おばあちゃんとの約束

「扉を開けっ放しにしちゃいけないよ。特に引き戸はね」


それがおばあちゃんの口癖だった。今ではしつけの一環だったのではと思うこともあるが、それでもあの古い祖母の家のことから考えると、何か意味があったのではないかと思わずにはいられない。

例えば、あの日見たものが幻でないのなら、きっと扉は開けっぱなしにしていてはいけないのだろう。


祖母の家は玄関から入って長い廊下が続いている。廊下を背骨にするように左右に部屋が振られていて、どんつきに大きな鏡があった。私はその鏡の前で遊ぶのが好きだった。理由はよく覚えていないが、おそらくは匂いに敏感であったからだろう。祖母の家は色々なにおいがした。例えば、居間は掘りごたつの炭の匂い、仏間は言うまでもなく線香の匂いがしていたし、庭に面する空き部屋は庭から上がってくる湿った土の匂いがした。

祖母はしつけにうるさい人で、やれ畳のへりは踏むなだの、北側の布団をまたぐなだの、カラスが鳴いたらかえってこいだの、今思えば口うるさい位が優しさだとは思うのだが、小さい頃はそれが非常に煩わしかった。特に言われたのが「扉を開けっぱなしにしちゃいけないよ。特に引き戸はね」と言うものだった。

当時、何がいけないのかはわからなかったが、きっと冷暖房の問題だったのだろう。

祖母の家は言うまでもなく古かったし、隙間風も多かった。それでも私は祖母の家の独特なにおいが我慢ならず、部屋を仕切る襖や障子を少しだけ開けていた。

そんなある日のことだった。その日は、祖母が漬けていた野沢菜を台所に出したばかりだったようで、あの独特な据えたようなにおいが台所から廊下にまで広がっていた。

廊下の鏡の前で遊ぶのが好きだった私は何とか耐えられるようにと、庭に面している部屋の扉をほんの少しだけ開けて、庭に匂いを逃がしていた。

どれくらい遊んだだろうか。臭いに慣れてきたのか、それとも集中していて気が付かなかったのか、ともかく匂いのことをそう考えなくなった頃、ふと顔を上げると、大きな鏡に私の顔が映る。背後には廊下が伸びて、玄関の扉が映り込んでいた。薄暗い廊下であったが、庭に面した部屋の扉は開けていたので、そこから外の光が入り込んで白い筋を作っていた。

それをじっと見つめていると、ふと影が横切った。いまこの家にいるのは私と、野沢菜の面倒を見ている祖母だけだったはず。外に猫でもいるのかと、鏡から目を離そうとした瞬間。扉からぬっと土にまみれた黒い腕が伸びて廊下にぺたりと手形を付けた。

驚きで固まっているその時に、台所からどたどたとせわしい祖母の足音が聞こえて、汚れた廊下も気にせずぴしゃりと扉を閉めてしまった。


「だから言っていただろう。引き戸はちゃんと閉めろって」


子どもの頃の話だから、おそらくは見間違えなのだろうが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その手の話 八重土竜 @yaemogura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ