いその人物から、その朝出てこなかった理由をアルはどうにか聞き出すことができた。その人物はまず、トゥリーナ、苦々しい口調で〈俺の妹の夫が〔倉庫〕に雇われているからな〉とアルに告げたそうだ」

  「ああ」。わたしの口からため息が洩れた。

  「アルはすかさず〈何かあったんだな?〉とその人物にたずねた。答えは〈いや、実は、昨夜遅く、〔倉庫〕のアシスタント・マネジャー、カスティーヨがやって来てね。…地元のためにならないから無用な騒音は立てないでくれと、まあ、頼み込まれたんだ〉というものだった」

  「〔地元のため〕?」

  「その人物によると、トゥリーナ、カスティーヨはこんなふうに話したそうだよ。…[ナヴァロ・メタル]は地元住民数十人に仕事を提供して、町の経済活性化にも貢献している。現にあんたの妹のダンナも〔倉庫〕に雇われて暮らしを立てているではないか。その[倉庫]をこの町で健全に運営していくためには、会社にナカヤヤモット―不快な―ことはいっさい起こってはならない。あまり起こるようだと、〔倉庫〕はどこか遠くのほかの町に移ることになるかもしれない。国の経済がこんなに悪いときだから、代わりに進出してくる企業があるとは思えない。サポーテの住人としては、何としても〔倉庫〕にこの町で操業しつづけてもらった方がいいだろう。

  「その〔不快なこと〕が、アルたちが〔倉庫〕に押しかけることだってことは、その人物にもすぐに分かった。その人物はアルに言った。〈〔無用な騒音〕を立てたら、お前の妹のダンナを首にするぞ、とまではカスティーヨは言わなかったけども、とにかく、俺は妹の夫に大事な仕事を失わせるわけにはいかないだろう?〉」

          ※

  「それから数時間後には、約束を破った近所の人たち全員を前夜カスティーヨが訪ねていたことをアルは調べ出していた。アルにも、[ナヴァロ]が何を町にもたらしているかは分かっていた。けれども、彼らがやっているのは、事実上、脅迫だった。彼らの、ルーベンの事故の扱い方はあまりにもナパカハマック(卑劣)だった。…アルの怒りはますます大きくなっていった。その夜アルは、何が何でも、一人きりででも、それが〔倉庫〕にどんなに〔不快なこと〕であれ、ルーベンの火傷に関する事実は全部明るみに出してやろうと決心していた。わけが分からないまま、体を包帯で巻かれて、診療所のベッドの上で苦しんでいるルーベンのためにもそうするべきだ、と信じていた。

  「アルは改めてマルティネスとカスティーヨの対応を振り返ってみた。何かが匂っていた。[ナヴァロ]の敷地内で何かおかしなことが起こっていたのかもしれなかった。火傷は単純な事故ではなかったのかもしれなかった。〈いや、まだ、不法なことやそれに近いことがあったのではないか、と言っているんじゃないんだよ、ヒロシ〉。アルは僕に言った。〈だけど、ルーベンの火傷が単にあの子の不注意によるものだったとしたら、連中のあんな態度が理解できないじゃないか。あんなに頑固に僕たちとの面会を拒む理由、それに、面会を求めた、あの子の近所の人たちを脅して〔騒音〕を立てさせまいした理由が、分からないじゃないか〉」

          ※

  「その〔理由〕というのが、高野さん」。わたしはたずねた。「あなたが先日電話で〔はっきりさせたい〕と言われていたことなんですね?」

  「そうなんだ、トゥリーナ。なにしろ、アルは、[ナヴァロ・メタル]の敷地内で何か〔不法なこと〕が行なわれたためにルーベンは火傷をしたのではないかと疑っていたのだからね。いや、正直に言うと、トゥリーナ、その〔不法な〕という言葉を聞いた瞬間、自分の心臓の鼓動音が耳に聞こえ始めたほど、僕はショックを受けていたよ。どう表現していいか分からないほど悲惨な気持ちになっていたよ。だって、もしも、そのメタル会社が、吉田が考えているように、そして、僕も信じ始めていたように、[東海メタル・リサイクリング]と[ナヴァロ貿易]のジョイント・ヴェンチャーだとしたら、もしも、[ナヴァロ・メタル]がその敷地の中で何か〔不法なこと〕をしていたとしたら、幼いルーベンにひどい火傷を負わせた責任は、三年前に[東海]の副社長たちを手助けした僕と吉田にもあるわけだからね。あのとき僕たちが彼らの手助けをしていなければ、ルーベンはそんな目に遭ってはいなかったわけだからね」

          ※

  あの人はそんなふうに物を考える人だった。そんなふうに考えずにはいられない人だった。メルバを妹たちが訪ねてきた日の夕方、サポーテから電話をかけてきたときのあの人は、ルーベンという男の子への罪の意識にそんなふうに捉えられていたのだった。捉えられて、身動きができなくなっていたのだった。

  サポーテでは、気の毒なルーベンとともに、ほかのだれでもない、高野さん自身が途方もなく大きなトラブルに遭遇していたのだった。

          ※

  そんな状況にあった高野さんにはメルバを救い出してやることなど、結局は、できていなかったのだ、あの人をマニラに戻らせることは、やはり、わたしにはできていなかったのだ、ということに気づいたあとでも、わたしの心は、当然、少しも慰められてはいなかった。

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