第57話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

     〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五七〉



  疑いなかった。高野さんはまるで自分の手で直接ルーベンに火をつけでもしたかのように感じているに違いなかった。

  わたしはあの人にかける言葉を探した。…見つからなかった。

  「僕が不自然に長い間を置いたからだろうね、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「ミスター・チャヴェスは僕に〈[東海]のことをご存じなのですか、たまたま?〉とたずねてきたよ。僕は急いで答えた。〈いえ。ただ、日本に戻ったらその会社を見ておくのもいいかなと考えていたもので〉。彼は言った。〈そうしたらいいと思いますね。わたしも、機会があったら一度見ておきたいと思っていますよ。何しろ、こんな国際的な、おもしろい事業を考え出したところですからね〉

  「僕は言った。〈その事業が成功しているのは、衣服貿易で培ってきた[ナヴァロ貿易]の豊富な経験があったから、ではないでしょうか〉。彼は愉快そうに笑ってから応えた。〈ですから、ミスター・タカノ、真剣に検討してみてください。うちはラタン家具にでも何にでも進出しますよ。フィリピン国内でそれを製造したいという話なら、それにも乗らせてもらいますよ〉

  「選択肢のうちの一つとして頭に入れておく、という僕の返事に、ミスター・チャヴェスは不服はないようだった。僕は、話を聞かせてもらったことに礼を言って、電話を切った。

  「あの[東海]が、三年前の計画どおりに、スクラップメタルの国際三角事業を始めることに成功していたことが、トゥリーナ、すっかり明らかになっていた。あの[東海]がサポーテにスクラップメタルの選り分け施設をつくっていたんだ。あの[東海]が[ナヴァロ貿易]を〔支配〕していたんだ。ルーベンの火傷に最終的な責任があるはずだとアルが考えていた〔日本の企業〕は、やはり、[東海メタル・リサイクリング]だったんだ。     「ミスター・チャヴェスから聞き出したことを、僕はアルに告げなければならなかった。告げるために、サポーテに行かなければならなかった。それは分かっていたのだけど…」

          ※

  「僕は、トゥリーナ、ホテルの部屋をすぐ出る気にはなれなかった。アルに会って話をする気にはなれなかった。…僕はしばらく、体をベッドの上に放り出して、ぼうっとしていた。そうしているうちに、僕の頭にふと、それにしても、あの[東海]がそんなふうに事業計画を進めていたこと、現実に事業を始めていたことを吉田が知らなかったのはどうしてなのだろう、という疑問が浮かんできた。だって、吉田は、三年前に[東海]の副社長たちと会ったときからリヤドゥに転勤するまで、ずっとマカティ・オフィスで働いていたんだよ。彼らの国際三角事業が展開するところから遠くない位置にいたんだよ。…吉田が知らなかったというのはあまりにも不自然だった。

  「吉田は単に〔知らなかった〕というのではなくて〔知らせられなかった〕のではないか、と思うようになるまでには、トゥリーナ、時間はあまりかからなかったよ。僕には、それが一番単純で、一番分的を射た解釈のように思えたよ。…[ナヴァロ・メタル]―つまり[東海]と[ナヴァロ貿易]―は[明和]のマカティ・オフィスと吉田を外して彼らの国際三角事業計画を進めたんだ。

  「どんなふうに〔外す〕ことができたのかって?…僕はこう推測したよ。[東海]はほぼ一年前、この三角貿易を始めるに当たって、たぶん[ナヴァロ・メタル]の名で、ビジネス口座を[明和]のロサンジェルス・オフィスに持ったはずだ。南カリフォルニアで買いつけたスクラップメタルをフィリピンへ送り出してもらうためにね。あそこには、彼ら自身の足場がなかったからね。[東海]をロサンジェルス・オフィスに推薦して口座を開かせたのは、たぶん、[東海]の副社長たちが吉田のところに持参してきた例の紹介状を書いた、東京本社にいる吉田の同僚だったんじゃないかな。

  「一方、ロサンジェルスから送り出されたスクラップメタルをフィリピンで受け取り、それが選り分けられたあと日本へ輸出するのは[明和]のマカティ・オフィスではなかった。[ナヴァロ貿易]だった。[ナヴァロ・メタル]はマカティ・オフィスには口座を設けなかったんだ。…彼らは、たぶん、スクラップメタルの輸出手数料を[明和]のロサンジェルス・オフィスに払うのは仕方がないけれども、フィリピンには[ナヴァロ貿易]があるのだから、輸入と輸出の業務をマカティ・オフィスに委ねることはない、ここでまた[明和]に手数料を払うことはない、と考えたんだろうね。

  「彼らの操業が開始された。けれども、[明和]のマカティ・オフィスと吉田は彼らのスクラップメタルの流れからまったくしめ出されていた。[ナヴァロ・メタル]がサポーテに〔倉庫〕を開設したことも、当然、知れせられなかった。…吉田の後任者、児玉さんが先日、電話で吉田に暗示したらしいように、マカティ・オフィスは〔その会社がいくらか収入をもたらすかもしれない〕機会を失っていたのだった。…[東海]は、トゥリーナ、三年前の吉田の協力にそんなふうに応えていたんだね」

          ※

  「ところで、トゥリーナ、[東海]が―たぶん[ナヴァロ・メタル]の名で―[明和]のロサンジェルス・オフィスに口座を開いたとき、僕はまだあそこで働いていた。なのに、僕も何も知らなかった。なぜだろう?

  「こちらの説明は簡単につくよ。口座が開かれたのは、僕が所属していた部門ではなくて、たぶん、日常的には僕の仕事とは関連がない雑貨部だったはずだ。そして、その雑貨部は僕が[東海]の副社長と仕入れ部長にジャンクヤードなどを見せて回ったことを知らなかった。だから、彼らの三角貿易のことについて雑貨部が何かを僕に報告してくる可能性はなかった。僕は部外者でしかなかったからね。

  「あれからほぼ三年。その間にずいぶんいろいろなことがあった。…仕事への没頭。離婚、離職。僕は彼らに会ったことさえ忘れていた。彼らとの出会いは、僕の中ではその程度の意味しかもっていなかった。なのに、いま…。

  「僕は、トゥリーナ、結局、その日はサポーテに行かないことにしたよ。…その日の夕方、僕の気分はすごく滅入っていた。僕は、ティムかマーヴィンと何か話せば気分が晴れはしないかと思って、ロビーに下りてみた。あいにく、二人とも勤務中ではなかった。特に空腹を感じていたわけではなかったけれども、時間を持て余したくなかったから、僕はロビーの脇のチャイニーズ・レストランに入った。…食事をすませてみると、ロビーではもう、ほかにすることがなかった。僕は部屋に戻った。…正直に言うと、トゥリーナ、戻る途中に、[さくら]のことが頭に浮かんだんだよ。でも、そのときの僕は[さくら]で遊ぼうという気持ちには、やはり、なれなかった。  「僕が部屋のドアを閉じたのとほとんど同時に、ベッド脇の電話のベルが鳴りだした。僕は大急ぎで受話器を取り上げた。電話をかけてきたのはだれだろう、と考えてみる間さえないうちに。…聞こえてきたのは吉田の陽気な声だった。〈サポーテにはもう入ってきた?〉」

          ※

  「吉田と話す心の準備が、トゥリーナ、僕にはまだできていなかった。僕は漠然と〈ああ〉と答えるしかできなかった。彼は言った。〈例のメタル会社はやっぱり、[東海]と[ナヴァロ貿易]のジョイント・ヴェンチャーだったんだろう?〉。僕はまた〈ああ〉とだけ答えた。〈なんてことだろうね。すごいね。あの[東海]がそこまでやったんだね〉。吉田はいっそう明るい声で言った。〈僕らのあのときの手助けが役に立ったんだ!僕らが協力したからこそ実現した彼らのヴェンチャーがいま、サポーテの人たちに仕事の機会を与えているんだ!〉

  「吉田は、トゥリーナ、前の電話のときとおなじように、僕を元気づけようとしてくれていたよ。僕はできるだけ陽気に聞こえるように努めながら彼に応えた。〈町の人たちが数十人という規模で雇用されているようだったよ〉。彼は声を大きくした。〈それはすごいや!〉

  「彼はつづけた。〈ということは、高野、あのとき[東海]に彼らのパートナー候補者としてミスター・ナヴァロを紹介したのは間違いではなかったわけだ〉。僕は〈そうだな〉と答えた。彼は言った。〈ミスター・ナヴァロは、高野、あのころ、僕みたいな、まるで部門違いの者にまで、常に新たな事業の機会を求めている、積極的な衣服輸出業者として知られている人物だったよ。実際、マカティ・オフィスはあれ以前にも、日本の衣服市場に関する情報を与えたり、さらには、[明和]が直接顧客にするには規模が小さすぎる日本の―地方の―ディスカウント・ストアを紹介してやったりして、彼をけっこう応援していたらしいよ。人間的にもなかなかの好人物のようだったし…〉」

          ※

  「吉田の説明は、トゥリーナ、[ナヴァロ貿易]が過去にどういう具合に日本人客を獲得していったかというミスター・チャヴェスの話をおおまかなところで裏づけていたよ。[明和]も彼らを助けていたんだね。吉田はつづけた。〈いや、正直に言うと、高野、僕はミスター・ナヴァロには、[東海]を紹介させてはもらうけれども、彼らの話に乗るかどうかの決定は慎重に下した方がいい、というようなことを伝えていたんだよ。ほら、あのときの僕は[東海]の能力に疑問を持っていたわけだからね。だから僕は、そのあと、その件に関してミスター・ナヴァロから何の報告も受けなかったことをおかしいとは思わなかった。やはり話は進まなかったのだな、と勝手に思い込んでね。…それが、ほぼ三年後に突然!〉

  「サポーテで何が起こっているかは僕は、吉田には告げないことに決めたよ。彼には[ナヴァロ・メタル]はサポーテで、町の人たちに喜ばれながら、堅実に事業を展開している、と思いつづけてほしかったからね。このマガンダな国を自分の手で汚してしまった、みたいには、彼には考えてもらいたくはなかったからね。彼の記憶をそんなことで濁らせてはいけないと思ったからね」

  「ご自分のはどうなんですか、高野さん」。わたしはたずねた。

  「僕のって?」

  「ですから、高野さん、あなたの記憶」

  「ああ、僕の記憶…」

  「だって、そんなふうに野心的な会社なら」。わたしは言った。「[東海]は、高野さん、あなたと吉田さんが手を貸していなくても、どこかでほかのだれかに助けてもらって、ミスター・ナヴァロ以外の人物をパートナーにして、結局はその事業を始めていたかもしれません。始めて、スクラップメタルの選別場をサポーテでのものとまったくおなじように運営して、この国のどこかで、やはりだれかに―幼い子供に―火傷を負わせていたかもしれません。でも、それはあくまでも[東海]の経営姿勢の問題です。そうでしょう?事業の計画段階で吉田さんとあなたが[東海]に手を貸したかどうかは関係ないはずです。[東海]に便宜を図ってやっていた段階では、[東海]や[ナヴァロ貿易]がその後どんな姿勢で事業を経営していくかは予測しようがなかったのですから。…その人たちがしたことで、高野さん、あなたたちが責任を負うことはないんです。罪の意識を感じることはないんです。あなたも吉田さんも〔このマガンダな国を自分の手で汚して〕はいないんです。…吉田さんのとおなじように、高野さんの記憶も濁らせられてはならないんです、そんなことで」

  「トゥリーナ、吉田は、彼らには十分な能力がないのではないか、と疑っていたんだよ。彼は[東海]のことを〔たとえ、パートナーが見つかり、事業を始めることができたとしても、彼らにそれを運営していく能力があるかどうか〕と言っていたんだよ。僕もそれを聞いていたんだよ」

  「でも、[東海]の能力を吉田さんが疑い始めたのは、高野さん、手助けの最終段階に近くなってからだったのでしょう?それに、手助けをまったくしないわけにはいかなかったのでしょう?その人たちは吉田さんの同僚が書いた紹介状を持ってきていたのですから?」

  「それはそうだったのだけども…」

  「ルーベンという幼い男の子に火傷を負わせたのは、高野さん、あなたでも吉田さんでもありません」。わたしはそう言いきった。

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