第58話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五八〉



  そこでわたしに言えることは、全部言ってしまっていたはずだった。

  長い沈黙のあと、高野さんは口を開いた。「その翌朝、トゥリーナ、僕はとにかくサポーテに向かった。今度もフェリックスが同行してくれたよ」

  高野さんは自分の〔記憶〕のことにはそれ以上触れないつもりのようだった。

  ルーベンが負った火傷へのあの人の罪の意識をうすめる役割をわたしの意見が果たしたかどうかは、あの人の表情からは分からなかった。

  高野さんは冷静な口調でつづけた。「ルーベンは、二日前とおなじように、体のあちこちを包帯で巻かれて、診療所のベッドの上に横たわっていた。母親のヴェロニカにつき添われて。ルーベンは、医者によると、危険な状態から完全には抜け出していないものの、確実に快方に向かっている、ということだった。

  「ヴェロニカについて言えば、彼女はもう、ショックに押し潰されているようにも、悲嘆にくれているようにも見えなかった。アルに通訳してもらって、彼女は僕に〈ルーベンの看護とほかの子供たちの世話がありますから、いつまでも沈み込んでばかりはいられません〉と言うと、笑顔さえ見せてくれた。

  「一方、アルは…。彼は僕が手に入れた情報にすごく満足してくれた。その情報の量は、彼が期待していたものよりはずいぶん多かったようだった。…[ナヴァロ貿易]のパートナーの名以上の情報が得られるとは考えていなかったんだね。実際、僕は、基本的にはミスター・チャヴェスから聞いたことを伝えたわけだけれども、[東海]と[ナヴァロ貿易]の国際三角事業がどう動いているかをアルに理解してもらうために、吉田から得ていた知識もかなりつけ加えて話したからね。…もちろん、吉田の名前は出さずに。吉田と僕、[東海]の関わりが知れそうな部分はすべて外して。

  「いや、アルも、〔倉庫〕が町の住人を数十人雇って、スクラップメタルの選り分け作業を行っていること、そのメタルがアメリカから送られてきていて、選別されたあと日本に送り出されていることは知っていたんだよ。でも彼は、このメタル会社のビジネスの国際的な構造についてはそれまで〔考えてみたこともなかった〕のだって。…正確に言えば、〔自分の会社の敷地内で起こった近隣住民の負傷事故について責任を負うことさえ[ナヴァロ・メタル]はその親会社に許されていないようだと気づくまでは〕ね」

          ※

  「僕が知りたかったのは、トゥリーナ」。高野さんは言った。「ルーベンは具体的にはどんなふうに火傷を負ったか、ということだった。だけど、アルはまだその情報を手に入れていなかった。〔倉庫〕の裏の〔空き地〕の中にいるルーベンを見た人物も見つけ出してはいなかった。アルがそれまでに当たった従業員たちは、まずは彼を避けようとしたし、いくらか言葉を交わしたとしても、〔倉庫〕の中で使用されているのではないかと疑われる〔酸〕については皆が〔そんなものは知らない〕と答えていた。

  「アルはこう断言したよ。〈[ナヴァロ貿易]に―つまりは[東海]に―指示されて、〔倉庫〕の責任者―マルティネス―は、従業員全員に対して、〔倉庫〕内での操業状況について、酸の使用について、僕に、あるいは外部の人間すべてに、何かを話すことを禁じたのに違いないよ。…命令違反者は解雇する、とでも脅しながら〉

  「そんな状況がアルはおもしろくなかった。だけど、酸の使用につて彼に何も告げようとしない従業員たちには、もう立腹していなかった。代わりに、彼は悲しげにこう言った。〈いま、フィリピン人がフィリピン人を傷つけているんだ、ヒロシ。自分たちの〔息子〕にではなく、その〔息子〕に対して犯罪行為を行なったに違いない日本の会社に手を貸す形で〉。…その言葉には胸が痛んだよ、トゥリーナ」

  わたしはルーベンにも〔フィリピン人を傷つけるフィリピン人〕にも同情を示すことができなかった。どちらに同情しても、ルーベンの火傷への高野さんの罪の意識を高めてしまう惧れがあったからだった。わたしの不用意な言葉であの人をいま以上追い詰めてはならなかったからだった。

          ※

  そんな配慮は手遅れだった。…あの人は自分で自分を追い詰めていたのだった。

  高野さんは決然とした口調で言った。「アルのどうにもならない状況に突破口を開くために〔従業員を買収して何か情報を得よう〕というアイディアを出したのは、トゥリーナ、僕だったよ」

  「どうしてそんな…」

  「使い古された汚い手だよね。…そんな手を使うことは僕もいやだったんだよ。汚い日本の会社が犯していたかもしれない犯罪を明るみに出す目的で僕自身の汚いカネを使うことには、少なからず、抵抗感があったんだよ。たとえ、ルーベンとその家族、親類に誠実に対応しようとしない企業に正義感を回復してもらうことが狙いだったとしても、買収というのは、現実には、その対象となる―カネの受け取りを拒否するだけのゆとりのない―従業員たちの誇りと尊厳を傷つけてしまうことだったからね。

  「だけど、トゥリーナ、そんな行き詰まりの状況を打開する方法がほかには思い浮かばなかった。…アルは僕のその提案に両手を打ち合わせて賛成してくれたよ」

  「そんなことはしてはならなかったと思います」。わたしは重い口を開いた。「わたし、そういうの嫌いです。いいえ、フィリピン人の誇りにもっと敬意を払ってほしかった、と言っているのではないんですよ。高野さん、あなたはそんなことに気を使いすぎる人なのですから。そうじゃなくて、わたし、いまは高野さんが自分自身に気を配るときだと言っているんです。もうこれ以上、何にも関わり合いにならないでください。今度のことは全部、当事者たち―事件を起こした人たちとその事故で苦しんでいる人たち―に任せるべきだった、任せるべきだとわたしは思います」

  〈フィリピンでは、あなたには、人々が抱えている問題を扱うこと―ましてや解決すること―などできないんだってこと、メルバとの体験からあなた自身が分かっているはずです〉と、わたしは言い足すべきだったかもしれない。〈フィリピン人がここで抱えている問題は、そのいずれもがそれぞれこの国の土に深く根差したものなんです。一人のヤサシイ外国人の善意ではどうにもならないんです〉と、あの人自身がすでに分かっているはずのことを、わたしはあえて言うべきだったかもしれない。

  「トゥリーナ」。高野さんは言った。「ルーベンとあの子の家族、僕の新しい友人―アルベルト―のために、僕は何かがしたかった。だって、彼らには僕が必要だったんだ。…彼らは真実僕の助けを求めてくれていたんだ」

          ※

  わたしは頭を何かで打たれたような気がしていた。高野さんはもう、メルバがかつて言っていたような、自分がヤサシクしてやれるだれか、あるいは、自分にヤサシクしてくれるだれかを求めていたころのあの人ではなくなっていた。あの人が求めているのは、もう以前のような漠然としたロマンティックな〔何か〕ではなく、はっきりとした、触れれば手応えのある〔何か〕だった。

  高野さんは言った。「人生では、トゥリーナ、それがほかよりはましだからという理由で何かを選択しなければならないことが少なくないだろう?僕たち夫婦の別居もそうだったかな。その選択が最高の結果につながるかどうかは分からないけれども、とにかく、そう選ぶしかない、といったような。

  「僕はルーベンの苦しみを横でただ見ていることができなかった。…ルーベンが救われるためになら、僕にできることは何でもしたかった。…しなければならなかった。何かを選択して前に進まなければならなかった。トゥリーナ、僕はこの件ではただの〔アウトサイダー〕ではなかったのだから。だろう?」

          ※

  わたしの目はすでに涙でいっぱいになっていた。

  いつか高野さんに言うことになるかもしれないと感じていたことをわたしがとうとう口にしたのはこのときだった。「高野さん、お願いです、できるだけ早くフィリピンを離れてください」

  あの人は何も言わずにわたしの目を見つめていた。

  わたしはつづけた。「離れて、ロサンジェルスに…」。涙が頬をつたわり落ち始めた。「あなたがいつの間にか〔自然に〕暮らすことができるようになっていたという、日本でよりははるかに〔自分自身〕でいられたという、あなたにとってはいまでもこの地球上で一番心安らかに過ごすことができるかもしれない場所、南カリフォルニアに、戻ってください」

  [さくら]で初めて顔を合わせた夜の苦笑、リサと交し合っていた屈託のない笑い、レストラン[アリストクラット]でメルバに、もう結婚する気はないのか、とたずねられたときの狼狽、小林という男性に裏切られ精神を乱してしまったというエヴェリンの話をしていたときの苦渋の表情…。そんな過去の高野さんの姿がわたしの頭の中に次々と現れては消え去っていっていた。

  涙はまだ流れ落ちつづけていた。その涙は、高野さんがマニラを去ることをわたしが言葉どおりには望んではいないことを、たぶん、だれの目にも明らかに物語っているはずだった。

  でも、最後まで秘めておくべきだったはずの思いをそんなふうに表わしている自分を、わたしは羞恥してはいなかった。

  思えば、高野さんはあのとき、わたしにとって、わたしが真実、心底から心配してやることができる、この世界でただ一人の男性だった。ほんのひと時のことにしろ、そんな男性をそばにすることができている自分を、わたしは胸のどこかで幸せに感じていたのだった。

  克久との関係が真に親密だったころからは、もう二年ほどが過ぎていた。

  「南カリフォルニア…」。高野さんはつぶやいた。

  わたしはうなずいた。

  「そうだね」。そう言いながら、あの人は少しわたしに体を寄せると、ゆっくりと右腕を伸ばした。「それはいい考えかもしれないね」

  あの人の手がそっとわたしの頬に触れた。

  新たな涙があふれた。その涙を、あの人は優しく指でぬぐってくれた。一度。二度。三度。

  あの人の指先はとても温かかった。わたしはまぶたを閉じた。

          ※

  高野さんのてのひらがわたしの左頬を包んでいた。

  まぶたのすぐ向こうであの人の影が動いた。

  わたしはあの人の呼吸を頬に感じていた。

  でも、あの人は唇を寄せてはこなかった。…影が静かに遠のいた。てのひらが離れた。

  わたしはゆっくりとまぶたを上げた。

  あの人はまだわたしを見つめていた。その目に深い悲しみが満ちていた。

  「だけど、トゥリーナ」。短い沈黙のあと、あの人はつぶやいた。「僕はまだこの国を離れることができないんだ。…どこかよそに行くことができないんだ」

          ※

  また長い沈黙があった。

  涙はもうとまっていた。わたしは頬に残る涙の最後のしずくをぬぐった。…自分の指で。

  高野さんの唇がわたしの唇に触れなかったことに、わたしは感謝していた。あの人との関係が、少なくとも表面上は、それまでどおりにとどまっていたことに安堵していた。…わたしはわたし自身の問題を抱えていたのだった。一時的な感情の高まりから新たな男性と新たな関係に入っているような状況にはなかったのだった。混乱だらけの人生に高野さんを巻き込んで、その混乱をそれ以上複雑なものにしてはならなかったのだった。

  「だって…」。高野さんは言った。「僕が買収しようという案を出した日から数日後に、アルがサポーテで、正体不明の何人かの男たちに襲撃されてしまったからね」

  「〔襲撃〕?」

  「ああ、トゥリーナ。…〔倉庫〕の従業員の一人を買収しに行く途中でね」

  「そんな…」

  「そうなんだ。僕の提案のせいでアルが暴漢に襲われてしまったんだ。アルの新たな動きを察知した連中が、それをやめさせようと、ならず者数人を雇ってアルを襲わせたんだ」

  わたしは言葉を失っていた。

  「しかも、襲わせたらどうだ、と連中をそそのかしたのは、トゥリーナ」。高野さんは首を数度横に振ってからつづけた。「あとで分かったことだけども、実は、[明和]マカティ・オフィスの、吉田の後任者、児玉さんだったんだ」

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