第55話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五五〉



  「それから数分後」。高野さんは話をつづけた。「僕とフェリックスはアルの家のソファーに座っていた。だけど、トゥリーナ、ルーベンがベッドに横たえられていたあの診療所よりもそのリヴィングルームの方が〔くつろげる〕ところだったかどうか、僕は分からなかったよ。だって、アルの話を聞いて、僕は緊張しきっていたからね。

  「フェリックスは好奇心にあふれた目つきで、部屋中を見渡していた。…アルの家は、フェリックスの母親たちの住まいよりは何倍も大きいようだったし、マニラ動物園の近くにあるという彼の叔母の〔小屋〕よりは、たぶん、ずいぶんましな家具が置いてあったはずだからね。

  「アルは数分間かけて、一冊のアルバムを探し出してきた。中に、アルとフェリックスの父親が収まった何年も前の写真が何枚かあったんだ。写真がいつごろ、どんな機会に撮られたものかをアルに説明してもらって、フェリックスはすごく懐かしがっていた。

  「フェリックスがまだ写真を見ているあいだに、アルは僕に話し始めた。〈甥のルーベン、妹のヴェロニカに代わって、ヒロシ、僕はそのあとも、朝といわず昼といわず、何回も、〔倉庫〕に行ったんだよ。火傷が起こった状況を説明してもらう、そう、権利が、二人にはあるだろう?だけど、やはり、反応はなかった。マルティネスにもカスティーヨにも会えなかった。無視されたままだった。最後の何回かは、ガードマンたちと視線を合わせることさえできなかった。…そのままではどうにもならないから、従業員を何人か、それぞれ個別に、帰宅途中で捕まえて、中の様子を聞き出そうともしたんだよ。でも、彼らも、僕の顔を見ると口を固くつぐんででしまって、何も話してはくれなかった。彼らの表情から判断すると、〔倉庫〕は従業員たちに、ルーベンの親類たちとは絶対に口をきくな、と命令しているようだったな〉」

          ※

  「トゥリーナ、アルはひどく苛立っていたよ。堪忍袋の緒を切る、というところまでは行っていなかったけれども、ほら、僕が目撃したように、閉ざされた鉄の大扉越しに大声で悪態をついてしまうほどにはね。彼はこう言った。〈本当のことを言うと、ヒロシ、何だか困りきったような様子であそこに立っていた君とフェリックスを見つけたとき、僕は、君が日本人であることがほぼ一〇〇パーセント分かっていたんだよ。…フェリックスにたずねる前に。分かって、内心で、すごく喜んでいたんだよ〉。僕は言った。〈フェリックスにずいぶん大きな笑みを見せていましたよ〉。〈そうだった?〉とアルはそこでもにやりと笑いながら言った。〈僕は自分が思っている以上に正直な人間なのかな〉。僕には答えようがなかった。アルはつづけた。〈なぜ喜んだかと言えば、それは、君は僕に突破口をもたらしてくれる人間だ、と直感したからなんだ〉

  「〈〔突破口〕?〉。僕はたずねた。彼は〈ああ〉と答えた。〈と言うのは、ヒロシ…。少し回りくどい話し方になるけども…。マルティネスが僕と会うことをあんなに頑固に拒みつづけるのはなぜだろう、とよく考えてみた結果、僕は、こんな事件に関しては、外部の者と話す権限が彼―〔倉庫〕で働いている人間たち―には与えられていないのではないか、と思うようになったんだ。マカティのどこかに本社があるらしい[ナヴァロ・メタル]は〔倉庫〕に、その責任者であるマルティネスに、自由な裁量権を与えてはいないのではないか、とね〉

  「〈ところで、ヒロシ〉。アルはつづけた。〈君はさっき〔倉庫〕の前で、〔あの会社は、外国企業とのジョイント・ヴェンチャーにフィリピンの企業がどうやれば成功するかを示す良い見本だ〕〉と君の友人が話していた、と言ったよね。ああ、そうなんだ。[ナヴァロ・メタル]は外国企業とフィリピン企業のジョイント・ヴェンチャーなんだ。で、そのフィリピン企業というのが…〉

  「僕の緊張はほとんど頂点に達していたよ、トゥリーナ。そんなことは知らないアルは淡々とつづけた。〈[ナヴァロ貿易]という会社だというところまでは僕も知っているのだけども〉

  わたしの口から思わずため息が洩れた。

  「そうなんだ、トゥリーナ」。高野さんは言った。「[ナヴァロ・メタル]の親会社の一つは、やはり、吉田が[東海]に紹介した、あの[ナヴァロ貿易]だったんだ。…少なくとも、おなじ名の会社だったんだ。…胸が凍えていたよ。包帯を巻かれたルーベンの姿が目に浮かんでいたよ。そして、アルは次に、その外国企業の名を告げようとしていた。告げるはずだった」  わたしの胸も冷たいもので満たされていた。

          ※

  「でも、トゥリーナ」。高野さんは言った。「アルの口から出た次の言葉は、僕が耳にしたくないと感じていたものとは少し違っていたよ。彼はこう言ったんだ。〈ここに、ヒロシ、一つ問題があるんだ。というのは、その外国企業というのが日本の会社だってことは、僕も聞き知っているのだけれども…〉。〈〔知っているのだけれども〕?〉。恐る恐る、僕は先を促した。アルは応えた。〈それがどういう会社なのだか、僕はまったく知らないんだ。…会社の名も、所在地も。…何も〉

  「言葉はおかしいかもしれないけれども、トゥリーナ、まだ、〔有罪評決〕は出ていなかった。その日本企業というのは[東海]ではないのかもしれなかった。[東海]とは話だけに終わった事業を[ナヴァロ貿易]はほかのだれかと始めていたのかもしれなかった。…[東海]でなければ自分の良心の痛みがすべて解消してしまいでもするかのように、僕はそんなことを考えていたよ。

  「〈なぜそれが〔問題〕なのかって?〉とアルはつづけた。〈それは、この町の多くの住人に知れ渡っていることだけれども、フィリピン側のヴェンチャー・パートナーである[ナヴァロ貿易]が、実は、その日本のパートナーに経営上の主な決定権を握られ、支配されているも同然だからなんだ。つまり、マルティネスと同様に、[ナヴァロ貿易]にも、この事件を扱う裁量権がないのかもしれないからなんだ。…その日本の会社が[ナヴァロ貿易]をそこまで支配しているとしたら、僕はそれがどういう会社なのか知らなければならないだろう?[ナヴァロ・メタル]やその親会社の一つである、何の権限も持っていない[ナヴァロ貿易]を相手にしていたって何にもならないだろう?僕は、ルーベンに火傷を負わせた責任を最終的に取らなければならないのはだれなのか、あるいは、責任逃れの方針を最終的に決めたのはだれなのかを、知る必要があるだろう?そうしなければ、甥っ子のために、僕は何もしてやれないじゃないか。それでは、あの子がかわいそうじゃないか。…そんなふうに考えて僕が行動を始めたところへ、ヒロシ、君はやって来たわけだ〉」

          ※

  「アルは肩をすくめてから言った。〈本当のことを言うと、最初は、ほんの一瞬のことだったけれども、僕は君がその日本の会社の役員の一人かもしれないと思ったんだよ。たとえば、〔倉庫〕の運営を検分しにやって来た…。だけど、君は、ほら、僕の友人、この土地の若者、フェリックスといっしょにいるじゃないか。もし、君が日本の会社の役員の一人なら、〔倉庫〕のだれかが君に同行しているはずだよね。…実際、君はそういう人物ではないんだろう?〉

  「そのアルの質問には胸が痛んだよ、トゥリーナ。僕は〔そういう人物〕ではなかったけれども、ルーベンの火傷については、その人物と似たような役割を果たしていたかもしれなかったからね。…でも、僕は何とか首を横に振った。それを見て、アルは安堵したようだった。彼は笑顔を見せると、こう言った。〈だったら、ヒロシ、僕の頼みを聞いてくれないか〉。僕はどうとも取れる笑みを浮かべるしかできなかった。

  「アルは真剣だった。〈僕のために、いや、ルーベンのために、ヴェロニカのために、その日本の会社に関する情報を手に入れてくれないか。どんなことでもいいんだ。君は日本人だ。[ナヴァロ・メタル]の連中はまだ、だれも君のことを知らない。君だったら、[ナヴァロ・メタル]にも[ナヴァロ貿易]にも電話がかけやすい。怪しまれずに何でもたずねることができる〉

  「僕はアルに約束したよ。マニラに戻ったらやってみる、とね。でも、トゥリーナ、僕の頭の中では、そのことはもう、〔アルのため〕ではなかった。だって、状況は[東海メタル・リサイクリング]がルーベンに火傷を負わせた企業の一つかもしれないというような状況になっていたわけだからね。それは僕自身のためにやらなければならないことだった。僕自身がどうしても知りたい―知っておかなければならない―ことだった」

  わたしの胸にまた、メルバがバス停で見せた大きな笑顔が浮かんでいた。…売春の世界に身を投じることを決意したあの子がバタンガスへの道を辿っていたとき、高野さんは、あの人の頭の中に敷かれた、行方の定かではない軌道の上を、そんなふうに走り始めていたのだった。

          ※

  「その日、マニラに戻る途中のジープニーの中では」。高野さんは言った。「フェリックスは黙りつづけていた。僕も同様だった。…辞典があの子の手の中で落ち着き悪そうに見えていたよ。マニラ動物園の近くでジープニーを降りたときのあの子はほとんど僕と変わらないぐらい疲れているようだった。あの子の田舎で、事が僕の期待とはまったく違って展開したことにやはり、あの子も気づいていたんだね。

  「ホテルの部屋に戻り、シャワーを浴びたあとでも、サポーテで見聞きしたことが次から次へと頭に浮かんできて、僕の気は少しも静まらなかった。幼いルーベンが負ったひどい火傷。抑圧的で敵対的なマルティネスの態度。アルの怒り声。固く閉ざされた門。

  「なのに、トゥリーナ」。あの人は冷たくほほ笑んだ。「今度はセブ島でのときと違って、一時身を遊ばせるビーチが近くにはなかった。日光浴をするプールサイドもなかった。…僕はただベッドの上に寝転がっているしかなかったよ」

  〈あなたには[さくら]があったのに〉とは、もう言わなかった。いまさら言っても、どうにもならないことだった。

          ※

  「次にするべきことを思いついたのは、だいぶ時間が経ってからだった。僕は[ナヴァロ貿易]と[ナヴァロ・メタル]の電話番号を調べた。会社は共にマカティ市内にあった。部屋番号までは分からなかったけれども、とにかく、おなじアドレスだった。僕は、電話は[ナヴァロ貿易]にかけることに決めた。[ナヴァロ・メタル]にかけたのではあまりに直接的すぎるような気がしたし、僕が何かを探っていることが〔倉庫〕に知れて、怪しまれ、アルの行動に悪い影響を与えるかもしれないかったからね。…どちらにかけてもおなじ人物が出る、という可能性もあったのだろうけどね。

  「そのあと僕は、翌朝電話で相手とどんなふうに話をすればいいかを考えようとした。…セブ島でもそうしたように、自分が何者であるかを隠して必要な情報を聞き出さなければならなかったからね。アルとの関係を察知されてもならなかったからね。

  「だけど、トゥリーナ、僕の頭はあの晩、あまり働かなかった。…そのうちに僕はふと、こう考え始めた。たとえ[ナヴァロ・メタル]の日本側の親会社が[東海]だったとしても、その[東海]が[ナヴァロ貿易]を〔支配〕していないのだったら、あるいは、[東海]が[ナヴァロ・メタル]と[ナヴァロ貿易]に〔自由裁量権〕を与えていたのだとしたら?つまり、ルーベンが出遭った事故をあんなふうに処理しようと最終的に決めたのが〔日本の会社〕ではなく〔フィリピンの会社〕である[ナヴァロ貿易]だったら?…僕自身の責任が軽くなる?

  「僕はまだ、自分を少しでも精神的に楽な場所に持っていこうとしていたんだね。そして、その数分後には、僕はこう考えるようになっていた。…ところで、そもそも、ジョイント・ヴェンチャーの片方の会社がもう一方を〔支配〕することが本当に可能なのだろうか。可能だとしたら、どんなふうに?…もし、可能ではないとしたら?

  「僕は、[ナヴァロ貿易]に電話をかける前に、まずその〔裁量権〕のことを知るべきだと思った。僕はリヤドゥの吉田に電話をかけてそのことをたずねてみることにしたよ」

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