ある日とつぜん、ロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニートになった。

台上ありん

ある日とつぜん、ロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニートになった。

 アリアのフルネームは、中村有々という。なかむらありあ、と読む。29歳の男性、独身で一人暮らし。


 おそらく俗にいうキラキラネームに分類されるのだろうが、たとえば光宙ぴかちゅう今鹿なうしかみたいな強引な当て字とは違って、訓読みで読めないこともない文字列であることから、まだマシな部類だとアリア本人は思っている。小学生のころはこの女っぽい響きのある名前が少しイヤだったが、10代も後半になるとだんだん気に入ってきて、大学を卒業するころにはむしろ好きになっていた。


 「中村」という平凡なファミリーネームにくっついている、強すぎるインパクトを与えるほどでもなく弱すぎる印象を持たれるでもない、ほど良い程度のこのファーストネームは、自己紹介した相手に一度で覚えてもらえることが多く、煩わしさよりもむしろ利点のほうが上回っていた。


 しかし、まさかこの名前でこんなに苦労することになるとは、夢にも思っていなかった。





 アリアはほんの2週間ほど前に、勤務していた会社を退職した。

 会社は、英語及びドイツ語圏の推理小説の翻訳をメインに手掛ける中堅出版社で、犬や猫や爬虫類などペットの飼育ノウハウに関する本も、社長の趣味もあって少ないながらも出版したことがある。


 アリアはその会社で、営業の仕事をしていた。

 営業といってもアリアが担当していたのは広告ではなく、書店のドサ回りだった。本屋を一軒一軒訪問し、書店店主やハードカバー小説担当者に頭を低くしながら面会して、新刊の入荷をお願いする。


「今回の新刊は、最高傑作です。手に取っていただければご理解いただけると思います。必ず売れますので、ぜひ目立つ場所に平積みしていただけないでしょうか」

 販促のポスターを持ちこんで、そんな台詞を何度言ったか数えきれないが、実はそう言ってるアリアも読んでないことのほうが多かった。


 会社がブラック企業だったとは思わないが、最近はちょっと規模の大きな書店になると、取次へ小説の発注を担当しているのがアルバイトだったりすることも多く、「今日は担当が出勤してませんので」や「担当者は午後7時からの出勤になっています」などと言われることもしょっちゅうだった。

 夜中まで残業させられるということはないが、帰宅時間は意外に不規則で、日曜日に隣町まで営業に出なければならなくなることもあった。


 しかし、アリアが退職を決断する決定打となったのは、会社が一向に自社の出版物を電子書籍化しようとしないことだった。ただでさえ本が売れないこの時代、スマホやタブレットに対応しないと、吹けば飛ぶような中小出版社が生き残れるはずがない。

 何度か上司に直談判したことがあるのだが、「取次や大手の販売店さんとの長年の関係もあるから、そう簡単に彼らを切り捨てるようなことはできない」という理由で却下され、キミが(――つまり書店営業を担当するアリアが、という意味)書店営業をちゃんとやってれば、ウチの商品はちゃんと売れる、売れないとしたらキミの努力が足りないんじゃないか。そう言われたとき、心がボキッと折れる音がした。


 その1か月後、アリアは辞表を提出した。


 再就職のアテはあった。退職を決断しかねていたころに、大学時代からの知り合いである鈴木と、仕事のグチを聞いてもらおうとひさしぶりに居酒屋で酒を飲んだとき、

「ほな、もし今の会社辞めるんやったら、ウチの会社で働かへんか? ちょっと社長に聞いてみよか?」と誘われた。


 鈴木は大学卒業後、親族が経営する中規模の土木建設会社に入社していた。そこで営業担当する人員一名が、再来月定年退職を迎えるということだった。

 出版社から土建屋に転職となると、ずいぶんと異なる業種へ移行することになる。ただし、営業という仕事は人に会って自社の製品を売り込むという行為じたいには変わりはないだろう。

 そんなことを考えているアリアにかまわず、鈴木は話を続けた。

「まあ詳しいことは、再来月になってみなわからんし、実際求人を出すんもそれからになるやろうと思うけど、おれのほうから『優秀な営業マンでひとり空いてんのが、おんねん』と推しとくわ。採否を決めるんは俺やないから、確約はできんけど、とりあえず、内々定のさらに内定ってくらいに思といて」


「待てよ。早まるな。俺はまだお前んとこの会社で働くと決めたわけじゃないぞ」

 そう言ったものの、アリアの腹はほぼ固まっていた。




 出版社を退職後、再就職するまでに一か月ほどの休みができた。

 帰省すべき故郷はすでにないアリアにとっては、なかなか退屈な時間を過ごすことになった。銀行預金はとてもたくさんあるとは言えないが、前職でもらっていた年収の半分くらいのたくわえはある。


 心機一転、一度自分の人生をリセットするために、海外旅行にでも行ってみようか。そう思って、ワンルームマンションの押し入れのなかに入れっぱなしにしていたコロコロ付きのスーツケースと、就職するときに取得させられたパスポートを引っ張り出した。


 行き先はどこでもよかった。とりあえず、周囲に誰も自分のことを知る人がいない空間に行きたかった。

 タブレット端末を操作して、旅行代理店のホームページなどをいろいろ見ると、観光シーズンとは少しズレているためか、かなり安い。さんざん迷ったが、LCCで行けて一週間の宿泊費含めて約15万円で行けるハワイに決めた。


 あまりにも有り勝ちな旅行先なので、我ながら、もうちょっと珍しいところに行けばいいのに、などとも思ったが、そういう場所に行こうとすれば旅費が一気に倍増する。いくら転職先がほぼ決まっているとは行っても、新しい環境に適応するには必要なものも出てくるだろうし、あまりお金を使うわけにもいかない。

 アリアは旅行代理店のホームページの申し込みフォームに、


「名前 中村有々   よみがな なかむらありあ」


 と記入した。


***


 異変が起こったのは、帰国後だった。


 ハワイでの一週間、充電と称して何をするでもなく海を眺めてぼんやりと平和な日々を過ごした。

 LCCのパイプ椅子よりも少しはマシと言った程度の座席に座って帰国し、空港からはタクシーに乗って帰った。


 自宅のワンルームマンションに到着したのは午後3時くらいで、電信柱のてっぺんにカラスが停まって鳴いている姿を見ると、「ああ、日常が帰ってきたんだな」という実感が湧いてきた。

 アリアのワンルームは鉄筋コンクリ造5階建ての二階の角部屋。家を出たときよりも重くなったスーツケースを、階段の角に打つけながら登る。


 そして鍵を回してドアを開けると、自分の部屋の風景が一変していた。

「え……? なんだこれは?」

 玄関の狭い三和土たたきには、アリアが近所に行くときに履いているゴム製のサンダルがひっくり返っていた。そして、玄関の直線状の向かいにある机の上に、あるはずのノートパソコンがなくなっていた。


 台所のシンクの前は、無数の靴の足跡が渇いた土とともに残っている。

 アリアはスーツケースをマンションの廊下に置きっぱなしにして、部屋のなかに入った。


 見慣れたはずの自分の部屋を見回す。無くなっているのはノートパソコンばかりではない。ベッドの枕を置く部分の背後にそびえたつようにして置いていた本棚のなかは、マンガも書籍もDVDもひとつ残らず消え去っている。本の手前の狭いスペースにいくつか置いていた、ラブライブのフィギュアや、コンビニ一番くじで引き当てた2等のロボ型ぬいぐるみも、ない。


 出発する前には、ノートパソコンの手前に置いていたと記憶するタブレット端末もなくなっていた。

 フローリングの床の上には、台所と同じく大小さまざまな足跡が残っていた。ソックスの裏がザラザラする。


「空き巣に入られた!」誰に言うでもなく、アリアは叫んだ。


 まさか、戸締りをするのを忘れていたのだろうか。いや、そんなことはない。さっき部屋の入口の鍵を回して入ったのだから、玄関のドアは閉まっていたはずだ。窓もちゃんと閉まっている。ほかにこの部屋に入れるようなところはない。


 いったい、誰がどうやってこの部屋に侵入したのか。

 とりあえず、表に置きっぱなしにしていたスーツケースを部屋の引き入れ、充電の残っていないスマホをケーブルにつないで、110番に電話をした。


「はい、こちら110番です」と、2コールを待たずに中年男性らしい声が聞こえてくる。

「あ、すみません。泥棒に入られたみたいなんです」あせる気持ちを抑えて言った。

「はい、泥棒に。今はご自宅ですか?」相手は慣れているのか、淡々と続ける。

「ええ、そうです。ちょっと、1週間くらい旅行に出てたんですが、さっき帰ってきたら、ノートパソコンとかが無くなってたんです」

「ノートパソコンが、ですね。ほかに盗まれたものは有りますか?」

「あとはタブレット端末と……、ええ、アイパッドみたいなやつです。それと本や漫画が、一冊残らずなくなってます」


「ほかに、異状はありますか?」

「部屋に、泥の足跡がいっぱい着いてます」

「足跡が。それは消さないようにしてくださいね。重要な証拠になりますから。ほかにも、極力部屋のなかのものは現状維持するように努めてください」

「はい、わかりました」

「住所と氏名をお願いします」

「あ、はい。住所は、××市清水町3丁目26番地、清水町グリーンハイツ2番館の205号室です。名前は、なかむらありあ、と言います」

「清水町3丁目、ですね。なかむら、ありあさん」と110番の相手は復唱した。


 そして、

「それでは、今から出動いたしますので、しばらくお待ち……」と言った後、耳に突き刺さるような大きな声で、

「え! あなた、本当になかむらありあって名前なの?」と叫んだ。

「はい、そうですけど……?」

 いったい、何だというのか。キラキラネームには違いないが、そこまで驚かれるような奇怪な名前ではないだろう。

「本当に、本当になかむらありあなの? 住所もう一回確認するけど、清水町3丁目26で間違いないんだね?」

「ええ、間違いないです」

「ちょっと待ってて」

 電話はオルゴールの音のようなメロディに切り替わった。


 そして電話を耳に当てたまま、10分近い時間が過ぎた。繰り返されるメロディを何度聞いたことだろう。いったん電話を切ってもう一度かけなおそうかとも思っていたところで、

「もしもし、お待たせしました」とさっきとは違う男の声が言った。

 アリアは待たされたことによる怒りよりも、このままずっと待たされるのではないかという不安が終わったことによる安心感のほうが上回った。


「わたし、県警生活安全部の高橋と言います。たいへんお待たせして、申し訳ありません」高橋のと名乗った警察官は詫びた。

 口調は穏やかだが、どこか威圧感のある声だった。

「確認させていただきますが、あなたのお名前は、なかむらありあさんで、間違いないですね?」

「ええ、そうですけど」

「清水町にお住まいの、清水町グリーンハイツ2番館205号室の、なかむらありあさんですね?」

「そうです」

「わかりました。すぐに出動しますので、その場から絶対に離れないでください」と言って電話は切れた。



 5分も経たないうちに、遠くからほのかにパトカーのサイレンが響いているのが聞こえてきた。あのパトカーがこちらに向かってる警察官が乗ってる車だろうか。それにしては、パトカーのサイレンがずいぶんとやかましい。一台ではなく、三台以上のサイレンが輪唱のように鳴っている。どこかでカーチェイスでもやってるのだろうか。


 そのサイレンはだんだん大きくなって、アリアのマンションの前で止まった。

 床に付着している足跡を踏まないように気を付けながら玄関から表に出て、マンションの二階廊下から見下ろすと、パトカー4台と白バイ2台が、道路の端に一列に並んで停車していた。赤いランプが順番に点滅するように回転している。


 空き巣に入られたアリアにとっては一大事だが、ここまでたくさん警察官が出動する必要はあるのだろうか。

 呆然とパトカーを眺めていると、無線で「ただいま清水町到着しました」と言っている声が聞こえた。

 パトカーから人がぞろぞろ出てくる。合計ちょうど10人。みんな青いカッターシャツの上に黒の分厚い防弾チョッキのようなものを着ている。


 ヘルメットをかぶった白バイ隊員が、二階にいるアリアの姿を認めると、ほかの警官に何かを言って、アリアのほうを指さした。アリアはその姿を見て、なぜか思わずひるんでしまった。

 警察官は列をなして階段を登ってきた。


 そして、いちばん歳をとってそうな警察官がアリアの前までやってくると、

「アンタがなかむらありあ、だな?」 と威圧するように言った。

「そうですけど……」

「有る、という漢字を繰り返して、ありあって読むので間違いないな?」

「はい」

「身分証明書か、何か持ってる?」

「それはありますけど、それより部屋の中を見てくださいよ。留守のあいだに空き巣に入られたみたいなんです」

 アリアは玄関のドアを開けて中を示すと、警察官はそちらの方向をちらっと見ただけで、

「いいから、身分証明書、早く持ってきて」と言った。


 空き巣の捜査をするのに、なぜ身分証明書が必要なんだろう。それに、なぜこんなに警察官は高圧的にものを言うのか。俺は被害者だぞ、と言おうと思ったが、うしろに控えてるガタイのいい9人もの警察官の姿を見ると、従うしかない。


 部屋に入ってスーツケースを開けると、赤いパスポートを取り出した。

 台所のシンクの前まで上がってきた警察官に、それを手渡す。

 警察官はアリアのパスポートを開いて、アリアの顔写真を凝視した。写真とアリアの顔を交互に何度も見た。

 そして強くアリアを睨みつける。

「間違いないな……。詳しい話は署でしますから、ご同行願えますか?」といきなり敬語になった。


「ちょっと待ってくださいよ。空き巣の捜査するのに、なんで俺が警察署にいかなきゃいけないんですか。ほら、ここ見てください。ここに置いてあったパソコンがなくなってるんです。本棚もすっかり空になってる。きっと、古本屋にでも売ったに違いない。古本屋には防犯カメラも付いてるから、すぐに確認できるでしょう。本はともかく、パソコンがないと困ります。大事なデータはUSBにバックアップ取ってましたけど、パソコンに差し込んだままにしてたから、一緒に盗まれたんです」

「いいから、早く来てください。悪いようにはしないから」

 警察官はそう言って、パスポートをアリアの胸に押し付けるように返してきた。

 思わず受け取り損ねて、落としてしまう。床に落ちたはずみで、パスポートのページが開いた。そこには、



「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」


 という決まり文句の文章が書いてある。




 パトカーの後部座席に押し込まれ、ふたりの警察官に挟まれるようにして乗せられた。まるっきり犯罪者のような扱いだった。道路にはサイレンを聞きつけた野次馬の姿がまばらにあった。


 いったい、何だというのだろう。まさかうちに空き巣に入った犯人は、CIAのスパイか何かで自分は重要参考人として巻き込まれてしまったのだろうか。

 となりの若い警察官に、

「何なんですか、いったいうちに空き巣に入ったのは、何者なんですか?」と聞いてみたが、

「署についたら、担当の者からお知らせします」とそっけなく言われた。




 警察署に到着すると、エレベーターに乗せられて5階にある部屋に連れていかれた。四畳半くらいの広さで、事務用の机の端に、円錐状の傘がついた白熱電球のライトが置いてある。サスペンスドラマで見る取調室そのまんまの景色だった。


「座ってお待ちください。すぐに担当の者が来ますから」ヘルメットをかぶったままの白バイ隊員がそう言った。

 安っぽい椅子に腰を下ろすと、椅子の足がギシッという音を立てた。

 まさか、このまま逮捕されるんじゃないかという不安が湧きおこってくる。もちろん、身に一切覚えはない。知らないうちに俺は何か犯罪を犯してしまったのだろうか。それとも、前の会社で俺に恨みを持つ人間がいて、退職を機会にあることないこと警察に吹き込んだのだろうか。


 そんなことを考えていると、金属製の扉が開いて、短髪の40代前半くらいの男が、小さい段ボールを手に持って入ってきた。身長が高くてスーツ越しにも肩幅が広いことが一目でわかる、格闘技経験者をうかがわせる体格をしている。

「どうも、すみません。いきなりご足労いただいて。わたくし、こういうものです」男は机を隔ててアリアの正面に座ると、そう言って名刺を出した。

 受け取った薄っぺらい名刺を見ると、「××県警生活安全部青少年課 巡査部長 高橋光太郎」と書いてある。

 たしか110番したとき電話に後から出てきた男が高橋だと名乗っていたから、おそらく同一人物だろう。

「すみませんねぇ、担当の者が忙しくしているんで、わたしが対応させていただきます。ご確認しますが、あなたがなかむらありあ様でお間違えないですね?」

「そうです」

「有るという字を重ねて、ありあと読むそうですね。なかなかお洒落なお名前です」高橋はまるで猫を撫でるような口調で言った。


 アリアとしては、何だかバカにされているように感じる。

「あの、それがいったいどうしたって言うんですか? さっきから何度も確認されてますけど、僕が中村有々に間違いないです。さっき身分証明書を見てもらいましたから」

 高橋は足元に置いた段ボールの中に手を突っ込むと、透明のビニル袋に入った何かを取り出して、机の上に置いた。

「これ、あなたの物で間違いない?」

「あ……」

 ビニル袋に入っていたものは、アリアの名刺入れだった。仕事に行くときに持ち歩いていたもので、ふだん車を運転しないアリアは、その名刺入れのなかに定期券と免許証、そしていざというときのために1万円札を1枚だけ入れていた。


「僕のです。間違いないです」

「じゃ、当然こっちもあなたのですよね」

 高橋は続けてビニル袋に入ったアリアの免許証を机の上に置いた。

 アリアは自分でもわかるほど訝し気な表情で、黙ってうなずいた。

 名刺入れは、いつもはスーツの内ポケットに入れていたが、仕事を退職したあとは名刺も必要なくなったので、最近はどこに置いていたのかまったく記憶にない。なぜこれが警察署にあるのか。うちに入った空き巣が盗んでいったのだろうか。


 高橋はあらたまるように息を大きく吸い込んだ。そして、

「話せば長くなるんですが、実は中村有々は今、逮捕されてるんですよ」と言った。


「はあ??」素っ頓狂な叫び声をアリアは上げた。

「まあ、簡単に言うと、あなたのこの名刺入れと免許証を持った人間が、6日前ちょっとした事件を起こしたんで、逮捕したんです。で、犯人は事件については自白しているものの、なぜか自身のことについては一切口を開かないんで、そいつを中村有々として扱うほかなかったんです。なにせ、ほかに手がかりはないし、しかも免許証の顔写真も、あなたそっくりでしたからね」


 アリアは頭が混乱した。なかなか理解が追い付かない。とりあえず警察が、逮捕した中村有々ではない人間を、中村有々として勘違いしたということだけは、わかった。


「じゃ、その犯人ってのがうちに空き巣に入ったんですか? それでパソコンとか名刺入れを盗んだ……」

「いえ、それは違います。名刺入れはどこか別のところで落とされたんじゃないでしょうか。それを犯人がたまたま拾った、と」

「だったら、うちに空き巣に入ったのはいったい誰なんですか?」


「あの、申し上げにくいことなんですが」高橋は一度咳払いする。「中村さんの家に入ってモノを持ち出したの、我々なんですよ。申し訳ないです」

 どういうことだ。警察がうちに空き巣に入ったということだろうか。

 その疑問に答えるように高橋が続ける。

「さっき言ったように、犯人の手がかりが中村有々さんの免許証以外になかったわけですからね。中村有々さんのお宅に、証拠確保のために家宅捜索に入ったんです。パソコンや書籍は押収して、署で保管しています」

「なんだそりゃ!? ふざけるなよ」アリアは叫んだ。


 部屋のなかの様子を思い出す。床が足跡だらけだったから、家宅捜索には土足で上がったに違いない。人を勘違いしたのは百歩譲って許せるとして、靴くらい脱いだらどうだ。

「まことに申し訳ございません」高橋は椅子に座ったまま、机にこすりつけるようにして頭を下げた。

 チッと思わず舌打ちが出る。俺の名刺入れを持ったまま法を犯した犯人にも腹が立つが、それよりもよく確認しないまま家宅捜索までした警察のほうに怒りを覚える。


「とりあえず、俺――つまり中村有々――が犯人じゃないということは、もうわかっていただけたんですね? そりゃそうでしょう。だって俺はここ一週間、日本にいなかったんだから。だったら、うちから持ってったもん早く返してくださいよ。何の証拠にもならんでしょう」

「押収品をお返しするには、還付請求という手続きが必要になりますので、それをしていただくことになります。検察と協議の上、後日ご自宅にお届けします」

「なんですか、それは。勝手に持ってったくせに、返してもらうのになんで俺がわざわざ手続きしなきゃいけないんだ。バカバカしい」

「うちもいちおう役所の端くれですから。書類のやり取りの手続きをおそろかにすると、いろいろ後で面倒なことになるんですよ。お怒りはごもっともですが、何とかお願いします」

「それじゃ、ほかのものはいいから、タブレット端末だけでも今すぐ返してください。アイパッドみたいなやつ、あったでしょう。あれがないと、困るんです」

「ちょっと、聞いてきます」

 高橋は席を立って部屋から出て行った。


 5分ほど経過してから、高橋は白いベゼルのタブレットを手に持って帰ってきた。

「本来ならばまだお返しできないんですが、今回は特別にということで」とまるで恩を着せるかのように言いながら、アリアに返却する。

 画面に触れてみたが、反応はない。どうやらバッテリーが切れてるようだった。


「申し訳ございません」と再び高橋は言った。

「まあ、誤解は解けたみたいだし、返してもらえるなら、いいです。でも、土足で部屋に上がるのは、いくらなんでも酷いじゃないですか。帰ったら掃除しなきゃいけない」

「家宅捜索で押収となると、何度も出入りしなきゃいけなくなるんで、靴のまま上がる不届者もいるようです。完全にこちらの落ち度です。申し訳ない」

「それで、俺の免許証を持ってた犯人ってのは、いったい何をやって捕まったんですか?」

「いや、まあ……大したことじゃないですよ」と高橋は言葉を濁した。


 先ほどもらった名刺には、高橋の所属は「生活安全部青少年課」となっていたのを思い出す。傷害かなにかだろうか。それとも、家宅捜索が必要となると、未成年に対する薬物売買か。


 まあ何にせよ、俺にはもう関係ないことだ。

 押収品還付請求という書類を高橋の指示する通りに書いた。

 そしてタブレット持ったまま警察署から出ると、アリアはここに来るのにパトカーに乗せられてやってきたということを思い出した。署に戻って「パトカーで送ってくれ」と言おうかとも思ったが、けったくそ悪いので電車に乗って帰ることにした。




 駅前のオレンジ看板の牛丼屋で大盛りをテイクアウトして、自宅のワンルームマンションに帰ると、すでに夕方を過ぎて夜になっていた。


 蛍光灯を点けて、ノートパソコンがなくなって広くなってる机の上に牛丼の入った袋を置いた。床の上の砂を軽く手で掃い、手を洗ってから牛丼の蓋を開けた。


 まったく、つまらないことに巻き込まれたものだ。

 食事を終えて、電源ケーブルを差し込んでいたタブレットを手に取って電源を入れた。まだ12%までしか充電されていないが、電子書籍やブラウザ機能を少しだけ使うにはじゅうぶんだろう。


 旅行に行ってるあいだに発売されたマンガなどを確認し、まとめサイトなどを適当に見ているうちに、

「ひょっとしたら、中村有々の名前で捕まった何某のことがニュースになってるんじゃないか」ということを思い立った。

 検索エンジンのページに「中村有々」と入力する、いわゆるエゴサーチというやつをやれば、何かの記事が出てくるかもしれない。アリアは今までにエゴサは一度もやったことがなかった。みょうに緊張しながら「検索する」ボタンを押した。


 タブレットの画面が切り替わって、「中村有々」の検索結果を表示した。




 "14歳少女殺人の容疑で29歳男を逮捕"


 今月3日に××市内の宿泊施設で14歳の少女の遺体が発見された事件で、××県警は住所不定無職、中村有々(なかむらありあ)容疑者(29)を強制性交および殺人の疑いで逮捕したと発表した。中村容疑者は「性行為は合意の上で、殺すつもりはなかった」などと否認をしている。中村容疑者と被害者の少女はインターネットの掲示板を通じて知り合い、その日のうちに宿泊施設に向かったという。「性行後に金銭の支払いをめぐって少女とトラブルになり、カッとなって殴った」と供述している。少女の遺体は左上腕部を骨折しており無数の打撲があったため、強い殺意があったと見て取り調べを進めている。



 いちばん最初に出てきたその記事を読んで、アリアは目が点になった。

 何かの間違いじゃないだろうか。それとも、自分と同姓同名の中村有々という人物が同じ市内に住んでいたのだろうか。


 警察官の高橋は、「中村有々」とされた人物が犯した罪について、「大したことじゃないですよ」などと言っていたが、大したことないどころじゃない、殺人というこの世で最悪の大罪じゃないか。


 しかもその罪が、自分の名前で犯人が発表されて記事になってしまっている。

 旅行に行っているあいだに、「中村有々」にとんでもないことが起こっていたということを、ようやく認識した。浦島太郎どころの話じゃない。


 アリアはさらにページを進めると、マイナー週刊誌のWEB記事らしいものが目に入った。



 "14歳少女殺人事件、容疑者の自宅から美少女ゲームやホラー映画を多数発見"


 既報のとおり、××市で発生した14歳少女殺人事件で逮捕された中村有々容疑者(29歳、無職)。警察が中村容疑者の自宅であるワンルーム賃貸マンションを家宅捜索し、多数の美少女マンガやフィギュア、ホラー映画を押収したことがわかった。


 中村はいわゆる「オタク」で、所持しているマンガのなかにはいわゆる同人誌と呼ばれるものもあったという。政治評論家で、オタク事情に詳しい評論家の宮沢哲氏に聞いた。

「同人誌というと、一般的には趣味人が小説や俳句などの創作を発表する媒体を指すが、マンガの同人誌とは二次創作、つまりすでにあるマンガやアニメの登場人物をもとに素人が別のストーリーを作って販売するものが多い。しかしその内実は、ほとんどがポルノ作品になっている。要するに、普段は服を着ているアニメキャラを脱がせて、ときには性行為を描くもの。著作権上はかなり黒に近いグレーという扱いになっており、同人誌の二次創作には異議を唱える作家、漫画家も少なくない」


 また、中村容疑者の所持するノートパソコンからは、成人向けポルノゲームが複数インストールされていたこともわかっている。ハードディスクには、ほかにも違法コピーされたAVなどが約5GBもの容量を占めていた。


 中村容疑者の自宅近隣に住む住人に話を聞くと、「たまにすれ違って挨拶をする程度で、それ以上の関係はない」ということだったが、数か月ほど前から近くの公園でスズメやカラス、ネコの死体が相次いて発見され、住人のあいだで気味悪がられていたという。


 中村容疑者がつい最近まで勤務していた会社に取材を申し込むと、直属の上司であった人物から話を聞くことができた。中村容疑者は会社では営業を担当しており、ふだんの勤務態度はきわめて真面目だったという。社交的でとても明るく、初対面でも気安く話しかけられる雰囲気を持っており、営業成績は良かったようだ。

 しかし先月いきなり退職すると言い始め、思いとどまるよう説得したものの、中村容疑者の意志は固く揺るがなかった。「急な退職と今回の事件に、何か関連があるのではないか。計画的な犯行かもしれない」というのはこの上司の言だ。


 果たして、変態アニメや成人ゲームを愛するこの異状殺人者の心にはどのような闇があったのか。


 △△大学大学院の下原万亀子しもはらまきこ教授(社会学)に話を聞いた。


「おそらく、今回の事件の容疑者は、女にまったくモテない俗にいう【非モテ】だったのではないでしょうか。異性とのコミュニケーション能力に欠け、現実の女性にまったく相手にされないことから、代償としてマンガやアニメやゲームの美少女に耽溺するうちに、現実とフィクションの区別がつかなくなって犯行に及んだのだと思います。オタクのあいだでは【二次元】と呼ばれる創作物のなかでは、女性は男の性欲を満たす道具として描かれています。これまでにもマンガや成人ゲームの影響を受けた人物が、凶悪な性犯罪事件を起こしたことは何件もあり、もはや二次元が社会に悪影響を与えていると証明されていると言っても過言ではありません。下着泥棒や痴漢やレイプなどの性犯罪を犯した人物の自宅から、AV含むポルノ作品が見つからないことのほうが珍しいくらいです」


 どうやら中村容疑者が所持していたフィクションの創作物が犯行のきっかけになったことは間違いないようだ。下原教授は話を続ける。


「外国では、児童ポルノはたとえ描かれたものでも所持することは禁止されています。絵であったとしても、描かれた少女の人権を侵害していると考えるからです。堂々と書店で自動ポルノを販売しているのは世界中でも日本だけで、まったく恥ずべき状況です。この事件を契機として、国会で児童ポルノの全面禁止の法改正を議論していただきたいと思っています。わたしの今の研究は、ポルノが社会、特に経済活動に与える影響をテーマにしており、ここ数十年の日本の経済的凋落はすべて児童ポルノというシングルファクターによってもたらされた、という強いエビデンスが発見されています」


 検察は来週にも中村容疑者を起訴する方針だ。オタク殺人犯、中村有々に殺害された無垢なる少女の霊を慰めるためにも、厳罰を以ての処断を期待したい。




 それを読むと、アリアは首がちぎれてしまうんじゃないかというくらい強いめまいを感じ、さっき腹のなかに入れた牛丼を吐き出してしまった。


 警察に押収されたパソコンの中身を、勝手に公開されて記事にされている。

 たしかに警察に押収されたパソコンのなかには、エロゲーをインストールしていた。しかしエロゲーと言っても体験版だけで、買ったことは一度もないしエンディングまでプレイしたこともない。本棚に同人誌があったのは事実だが、とあるアニメのサブキャラを主人公にした普通のマンガだ。所持しているDVDのなかにホラーアニメの映画が一本だけあったが、たくさんあるうちのひとつに過ぎない。

 無修正AVの違法コピーをダウンロードしたのは事実だが、それくらい今どき誰でもやってる。


 なのに、ここまでボロクソに書かれなければならないのか。

 というか、そもそもアリアは殺人もレイプも犯していない。名前も知らない俺の免許証を持ってただけのやつがやったことだ。一万歩譲って俺が犯人だったとして、俺が読んでるマンガに何の関係があるのか。


 このウェブサイトのニュース記事にはコメントが付けられるようになっており、読んだ人の感想が書き込まれていた。


「ありあwwキラキラネームwwww」というのがいちばん最初に表示されてて、このコメントに「いいね!」が5000以上押されていた。


 その次は、「このロリコンキモオタクソニート、死刑でいいだろ。税金使って裁判やるだけ無駄だ。さっさと殺せよ」というものだった。

 中には記事に異議を申し立てるコメントもあったが、「この記事はおかしい。悪いのはあくまでもこの中村有々という鬼畜サイコパスであって、マンガやエロゲには罪はない」というものだった。

 アリアはそれを読むと、

「俺にだって罪はないわ!」と叫んだ。




 翌日の朝、9時になるのを待ってアリアは警察署に電話をした。誰にクレームしていいものかわかりかねたので、昨日出てきた高橋光太郎という巡査部長を呼び出してもらった。


 長く待たされたあげく、ようやく高橋が電話口に出てきた。


「はい、高橋ですが。何かございましたか?」と相変わらず低い声で言う。

「ございましたか、じゃないですよ。あれはいったい何なんですか!?」

「何のことでしょう?」

「昨日、俺と間違ったっていう犯人が何の罪を犯したかって聞いたとき、あなた『大したことじゃない』みたいなこと言いましたよね? 家に帰ってからニュース記事見てみて、びっくりですよ。殺人と、しかもレイプの疑いがあるってことじゃないですか。そんな大犯罪を、俺の名前で発表されたんんだ。いったい、どういうことですか」アリアは堰を切ったように捲し立てた。


「まあまあ、中村さん。落ち着いてください」と高橋はなだめるように言った。「間違えたことは完全にこちらの落ち度ですが、今日の夕方に捜査本部のほうから記者会見で、事実を率直に認めてマスコミ各社に訂正を依頼いたします。ですので、ご安心ください」

「そんなんで、安心なんかできるわけないだろう! ふざけるな!」

「たいへん、申し訳ございません」

「それに、あの記事はなんなんなんですか。家宅捜索して俺のパソコンやらマンガやらを持ってったのは、まあ仕方ないとしても、その中身までバラす必要がどこにあるんですか。完全にプライバシーの侵害じゃないか」


 中村有々が殺人犯であるという誤解は解消できたとしても、もはや世間に広く知られてしまった、同人誌を持っていたことやエロゲーをインストールしていたという事実は、消しようがない。謝罪されてどうにかなるというものでもないが、とにかくこの件がいちばん腹が立つし、実害がある。

 しかし高橋は、

「さて、何のことでしょうか?」とわざとらしい口調で言った。

「週刊誌の記事が出てたじゃないですか。俺の持ってたマンガとかを、なぜバラす必要があるんですか。今や俺は、ネット上でロリコンキモオタ呼ばわりされてるんだ。こんな理不尽なことがあるか」

「それについては、我々は存じません」高橋はきっぱりと言った。

「なんだぁ? 知らないわけないだろう。ニュースになってたんだから」

 高橋は5秒くらい沈黙していた。そして、

「その記事に関しては、わたしもちらっと見た記憶はありますが、あれは単なる週刊誌記者の憶測記事です。こちらから押収品の中身を発表したという事実はございません。当然でしょう。公務員として守秘義務があるんですから」


「ふざけるな!」アリアはスマホを耳に当てたまま、目の前にある机をこぶしで殴りつけた。「あんたらが情報をリークしたから、記者が書いたんじゃないか。それとも、何か。記者が警察署に不法侵入して、勝手に押収品の中身を取材したとでも言うつもりか」

「そうは申されても、わたくしどもは記者には情報はいっさい渡していない、としか言うことはできませんねぇ」

「ウソ言うんじゃねえ!」

 アリアはもう一度机を叩いた。床までも振動して、座っているアリアの尻にまで伝わってくる。


「中村さん、そもそも誤解してるんじゃないですか? あなたに関するニュースを報道したのは、我々じゃないんだよ。記事を書いたのは、週刊誌でしょう。だったら、記事に関する苦情は週刊誌に言うのが筋ってもんじゃないかな」それまでずっと敬語を使っていた高橋の口調が変わった。「いちおう念のために言っておくけど、我々の行った家宅捜索は完全に法的手続きに則ったもので、違法性はまったくないんだよ。だってそうでしょう。裁判所の令状とってからやってるんだから」

「そんなこと俺は知らないし、関係ない。俺のことについて嘘ばっかり書いた新聞や週刊誌に、記事を全部取り消させろよ。たまったもんじゃない」

「はて、中村さんはわたしどもにマスコミを弾圧しろとおっしゃる。そんなことできるわけないだろう。言論表現の自由は憲法で保障されてるんだから」

「クソ! お前ら全員訴えてやるからな!」

「どうぞご自由に。こちらとしては、あなたが著作権侵害のポルノを所持していたという証拠はがっちり握ってますので、訴えるなら覚悟の上で行ってください。それでは、これ以上あなたと話してても無駄なようですので。ご自愛ください」

 それで電話は切れた。


 アリアはスマホを耳から話すと、通話時間が表示されているディスプレイを呆然と眺めた。ツー、ツー、ツーという電話が切れたことを示す音が、スピーカーから微かに聞こえてくる。


 タブレット端末を開いて、ニュース記事を見る。ニュースコメント欄には、中村有々という人物はこの世に生きるに価しない、ロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニート殺人犯だという書き込みが、数えきれないくらいに増殖していた。


 翌日の早朝、アリアはまだ夜が明けないうちに駅に行き、朝刊を買った。そして、その場で裏のテレビ欄を一枚めくって社会面のあちこちを見回した。



 "警察が逮捕した容疑者の氏名を訂正"


 ××県警は先日逮捕した少女殺人事件の犯人の名前に間違いがあったことを発表した。犯人が別の人物の免許証を所持していたため、誤認したという。犯人は自らの本名については黙秘を続けており、まだわかっていない。警察は動機を含めて慎重に捜査を進めている。



 社会面の右端に、手のひらの大きさにもみたいないくらいの面積で、そう報じてあるだけだった。




 昼過ぎにアリアのスマホに電話がかかってきた。ディスプレイの表示を見ると、建設会社に勤務している同級生の鈴木だ。すぐに通話ボタンを押して電話に出る。


「おい、中村か? お前、大丈夫なんか?」

 友の声を聴くと、少し会ってないだけなのに、もう何年ぶりかみたいな懐かしさを覚えた。

「いや、あんま大丈夫じゃないよ」

「何日か前だったか、いきなり『中村有々』という人物が逮捕されたってニュースが出て、しかも女子中学生を殺したっていうやんか。同姓同名かと思たけど、お前と同じような名前の人間が、そうそうおるわけないし、テレビのニュースではお前の顔写真まで出てたからな。何度かお前の携帯に電話してみたんやけど、ずっとつながらへんから一瞬本当にやっちまったかと思てたわ。ほな、今日の新聞に間違いだったみたいな記事が出て、いったい何のこっちゃかわからんくてな。いったい、何があったんや?」


 アリアは訥々と、少しのあいだ旅行に行ってて電話に出られなかったこと、そのあいだに、いつの間にかどこかで落としたらしい名刺入れを拾った人間が事件を起こしたこと、そして警察がその犯人を中村有々という名前と誤認したこと、などを説明した。


 アリアの説明をすべて聞き終わると、

「なんや、それ。んなことあるんかいな。えらいひどい話やな。ポリの野郎ども、ちと杜撰すぎひんか。俺も最初から何かおかしいと思ってたんや。お前はどっちか言うたら熟女好きやし、女子中学生に手出すなんてこと、有り得へんやろ」

 熟女好きは余計だが、とりあえず心配して一緒に怒ってくれていることは伝わってきた。

「ほいで、身の回りになんかおかしなこと起こったりはしてへんのか?」

「とりあえず、飯食って寝るぶんには問題ない。でも、ネット上にはもうおかしなこと書かれまくってて、どうしようもない」


「ああ……」と言って鈴木は絶句した。

 どうやら鈴木も、中村有々という人物が、ニュースを聞いた有象無象の面々にどのような評価を下されているか承知しているようだ。

「ちょっと日本を留守にしてるうちに、俺はどうやらロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニート殺人犯というやつに、なってしまったらしい。今はいちおう、退職したばっかで無職だから、糞ニートはまあいいとして、マンガやアニメも好きだからキモオタという評価は受け入れるが、そのほかには一切心当たりがない。たまったもんじゃないよ」

「削除依頼とか、出せないのか?」

「もとになったニュース記事は、今朝になってからぽつぽつと削除されて行ってるけど、それをネタにしたSNSの書き込みは、もう数えきれないくらいあるし、打つ手はないかもしれない」

「そうか……」

「まあ、いつまでも腐ってられないし、しばらくネット上の情報は見ないことにして、気持ちを切り替えてやってくよ。来月から、お前の会社の世話になることだしな。いちおう履歴書は書いてあるけど、いつ行けばいい? 俺はいつでもかまわないけど」


「それが……」

 そう言ったきり、鈴木はしばらく沈黙した。

「どうした?」二分以上経過してから、先を促すようにアリアは言った。

「やっぱり、うちの会社で働くって話、ナシにしてくれんか?」

「え? いったいどういうことだ?」

「言いにくいんやけど……、社長に『中村有々っていう同級生が今度会社辞めるから、うちで働きたいって言うてますねん』とお前のことを話すと、社長も興味を持ったみたいでぜひうちに来てもらえってな話をしてたんやけど、その後に例の事件のニュースが出たやろ? 社長も俺が一回しか言うてないお前の名前を覚えてたから、もう働く働かんのレベルの話じゃなくなってな……。ほんで、今日それは誤解やったと俺が新聞記事を見せて伝えたんやけど、例の週刊誌の記事も読んで真に受けたみたいで……、社長が言うたことそのまんま伝えるけど、ようするに、勘違いだったとしてもそんな怪しげな人物を雇えるか、わけのわからないマンガや成人ゲームをやってるやつなんか、ろくなもんじゃない、と……」

「なんだよ、それは。話が違うじゃないか!」

「すまん」


 警察が訂正を発表したことで、ロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニート殺人犯ではなくなったかもしれないが、この不名誉な肩書きのうち「レイプ魔殺人犯」の部分をそそぐことができただけで、引き続き「ロリコンキモオタサイコパス糞ニート」であるらしい。

 客観的に自分の状況を見てみると、週刊誌にあのような書かれ方をした人間を雇いたがる会社は、おそらく日本中に皆無だろう。あるいは前科者より不名誉な扱いを受けるかもしれない。


 しかし、次の就職先のアテがあったからこそ、前の会社を辞めることができたのだ。今さらひっくり返されては、たまったもんじゃない。


「そんな、どうにかならないか?」

「お前の再就職先が早く見つかるよう、俺もできることは協力するよ。俺はこれから午後の仕事が始まるから、また後で。用があったらメール入れといてくれ。それじゃ」


 夕方遅くなってから、警察に押収された物が宅配便で送られてきた。着払いだった。

 その日以降、鈴木にメールを送っても返事は来なかった。電話をすると、留守番電話につながるばかりだった。もちろん、再び会うことはなかった。



***



 約9か月後、アリアは福祉事務所の窓口に居た。窓口で事情を話すと、奥の仕切りで区切られてソファが置いてある空間に案内された。


 座って待っていると、間もなく生活保護担当の職員がやってきた。

「あんたなの? 生活保護申請したいって人は?」どう見てもアリアより少し年下、20代真ん中くらいのその職員は、ソファに座っているアリアを見下ろしてそう言った。

「はい、よろしくお願いします」アリアは立ち上がって、深くお辞儀をした。


 鈴木の建設会社で働く話がダメになって以降、アリアはハローワーク通いをしていた。無職で収入はないのだ。たくわえもそんなにたくさんあるわけではない。生きていくには、とにかく職を見つけなければならない。


 しかし、「中村有々」という名前は強く人々の印象に残っているらしく、ハローワークの窓口職員にも犯罪者を見るような目で見られた。アリアは警察の訂正を知らせる小さな新聞記事を切り抜き、持ち歩いていた。そして、事件のことを知ってはいるが、犯人がいまだに「中村有々」だと思い込んでいる人に会うと、その記事を見せて自分は無罪であることを訴えた。


 面接に行った回数は、30回を超える。しかし最近はどこの会社も雇用しようとする人間について、その名前を検索エンジンにかけてどういう人物か調べるらしく、アリアが面接に通ることは一度もなかった。

「中村有々」と検索すれば、いまだに一番目に表示されるのは、例の殺人事件のニュース記事をまるまるコピペしたブログが出てくるのだ。逆に「中村有々」が犯人でないという記事は、いくら探しても出てこない。


 一度、法テラスの予約をして、弁護士の30分間の無料相談に行ってみた。しかし弁護士が言うには、警察を訴えるにしても、犯人が免許証を所持していた以上は免許証と同一人物であると推測する合理的な理由があり、しかも国を相手の国賠訴訟となると、勝てる可能性は極めて低いということだった。

 家宅捜索の令状を出したのは裁判所なのだから、それを裁判所みずから過ちを認める可能性は限りなくゼロに近い。


 勝手にアリアの所持してるマンガやパソコンの中身を記事にしたマスコミを名誉棄損で訴えることは不可能ではないが、記事の内容から勝っても得られる金額はせいぜい100万円から200万円ていどで、訴訟にかかる費用を考えると赤字になる可能性のほうが高い。


 鈴木の建設会社で働くことがダメになった件は、そもそも正式に雇用契約が成立してないので、不当解雇や内定切りという不法行為に該当する可能性はないらしい。


 つまり法は一切、アリアの味方をしてくれない。


 何度も面接に落ち続けるうちに、アリアの銀行預金はどんどんやせ細っていき、とうとう残高28円になった。家賃ももう3か月以上払っていない。不動産管理会社の従業員は、ほぼ毎日やってきて、暴力団員のような脅し文句で取り立てをしに来る。


 いつか見た、パスポートに書いていた文言を思い出す。


「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する」


 関係の諸官とは、主に外国の公務員を指しているのだろう。しかし、アリアは日本人であるはずなのに、日本国が「必要な保護扶助」を与えてくれない。


 最後の最後、藁にもすがる思いでやってきたのが、この市役所と同じ建物にある社会福祉事務所だった。


 もう一週間近く、何も食べていない。このままじゃ、餓死してしまうのを待つばかりだ。

 働いて給料をもらっていたときにはしっかり納税していたんだから、今度は俺が支えてもらう番になったとしてもそんなおかしなことではないはずだ。生活保護は恥ずかしいことではない。そもそも俺には何の落ち度もない。社会が勝手に勘違いして俺を迫害している。俺ほど悲惨な人間も、なかなかいないんじゃないか。俺には助けてもらう権利が、きっとある。


 目の前に座った生活保護担当の職員は、胸に「山田」というネームプレートを付けていた。


 生活保護を受給するのはかなり難しいと、どこかのニュース記事で読んだことがある。「水際作戦」と言って、生活保護をなるべく受給させないよう取り組んでいる役所もあるらしい。今この目の前にいる山田という役人の仕事は、アリアの話す内容に少しでも問題があれば、それを指摘して追い返すことかもしれない。たぶん、そうだろう。アリアはなるべく客観的になるよう気を付けながら、新聞記事の切り抜きを提示して自分の身に起こったことを述べた。


 山田は足を組んで頬杖をつき、視線をあさっての方向に向けていた。とても真面目な態度とは言えない。話をちゃんと聞いているのかどうかもわからない。


 それでもアリアは自分の置かれた環境を訴え続けた。

 話を終えると、山田は、

「ふうん。まあだいたい事情はわかったけど、身内に頼れる人とかはいないの?」と言った。


 アリアは母子家庭で育っており、幼いころに母と離婚したらしい父についてはほとんど何も知らない。会ったことも一度もない。母は苦労してダブルワークを続けながら、アリアを大学まで出してくれた。アリアが就職して、やっとこれから母に楽をさせてあげられるというとき、長年の過労が祟ったのか、心筋梗塞であまりにあっさりと帰らぬ人となった。母の姉つまりアリアの叔母とは数回会ったことはあるが、どこに住んでいるかも知らない。兄弟もいないため、アリアはほぼ天涯孤独の身となっていた。


 母がアリアの名前の由来について、一度だけ語っていたことがあった。産婦人科を初めて訪れたとき、待合室で小さく流れていた音楽が、バッハの「G線上のアリア」で、そのときに産まれてくるのが男の子でも女の子でもアリアという名前にしようと決めた、と言っていた。


 自分の名前が嫌いではない。むしろ好きなくらいだ。しかし、ここ数か月ほどアリアはこの名前を付けた母を恨めしく思ったことはなかった。


 せめて「佐藤一郎」のような有りがちな名前だったら、「同姓同名で別の人物ですよ」と言ってやり過ごせていたのに。平凡な名前だったら、検索エンジンに引っかかることも避けられたかもしれない。


 頼れる親族や友人などはもういないことを山田に告げて、

「生活保護を受給しましたら、速やかに家庭裁判所に名前変更の申請をして、就職活動を再開しようと思っています。とりあえず、名前を変えないことにはどうにもならないと、ようやく理解できました」と言った。


「まだ受給できるかどうかは決まってないよ」山田はアリアを嘲笑うかのように鼻を鳴らしていった。

「なんとか、お願いします。ほかにどうしようもないんです」


「でもさ、本当にアンタやってないの? 新聞や週刊誌がそんないいかげんなこと書くとは思えないけど。仮にアンタがやってないにしても、アンタにも何らかの落ち度があるんじゃない? だいたい、警察がリークした情報っていうのは、事実なわけでしょ? アンタがオタクのド変態だってことは、変わりはないわけだ。見たところ身体は健康そうだし、この人手不足の世の中、仕事なんて選ばなければなんとでもなるでしょ。それなのに困ったから税金にたかろうなんて、虫がいいとは思わないの?」


 それを聞いているうちに、頭の中から理性というものが徐々に霧消していくような気がした。

 お前に何がわかるのか。なんでこんな屈辱を受けなければいけないのか。そんなに俺が憎いのか。もう、この世のすべては俺の敵だということが、理解できた。もう誰にも気を使う必要を感じない。


 キレた。

 アリアはソファから立ち上がると、テーブルの端に手を掛け、ひっくり返した。


 それからしばらくは記憶がない。気が付けば、役所の警備員に、顔を床の上に押さえつけられていた。



 "××市役所窓口で暴力、30歳男を逮捕"


 ××県警は傷害容疑で中村有々(なかむらありあ)容疑者(30)歳を逮捕したと発表した。同容疑者は市役所の窓口に生活保護の相談に来ていたが、担当した職員の態度が気に入らないと素手で殴り、職員に全治1か月のけがを負わせた。同容疑者は「国のせいで自分の生活が悲惨なことになったから、国は生活保護を出すべきだ」などと供述し、おおむね容疑を認めている。



***



「よいしょ」と言いながら佐藤一郎は肩に乗っている大きな麻袋を下ろした。


 腰を軽く手のひらで抑えながら立ち上がる。遠くには、今朝港に到着したばかりのケープサイズの大型バラ積み船が、キリンの首のように黄色に塗装された大型クレーンで荷を下ろしていた。


 次の麻袋を取りに行こうとしたところで、港全体に響くような大きなサイレンが鳴った。

「さて、昼飯でも食うか」と誰かが言った。


 この仕事は昼休みが特に定められていないので、昼12時になったからと言っても食事を摂らなければいけないというわけではないのだが、習慣として一斉に一時間の昼休みを取るようになっている。


 佐藤も更衣室のロッカーに戻って、朝コンビニで調達してきた商品が入ってるビニル袋を取り出した。そして、倉庫の壁に背をもたれさせて、紙パックの500ミリリットルのコーヒー牛乳を取り出した。


 あごひもを外してヘルメットを脱ぐと、発泡スチロールに似た材質の内側が汗でじっとりとしめっていた。


「よう、いっちゃん。となり、座ってもいいか?」と不意に声を掛けられた。

 たまに仕事で一緒になる木村拓哉だった。

 佐藤は「いいですよ」と軽く答えた。


 木村は佐藤よりだいぶ年上で親子ほど離れているが、初対面のときから気さくに声を掛けて来た。ここでの仕事についていろいろ教えてくれたのも木村だった。何度か顔を合わせるうちに、木村は佐藤のことを「いっちゃん」と呼ぶようになっていた。


 マヨネーズたっぷりのソーセージパンの袋を開けて、かぶりついた。木村は少年ジャンプくらいの大きさもある弁当箱を開けた。覗いてみると、弁当箱の半分に大きな鶏の唐揚げが詰まっていて、もう半分は白飯になっていた。


 この仕事を始めてから、味の好みが変わった。とにかく体力を使うため、高炭水化物高脂質で塩分濃度の濃いものがほしくなる。


「いっちゃんとこの現場、今日はどんなだ?」と木村が訊いてきた。

「昨日とおんなじ、アメリカ産コーンの積み下ろしですよ」

「そっか。それじゃ俺んとこと同じだねえ」


 木村は大きな唐揚げにかぶりついた。一個食う? と言いながら、唐揚げをひとつ手でつかんで佐藤の前に差し出す。佐藤も、ありがとうと言って受け取り、すぐに口のなかに放り込んだ。


「何が悲しくて、こういうとこで豚の餌の積み下ろしをしなきゃいけないのかねえ。情けない。せめてもうちょい、給料が高けりゃやりがいもあろうもんなのに」木村が言った。


 当然、木村拓哉というのは本名ではないだろう。そもそも、佐藤だって、佐藤一郎という偽名を使っているのだ。



 生活保護の受給申請をしに行った市役所でキレてしまった後、警察署に連れていかれた。事情が事情だけに、起訴猶予になって法で裁かれることはなかったが、釈放されたとしても行くところはなかった。


 当然、生活保護申請も却下された。家賃も払っていない。財布のなかにカネはない。家に換金できそうなものはほとんど残っていない。頼れる身内もない。雇ってくれる会社も、あるはずがない。


 必然的に、ホームレスのような生活になった。公園や橋の下で生活をするうちに、自分と同じようなホームレスや半ネットカフェ難民のような人物と知己を得た。


 その中の一人に紹介してもらったのが、この港での積荷下ろしの日雇いの仕事だった。

「キツい仕事だが、健康なら務まるだろう。一日働けば8000円にはなるから、悪くないよ。働くのに偽名を使ってもバレない――というか偽名を使ってる人しかいないだろうから、過去を気にする必要はない。ようするに、シャキシャキ動く身体さえあれば雇ってもらえるよ」重度の糖尿病で身体中のあちこちが黒く壊疽し、もはや死を待つだけのホームレスの先輩が、そう教えてくれた。


 そして、佐藤一郎というありきたりの偽名を使って、働くことにした。

 実際、港の仕事では誰からも身元を聞かれることは一切なかった。


 いくら作業が自動化したと言っても、船から降ろされた積荷をフォークリフトのパレットの上に乗せるのは、人力に頼る以外ない。50キロを超える穀物の麻袋や、外国製のビールが入った段ボール、小型の肉食動物のエサにするらしい冷凍されたオスのヒヨコなど、荷はさまざまだった。

 仕事は、一日に運ぶべき量をその日の朝に指定され、早く終わった日はその時点で帰っていいこととされていたが、午後5時までに終わらないと、残業させられることはなかったが日払いの給料が減額される。


 日雇い肉体労働者が集まる港の近くには、一泊1500円で宿泊できる三畳の広さにせんべいのような布団を敷いてあるだけの、粗末な宿泊施設もあった。ほぼホームレス生活をしていた佐藤は、ここに来てようやく、それなりに食べて雨露をしのげる環境を得た。


 もちろん、快適なはずはない。腰痛が慢性的に出てくるし、身体が動かなくなれば収入はゼロになる。辛うじて死なずにすんでいる、と表現するのが佐藤の今の状況を最も適切に表しているだろう。


 出版社に勤務していたころとは、何もかもが変わってしまった。

 しかし、本名で生活することが二度と期待できない佐藤にとっては、これが唯一の選択肢だった。

 まるで自分がぜんぜん別の人間に生まれ変ったような気がした。


 この生活を始めて、もう3年以上になるが、正確な時間経過は覚えていない。


「そういや、7番の保税倉庫によく行ってるダンさんって知ってるか?」と木村が訊いてきた。

 ダンさんというのは20代前半の男でアジア系外国人だが、出身国は誰も知らない。何度か同じ持ち場になったことがある。きれいな丁寧語の日本語をしゃべるので、おそらく日本語を習っていた実習生か留学生が脱走して、ここに流れ着いたのだろう。

 ここに外国人は少なくない、というより半分近くは外国人だ。どこの国かわからない言葉が常に飛び交っている。どうやって入国したのか知る術もないが、日本語をまったく話せない人もいる。


「知ってますけど、ダンさんがどうかしたんですか?」

「今朝、死んだんだってさ」

「へえ、そうなんですね」と佐藤は言った。

 日雇い労働者が死ぬのは日常茶飯事、とまではいかないが、よくあることだった。死んだ人間は警察に連絡すれば行旅死亡人つまり身元不明の遺体として引き取られていくが、入管や警察が入ってくるとめんどうなことなりそうな死体は、仲間内でこっそり処理している。重りを付けて海に沈める場合もあれば、河原や山に埋めることもある。


 ソーセージパンふたつと、大きなメロンパンひとつを食べて、佐藤は昼食を終えた。木村も大きな弁当をあっという間に平らげて、タバコに火を点けた。

「一本いる?」と木村がロングピースの箱を渡してきたので、礼を言ってもらった。


 港中に大きなサイレンが響いた。木村がタバコを咥えたまま、

「なんだ、昼休みもう終わりか」と言った。

 佐藤が立ち上がろうととすると、木村が佐藤の右手をつかんだ。


「あ、いっちゃん。また、仕事頼みたいんだけど、今晩か、一週間後でもいいけど」

「いつものやつですか? かまいませんけど。じゃ、今晩にしましょう」

「悪いね。夜11時くらいに、ここに迎えに来たんでいい?」

「いや、山の中の倉庫でしょう? 原付で行きますよ。夜11時ですね」

「あれ? いっちゃん原付なんて持ってたか?」

「いえ、誰のか知らないけど、鍵が付いたままのがあったから、使わせてもらってます」

 佐藤がそう言うと、木村は顔にしわを作って笑った。



 翌、深夜3時。

 佐藤は港から100キロ以上離れた都市の瀟洒な住宅街で、軽自動車のなかから外の様子をうかがいながら息をひそめていた。


 すでに開始から30分を過ぎている。緊張しながら待っていると、目の前の住宅の車庫に停まっている自動車のヘッドライトが点灯して、エンジンがかかった。自動車のマフラーが、いかにも改造車といった割れるような低い音を立てて空気を振動させる。


 改造車の運転席から木村が指で合図すると、そのまま運転して車庫から出てきた。そして、流れるような速さで住宅街のなかを走っていく。佐藤は木村の後ろを軽自動車で必死についていった。


 木村は車の窃盗を本業にしている。

 20年ほど前に流行ったスポーツカーは、最近の車と違って防犯機能がついていない、ついていても解除するのが簡単にできるため、窃盗するには最高の標的だった。


 盗んだ車をどこに売りさばいているのかは聞いても教えてくれなかったが、

「日本のアニメはあっちでも人気らしいから、おんなじものを欲しがる人が多いらしい。ちょっと前に流行ったのあったでしょ。走り屋が出てくるアニメが。状態が良けりゃ、新車の倍くらいの価格で売れるらしいよ。俺が業者に卸すときは、まあせいぜい一台数十万くらいだけどさ」と言っていたので、最終的には外国に転売されているのだろう。


 佐藤の役割は、木村が車のカギを開けてエンジンをかけるまでの見張りと、もし警察が来た場合には木村を乗せて逃げること。そして、木村の倉庫に行くまでにもしパトカーが追いかけてきたら、道路の真ん中に車を停めてパトカーの通行を妨害することだった。持ち主が表に出てきて逃げたことは一度だけあるが、パトカーに追われたことはない。


 佐藤はスピードの速い木村が窃盗した車を追いかける。黄色のマツダRX-7だ。古い車だがいまでも根強い人気のあるスポーツカーで、日本の中古車市場でも一台300万円くらいの値段は付いてもおかしくない。

 道路の監視カメラに、車のナンバーを自動で行方を追跡する「Nシステム」というのがあり、そこをうまくすり抜けるように移動しなければいけないために、木村はまるで毛細血管のような細い道路をわざと選んで通る。


 佐藤が木村のこの仕事を手伝うのは、これでちょうど10回目だ。


 良心の呵責など、あろうはずもない。法は俺を守ってくれなかったのだから、俺が法を守る義理もない。

 欲しければ盗めばいい。腹が立ったら殴ればいい。許せなかったら、殺せばいい。



 木村のアジトに着いたのは、朝5時を過ぎたころだった。

 盗んだ車を隠しておく倉庫は、林道を10キロほど登った山の中にある。一見すると単なる使わなくなった古い倉庫にしか見えないが、むかしは林業従事者が使う施設だったらしい。所有者が相続人不在のまま死亡したため、今は誰に所有権があるのかはっきりせず、近寄る人もいない。


 木村は車から降りて、建物のシャッターを開けた。なかには先月盗んだスカイラインGT-Rと、その前の月に盗んだS2000が停まっている。


「いっちゃん、だいぶ運転うまくなったな。そりゃ車はこっちのほうが上等なわけだから、俺のほうが早いのは当然だけど、なかなかしっかり付いて来てたじゃないか」

「もう、ヒヤヒヤもんですよ。木村さん速すぎますよ」

「はい、今日のぶん」

 木村は財布から1万円札を5枚取り出して、佐藤に手渡した。

「ありがとうございます」と言って、ポケットに突っ込む。


 今回の窃盗で木村がいくら儲かるのかは知らないが、佐藤にしてみれば車を運転するだけで5万円もらえるのだから、楽な仕事だ。毎日でもやりたいくらいだが、標的となりそうなスポーツカーは、そうそう簡単には見つからないらしい。


「今日はもう、さすがに港の仕事はパスだな。いっちゃんはどうする?」

「酒でも飲んで、そこからちょっくら遊んできますよ」

「元気だなあ。さすが、若いだけある。それじゃ、明後日くらいに、また港で」

「はい」


 佐藤は原付にまたがってヘルメットをかぶると、原付を発進させた。

 山を下ってるうちに太陽が昇ってきたらしく、朝の霧を白く染めた。一面真っ白の視界のなかにくねくねと曲がって伸びる細い林道は、まるで異世界に通じる一本道のようだった。



 駅前に着くと、朝6時を過ぎていた。コンビニに入り、トイレを借りるふりをして、カップ酒二本を万引きした。徹夜で仕事をしていたのに、不思議とあまり眠たくない。


 さて、どこで飲もうかと悩んだが、たまに寝るのに使っている24時間営業のマンガ喫茶兼ネットカフェに入ることにした。

 やわらかいリクライニングチェアの個室に入った。パソコンの電源を入れて、カップ酒を開ける。適当に動画サイトで違法アップロードされたアニメなどを見ていたが、やがてポルノ動画ばかりがアップされているサイトに行って、ポルノを見始めた。


 見ているうちに、中途半端に酒が回ったのが悪かったのか、ポルノではなく本物の女が欲しくなってきた。


 検索エンジンを経由して、これまでにも何度か利用したことのある、地域を限定した出会い系掲示板サイトに入った。今の時代、少しネットの路地裏に行けば、身体を売る若者は男女を問わずいくらでもいる。

 実際、何の手間もなく「求円Φ参保別前苺」という書き込みを見つけた。翻訳すると、「援助交際相手を求める、中学3年生、ホテル代は別で前払い1万5千円」となる。


 かなり若い、というかそもそも本当に中学3年の女子なのか確認しようもないが、とにかく呼び起こされた性欲を静めるためなら、なんでもいい。

 やることをやったら、殴りつけてカネを奪い返せばいいのだ。どうせやつらみたいなクソビッチは警察に訴えることなどできない。かえって、若い女のほうが好都合かもしれない。


 その女にメッセージを送ると、3分もしないうちに返事が来た。

 すぐに返事を書く。メッセージを3往復して、売買春の交渉が成立した。


 佐藤は残ったワンカップ酒を一気に飲むと、リクライニングチェアから立ち上がった。


 パソコンの電源を切って個室から出ようとしたとき、黒いケースのデスクトップ本体の上に、同じく黒い小さな何かがあるのを見つけた。


 どうやら小銭入れか名刺入れのようなものらしい。

 手に取って中身を見ると、電車の定期券のほかに、1万円札が1枚だけ入っていた。

「ラッキー」と思わず声に出す。


 定期券のすぐ下に、まだ何かカードが入っている。取り出すと免許証と名刺が数枚あった。持ち主の名前は、中村有々と書いて、なかむらありあと読むらしい。


 どっかで聞いたことあるような名前だが、いまいち思い出せない。

「まあ、いいか」

 佐藤はそう呟くと、名刺入れをポケットに突っ込んで、女が待っている場所へ向かった。


(終)

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ある日とつぜん、ロリコンキモオタレイプ魔サイコパス糞ニートになった。 台上ありん @daijoarin

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