第59話 〜あるカラオケシンガーのメモワール〜

    〜フィリピン〜


     =一九八四年=


       十一月 



       〈五九〉



  高野さんの話は思いもつかなかった方向へ展開していた。

  わたしはほとんど呆然として耳を傾けていた。

  「だから、トゥリーナ」。高野さんは言った。「僕はまだ、どこにも行けない。…この問題がすべて解決するまでは。いまの僕には、心安らかに住める場所など、結局、この地球上にはないんだ。…どこにもね」

  あの人とのあいだのベンチに折りたたんで置いてあった新聞[ブレティン・トゥデイ]の上の[マールボロ]の箱を、わたしはぼんやりと見下ろしていた。

  「話を元に戻すと、トゥリーナ」。高野さんはつづけた。「だれかを買収しようという考えを持ち出した日の夜、僕は、アルの家に泊まらせてもらった。一人を買収できそうなぐらいの現金をたまたま持っていたし、いい情報を提供してくれる従業員をアルがその日のうちにも捕まえるかもしれなかったからね。

  「だけど、その日のうちにも翌日にもアルはだれも捕まえることができなかった。だから、二日目の夜、僕はとりあえずその現金をアルに渡して、フェリックスといっしょにマニラに戻ってきた」

          ※

  〔現金をアルに渡して〕…。

  突然わいてきた新たな危惧でわたしの胸が波立っていた。

  危惧する自分が、貝殻事業に熱中し始めたエヴェリンの誠実さを疑いだしたという日本人ボタン製造業者、小林という人物に重なって見えて、わたしはひどく恥じ入っていた。

  けれども、わたしは一方で、持ち慣れない現金が人をどう変えてしまうかを、夫、セサールから知りすぎるほど知らせられていた。この国が〔継父が娘のお金を持ち逃げしてしまう国〕だということを、メルバに起こった話から、痛いほど学んでいた。…それがわたしたちの現実だった。

  いや、わたしはアルベルトという人物のことは何も知らなかった。アルベルトは、高野さんが信じているように、正義感の強い、信頼できる人なのかもしれなかった。わたしの危惧はばかげたものなのかもしれなかった。

  そうであるようにと、わたしは祈った。それだけがわたしにできることだった。

          ※

  「それからの数日間は」。高野さんはつづけた。「僕はほとんどホテルの自分の部屋で過ごした。…今度は、ただぼんやりしているのではなく、タガログ語を勉強しながらね。アルが電話をかけてくるのをじっと待っていたんだ。[さくら]に顔を出す気には、トゥリーナ、やはり、なれなかったよ。

  「アルから電話がかかってきたのは、僕がマニラに戻ってから四日目のことだった」。高野さんは話しつづけた。「〈情報提供者が見つかったんですね?〉。僕はいささか性急にたずねた。アルの答えはこうだった。〈ヒロシ、連中は僕が考えていたのよりずいぶん手強いよ。これからはもう、みくびってはかかれないな〉

  「彼の声がひずんで聞こえるのはなぜだろうと訝りながら、僕は言った。〈それ、どういう意味ですか〉。彼は淡々と答えた。〈昨夜、襲われてしまったんだ〉。僕の反応は鈍かった。〈〔襲われてしまった〕?〉。彼は応えた。〈ああ、[ナヴァロ・メタル]の従業員の一人に会いにいく途中で待ち伏せされてね〉。僕にもやっと、それがどういう類の襲撃だったかが理解できた。理解できて、僕があんな提案をしたばかりに、と背筋が凍えるような思いをしていた。彼はつづけた。〈町では見たことのない男たち四人にこっぴどく殴り倒されたよ。いや、五人だったかもしれないんだけども…。とにかく、あっという間に〉

  「僕は、トゥリーナ、ずいぶん間の抜けた質問をしてしまった。〈けがはありませんでしたか〉。アルは答えた。〈頬と唇が腫れあがってしまって、ちょっとしゃべりづらいんだけど、たいしたことはない。心配はいらないよ〉。彼の声がひずんで聞こえていたのはそのためだったんだ、トゥリーナ。

  「〈それにしても、ヒロシ〉とアルはつづけた。〈襲ってきた連中はすごくすばしっこかった。手際がよかった。気づいたときには、僕はもう、道路わきのくさむらに腹ばい状態で転がせられていたからね。そこまで三十秒とはかからなかったんじゃないかな。あの手の襲撃には慣れきっている連中だったと思うよ。…僕に聞き込みをやめさせようというので、〔倉庫〕がマニラの無法者か何かを雇ったんだね、きっと〉

  「自分に何かができると考えたわけではなかったけれども、僕はアルに〈いますぐそちらに向かいます〉と言った。彼は応えた。〈僕が次にオーケイの合図を送るまで、君はサポーテには来ない方がいい。この電話は実は、ヒロシ、そのことを告げるためにかけているんだ。僕らは自分たちの動きにもう少し注意を払った方がいいようだからね。なぜって、僕を襲ったのが〔倉庫〕に雇われた連中なんだったら、連中は、あの襲撃を受けて僕が買収をあきらめたかどうかを知りたいだろうからね。知るために、まだ町のどこかに潜んで、僕を監視しているかもしれないからね。いや、連中は立ち去ったとしても、〔倉庫〕の従業員のうちのだれかが、マルティネスかカスティーヨの指示を受けて、そうしているかもしれないからね。そこへ君が現れたら…。連中は、ヒロシ…〉。アルはそこで笑った。〈あの日本人らしい男はアルベルトとディスコでひと晩いっしょに遊ぶためにこの町にやって来たのだ、とは思わないだろう?〉。僕は答えた。〈そうでしょうけど…〉。アルは今度は真剣な声で言った。〈僕が遭ったのとおなじ危険に君をさらすわけにはいかないからね。僕らは当分目立った動きは避けた方がいい〉」

          ※

  「僕はアルがまた襲われるような事態を避けなければならなかった。〈買収計画は取りやめましょう。危険が大きすぎます〉。アルは応えた。〈僕のやり方がおおっぴらすぎたんだね。自分は正しいことをしているのだから、こそこそする必要はない、と信じていたんだけど…。僕だって、僕が接触した〔倉庫〕の従業員のうちのだれかが、僕が彼らに話したこと、僕が知りたがっていることを、マルティネスあたりに報告するだろう、とは思っていたんだよ。だけど、待ち伏せ襲撃されるほど〔倉庫〕に嫌われるとは予期していなかった。問題は、ヒロシ、僕が襲われたことを、ということは、僕に協力すれば彼ら自身がどういう目に遭うかということを、〔倉庫〕の従業員全員がもう知っているはずだ、ということだな。これからはこれまで以上に情報が聞き出しにくくなるわけだ〉

  「僕は言った。〈ですから、それは取りやめて…〉。アルは僕を遮った。〈そんな状況の中で、ヒロシ、少し目先を変えた案があるんだけども、聞いてくれるかな?〉。僕は〈〔目先を変えた〕?〉とたずね返した。アルは答えた。〈買収用のカネをもう少し増やしてくれれば、あまり目立たずに必要な情報が入手できるかもしれない。そんな案が僕の頭に浮かんだんだ〉」

          ※

  買収資金の追加?

  わたしの危惧はいっそう大きくなっていた。

  それでも、わたしはその危惧を声にはしなかった。声にはできなかった。…エヴェリンが小林という人物を裏切ってはいなかったように、アルベルトの話にも嘘はないはずだった。アルベルトが高野さんを裏切るなどという方向へ話が進むはずはなかった。あの人にそんな酷いことが起こるはずはなかった。あの人には、フィリピンはどこまでもマガンダな国でありつづけなければならなかった。ありつづけるに違いなかった。

          ※

  「僕は、トゥリーナ、どう反応したらいいかが分からなかった」。高野さんは言った。「さらにカネを出すことで、アルがますます大きな危険に陥ってしまってはいけなかったからね。だけど、彼の〔案〕というのは、すごく大胆で、意表をつくものだった。僕にさえ〔もしかしたら、うまくいくのでは〕と思えるものだった。

  「アルはこう言ったんだ。〈今度は、ヒロシ、カスティーヨを狙ってみようと思うんだ〉。僕は思わず〈え、だれですって?〉とたずねてしまった。〈マルティネスのアシスタント〉と彼は答えた。僕は言った。〈ええ、それは分かっていますけど〉。アルは僕を遮って言った。〈カスティーヨは、ヒロシ、人事から日々の選別作業まで、とにかく、〔倉庫〕の中で起こることなら何でも―何でもだよ―知る地位にいる人物なんだ。しかも、彼こそが、[ナヴァロ・メタル]の従業員や僕の近所の―最初は僕に協力的だった―人たちを脅して僕と話させないようにした当の人物なんだ。だから、ヒロシ、ここのところを考えてみてくれ。仮にだれかが、僕がカスティーヨと、たとえば彼の自宅で、会っているところを見たとしても、僕が彼に会いに行った動機をあれこれ詮索する者はいないんじゃないかな。僕が自宅にまで押しかけて抗議しているのだと思うだけで、買収しに行っているのではないかとは疑わないんじゃないかな。カスティーヨの〔倉庫〕に対する忠誠心を怪しむ者はいないんじゃないかな。だとすると、ヒロシ、この男ほど僕らのカネを受け取りやすい立場にいる人物はほかにいないよ。しかも、僕らが彼に提供するカネの額が従業員たちに提示した額の二倍、三倍だということになると…。〔倉庫〕のアシスタント・マネジャーとしての自尊心も満たされて…。僕の勘では、彼はこれを拒まないな。彼は情報をくれるよ。僕は早くそのことに気づいておくべきだったよ〉

  「僕たちは、トゥリーナ、とにかく数日間、サポーテの様子を見てみることにした。…用心するに超したことはなかったからね」

          ※

  わたしは怖れていた。

  アルベルトは買収資金を当初の〔二倍、三倍〕にすることを提案していたのだった。

  けれども、高野さんがわたしに話していたのは、過去のこと、すでに起ってしまったことだった。あの人のためにわたしができることは、やはり、何もなかった。あの人の話がおかしな方向へ向かわないようにと祈るしか、わたしにはできなかった。

          ※

  「アルからの次の電話は、トゥリーナ、予期していたのよりも早く、すぐ翌日にかかってきたよ」。高野さんはつづけた。「彼は笑いも混ぜながら言った。〈今度は、ヒロシ、[ナヴァロ]の連中が僕のしつこさを見くびったようだよ。きのう、きょうと周囲に目を配りながら町をあちこち歩いてみたけど、だれかが僕を見張ったり尾行したりしている気配はまったくなかったよ。連中は、僕への脅しはあれで十分だと考えたんだろうね。僕を襲ったやつらも、許されて、たぶんマニラに戻ったんじゃないかな。…そうだな、僕を襲ったやつらは暴力のプロだったかもしれないけれども、やつらを雇った連中はそういうことに慣れていなくて、僕を甘く見た、ということかな〉  「とりあえず、トゥリーナ、問題の一つは解消していたようだった。アルがまたすぐに襲われることはなさそうだった。僕はたずねた。〈で?〉。アルは答えた。〈ここから遠くないところにイムスという町があるんだけども、あすの夕方、そこまで来てくれないか。いや、いま言ったように、もうだれも僕を監視してはいないようだけど、念のために、サポーテで会うのは避けて…〉

  「僕たちは落ち合う場所と時間を決めて電話を切った。翌日、僕はマビニ通りのブラック・マーケット・ディーラーで円をペソに交換し、またフェリックスに同行してもらって、イムスに向かった。落ち合う場所に決めていたレストランにはアルが先に来ていた。…アルは顔が、特に左の頬が、大きな厚いガーゼの下でひどく腫れ上がっていた。唇の両端にも生々しい傷跡が見えていたよ。それでも、トゥリーナ、彼は意気盛んだった。僕が差し出した封筒を受け取ると、彼は言った。〈ありがたい。これで話が先に進むよ、ヒロシ。ルーベンを傷つけた連中への敵討ちができるようになるよ。これだけあれば…〉。彼は封筒の中の金額を確認しなかったけれども、僕が前に渡していた分にそれを足せば、彼の買収用資金が少なくとも〔二倍、三倍〕になっていることは分かっていた。彼はつづけた。〈カスティーヨに〔これまでみたいに[ナヴァロ・メタル]とマルティネスにただ忠実なだけの生き方はつまらない。[ナヴァロ]がルーベンに火傷を負わせたのは事実だから、それをルーベンの伯父、僕に告げてどこが悪い?〕と思わせることができるよ。〔倉庫〕の中で何が起こったのかを彼から必ず聞き出して見せるよ〉

  「注文したクリスピー・パタ(豚のすね肉のフライ)とアドボ(チキンとポークの煮込み)を満足そうに食べつづけながら、フェリックスは、なぜか始終笑顔で、アルと僕の話に耳を傾けていた。…アルは、自分の旧友の長男に僕たち―おとなの世界―の決してきれいではない話を聞かせることを愉しんでいる様子だった。そんな話を聞くことでフェリックスは成長していくのだ、と信じていたんだろうね」

          ※

  「アルはトゥライシクルを雇って、サポーテに戻っていった」。高野さんはつづけた。「…フェリックスを連れて。アルに何か起こった場合の緊急連絡係としてあの子を連れていくよう、僕が勧めたんだ。僕はジープニーに乗って、ひとりでマニラに帰ってきた。

  「翌朝、十一時少し前に、僕の部屋のドアをだれかがノックした。ルーム・メイドにしては少し早い時間だと思いながらドアを開けてみると、廊下に立っていたのは、意外なことに、アルだった。…フェリックスもいっしょだった。

  「アルのほほ笑み方で、前夜に何か悪いことが起こったわけではない、ということが僕にはすぐ分かった。というより、彼は満足できる情報を手に入れたのだな、と僕は思った。

  「アルとフェリックスはしばらく、部屋の中を―簡易キッチンに備えられている鍋の類にいたるまで―物珍しそうに眺め回したあと、アルは、数ブロック先にマニラ湾が見える窓のそばの小さなテーブルの、僕の向かい側の椅子に、フェリックスは、壁沿いに置かれているクイーンサイズ・ベッドの端に、それぞれ腰を下ろした」

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