第56話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜


     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五六〉



  「案外早くまた僕と話すことになったので」。高野さんはつづけた。「吉田は少し驚いていた。僕は、サポーテに行ってきたとは言わずに―そのことをたずねられる前に―急いで、事務的に、フィリピン企業と外国企業がフィリピン国内でジョイント・ヴェンチャーを始める際に必要な出資条件がどういうものかを彼に質問した。ある企業がある企業を〔支配〕できるとすれば、それは出資額の大小を基にしているはずだ、と思ったからね。吉田は〈サポーテに行って[ナヴァロ・メタル]の人間と話すのに備えて知識を増やしておこう、というわけだな?〉とたずね返してきた。僕は〈まあ、そんなところだ〉と答えた。

  「トゥリーナ、吉田はこんなふうに説明してくれたよ。…フィリピン政府は現在、フィリピン国内に企業体を設立しようという外国企業については、その出資が新企業体の設立資本の四九パーセントを超えてはならない、と規制している。つまり、新企業体は常に、フィリピンの企業か個人かを相手とした何らかの形のジョイント・ヴェンチャーでなければならないし、そのヴェンチャーの所有権の過半数はフィリピンの企業か個人に属していなければならない、ということだ。この規制は、良く言えば、外国企業とのジョイント・ヴェンチャーという形でフィリピン国内の産業を発展、活性化させながら、一方で、独立したフィリピン人企業家を育てよう、というマルコス政府の考えをそのまま率直に反映させたものだ。僕は〈悪く言えば?〉とたずねた。〈悪く言えば…〉。吉田の答えはあいまいだった。〈何しろ、マルコス政権だからな…〉

  「〈じゃあ、吉田〉。僕はまたたずねた。〈とにかく、外国企業がパートナーであるフィリピン企業を事実上支配するというようなことはありえないんだな?〉。〈建前はそうなんだけれども〉。少し皮肉が混じった声で吉田は答えたよ。〈現実には、大望を抱いた、事業熱心なフィリピン人にはみな、法律に定められたとおりに五一パーセント以上の所有権を確立し維持できるだけの出資力―それもUSドルでの出資力―があるというわけではない。だろう?特にいまは、国家自体が深刻な外貨不足に悩ませられているときなのだから〉

  「〈だから〉と彼はつづけた。〈そういう状況のもとでもなおこの国に進出したい外国企業の中には、政府の要求を満たすために、フィリピン側パートナーに資本融資をしなければならないところも出てくる。その場合、そのジョイント・ヴェンチャーの実質的な所有権は、フィリピン側パートナーが借入金を返済し終え、株式を文字どおりに五一パーセント取得するまでは、外国企業の手にとどまることになるわけだ。つまり、〔外国企業がパートナーであるフィリピン企業を支配する〕こともおおいにありえるわけだな〉

  「僕は吉田に礼を言って、電話を切った。…ということで、トゥリーナ、僕には、アルを含めて、サポーテの人たちが〔[ナヴァロ貿易]は日本側パートナーに支配されているようだ〕と感じていることには根拠があったことが分かった。〔倉庫〕と[ナヴァロ・メタル][ナヴァロ貿易]には〔自由な裁量権〕がないのではないか、というアルの勘は当たっているのかもしれなかった。…アルが感じていたように、マルティネスという人物には、日々の操業進行に関連する事柄を決定する権限だけしか与えられていないのかもしれなかった」

          ※

  「僕が好むか好まないかには関わりなく、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「この国で行なうジョイント・ヴェンチャーでは一外国企業が一フィリピン企業を〔支配〕できることが明らかになっていた。僕は[ナヴァロ貿易]に電話をかけて、ルーベンに対する〔不法な〕行為に最終的な責任を負っている―とアルが信じていた―例の日本企業に関する情報を聞き出さなければならなかった。

  「翌朝…。僕の動きは、前にエヴェリンの貝殻購入システムを見にセブ島に出かけたときほど迅速ではなかった。ホテルの部屋で、何度も電話の受話器を取り上げようとしては、手を引いた。…それまでの話の展開は、どう振り返ってみても、僕に風向きのいいものではなかったからね。

  「だけど、トゥリーナ、数十分後にやっとかけた電話での[ナヴァロ貿易]―その輸出部長であるチャヴェスという名の人物―との会話は、僕が事前に危惧していたものよりはうんと簡単だったよ。…皮肉なことに、その会話を滑らかにしてくれたのは、セブ島での経験だった。僕は、今度は、ラタン家具の供給業者をフィリピンで探している日本人貿易業者になりすましたんだ。

  「職業別電話帳でたまたま[ナヴァロ貿易]という名を見つけ、もしかしたらラタン家具を扱っていないかと思って電話をかけているのだ、という僕の言葉をミスター・チャヴェスは怪しまなかった。怪しむどころか、この輸出部長は僕の電話を、どちらかと言うと、大歓迎してくれた。…僕が電話をかけた目的が何であれ、いまこの日本人貿易業者と話しておけば、いつか、どういう形でか、自分の会社を利することが必ずあるはずだ、と信じているような話し方だったかな、あれは。

  「〈ラタン家具ですか〉と彼は言った。〈残念ながら、ラタン家具はいま、うちでは扱っていませんが、ミスター・タカノ、扱うこともできますよ、少し時間をいただければ〉。僕はたずねた。〈では、ほかの家具は扱っているのですか〉。彼は答えた。〈いえ、そういうことではありませんが…。うちは最近、見込みのある商売の分野をまた新たに探し始めたところだものですからね。もともとの専門である衣服だけにとどまっていずに、業務内容を積極的に拡張していこうというわけで〉。僕は言った。〈ああ、衣服が専門の会社でしたか〉。〈ええ〉。彼は誇らしげに応えた。〈日本へも輸出しているのですよ〉。そんな知識はなかったから、トゥリーナ、僕はごく自然に〈ほう、日本へも!〉と声を少し高めてしまったよ。彼は言った。〈日本人は長いあいだ、ミスター・タカノ、うちのいいお客さんなのですよ。いえ、いまでは日本だけではなく、アメリカやカナダなどのディスカウント・ストアにも輸出させてもらっていますけどね。うちの衣服のほとんどはそういう店で、その店独自のブランド名をつけて売られているのです〉」

          ※

  「ミスター・チャヴェスによると、トゥリーナ」。高野さんは言った。「[ナヴァロ貿易]という会社は八人で運営されている小さな会社で、本来の業務は、服地を香港から輸入し、それを関連縫製工場でシャツやズボンに仕上げさせ、できあがった製品を海外に輸出するというものだった。〈実を言いますと、ミスター・タカノ〉と彼は言った。〈日本人には初め、ずいぶん泣かせられたのですよ〉。その声に笑いが混じり始めていた。〈とにかく、日本人の買いつけ担当者たちが製品の質にうるさくて…。縫製の質が悪すぎるといって返品されたシャツやズボンが、一時、どれだけうちの倉庫にたまったか、ミスター・タカノ、あなたにも見てもらいたかったぐらいですよ。日本人たちは、たとえば、ボタンの穴が仕様からほんの二、三ミリメーターずれただけでも、受け取りを拒否してきましたからね〉

  「〈ですが〉と彼はつづけた。〈そんなふうに厳しくやってもらったおかげで、うちの製品も国際的に競合できる品質に達しましたし、その後アメリカやカナダにも顧客ができました。完成品の歩留まり率もなかなかのもので、いまでは会社全体で当時の日本人買いつけ担当者たちに感謝していますよ〉

  「トゥリーナ、僕は〈いまだ〉と思った。僕はミスター・チャヴェスにたずねた。〈日本とは縁が深そうですが、ほかにも何か商売があるのですか〉。彼は再び誇らしげに〈ありますとも〉と答えたよ。〈衣服とはまったくかけ離れた分野で、ですがね。先ほど話しました業務内容の拡張策の一つとして、スクラップメタルで商売をさせてもらっていますよ。ジョイント・ヴェンチャーを設立しましてね〉」

          ※

  「ミスター・チャヴェスは[ナヴァロ・メタル]のことを、トゥリーナ、〔[ナヴァロ]グループの今後の成長と拡大の可能性をこの上なく示している事業だ〕と言っていたよ。〔経済的に悪戦苦闘しているフィリピンに、新しい事業形態で、額の大小はともかく、いくらかでも外貨をもたらしていることを誇りに思っている〕ともね。

  「そのジョイント・ヴェンチャーの相手となっている日本の会社の名をすぐにもたずねたい気持ちを抑えて、僕はこう言った。〈それはいいことですね。でも、なぜスクラップメタルだったのですか。本来の分野からは、やはり、ずいぶん遠い業種ですよね〉。彼は答えた。〈ええ、わたしたちもそう感じたのですが、どんなものにしろ、向こうからやって来た商売のチャンスを見過ごす余裕がうちにはありませんでしたからね。…チャンスをつかむことが先決事項で、何を扱うかは、うちにとっては、大きな問題ではなかったのです。この国の事業家の大半はそう考えていると思いますよ。ですから、ラタン家具がいい商売になりそうなら…〉

  「〈なるほど〉と応えてから、僕は話の向きを変えた。ラタン家具のことは、トゥリーナ、もう話題にしたくなかったからね。〈フィリピンの企業がみんなそんな積極的な姿勢で事業に臨むなら、この国の経済もすぐに良くなりますね〉。でも、ミスター・チャヴェスはそれをほめ言葉とは受け取らなかった。彼はみょうに真剣な声でこう言ったよ。〈そうなればいいのですが、ミスター・タカノ、現実は…。マルコス大統領の頭には、基本的には、彼のポケットに大金を直接還流させるための経済政策しかありませんからね〉。トゥリーナ、僕が電話で〔支配〕権のことを質問した際に吉田が〈何しろ、マルコス政権だからな〉と言ったのもたぶん、こういう意味だったのだろうね。ミスター・チャヴェスはつづけた。〈わたしたちのような小さな企業は見捨てられたも同然で。…どこかにすき間を見つけ出してがむしゃらに動くのですが、国の経済となると、そういうのは、わたしたちのような者が少々努力したぐらいで良くなるかどうか…。いまの政治がすっかり変わってしまわなければだめなのではないでしょうか〉」

          ※

  「それから、ミスター・チャヴェスはこう言ったよ。〈それでも、ミスター・タカノ、[ナヴァロ]はがんばっていますよ。資本とノウハウがあれば、それが直接に国民の手に入るようになれば、政権がどうであれ、わたしたちフィリピン人はいままでよりはうんとましな仕事ができるのです。倦むことを知らないチャレンジ精神があれば、[ナヴァロ]のように発展していけるのです〉。僕は〈そのとおりだと思います〉と応えた。

  「彼は間を置かずに〈もっとも〉とつけ加えた。〈正直に言いますと、うちが入手したノウハウというのは、それほど洗練されたものでも付加価値が高いものでもありませんけども…。実際、スクラップメタルを、たとえば、銅をブラスから、アルミニウムをステインレス・スティールから選り分ける、それだけのものですからね。ですが、ミスター・タカノ、どんなに単純で付加価値の小さいものであろうと、そのノウハウはうちが事業を新分野に拡張する際のカギだったのです。そのカギを利用して、うちはいまでは適度な利益を上げさせてもらっています。利益は今後ますます大きくなるはずです。そう期待しています〉

  「次の―最も重要な―質問をするときだった。僕はたずねた。〈ところで、ミスター・チャヴェス、おたくにそのノウハウ、それにそんなに明るい未来を提供してくれたのは日本の何という会社なのですか〉」

  高野さんはわたしの目を見据えていた。

  わたしは息をとめて、あの人がつづけるのを待った。

  「ミスター・チャヴェスは実におおらかだった」。高野さんは言った。「何の躊躇もなく、彼はその名を明かしてくれた。それは、トゥリーナ、やはり[東海メタル・リサイクリング]だったよ」

  ほとんど洩れかかっていたため息を抑え込み、わたしは耳を傾けつづけた。

  「無駄な抵抗だとは分かっていたんだけど」。高野さんは首を横に振った。「もう一つ、おそらくは最後の質問を、僕はせずにはいられなかった。その[東海]は日本のどこにある会社なのかという…。別の土地にある同名の会社だという可能性もまだゼロではなかったからね。ミスター・チャヴェスには[東海]の所在地を隠す理由もなかった。彼はあっさりと答えた。〈静岡県の清水市ですよ〉。…不鮮明なところは、トゥリーナ、もうどこにも残っていないようだった」

  〔有罪評決〕だった。高野さんは、やはり、単なる〔アウトサイダー〕ではなかったのだった。ルーベンが味わっている苦しみをどうしても見過ごすことができない理由があの人にはあったのだった。

  人生最大の窮地に陥っていたメルバとあの人の接点はそこで消失していたのだった。

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