問答の影

 これはTさんから聞いた話。

 その日Tさんは仕事が長引き、退勤は日付をまたいでいた。

 Tさんは会社の徒歩圏内に住んでいたので、いつもは健康のことも考え歩いて通勤しているのだが、その日はあまりにもつかれてしまっていたので、タクシーを捕まえることにした。

 だが、運の悪いことに中々空車のタクシーと行き合わず、Tさんはいつもは通らない大通りの道を少しずつ歩いて進んでいた。

 時間帯のこともあり、大通りでも時々車が途切れる。そんな瞬間は、しんとした夜の寒さと、まっすぐ続くだけの街灯の明かりが寂しかった。

 そんな寂しさを何度か味わったころ。Tさんはもうタクシーのことはあきらめていて、明日は休みだしと割り切って夜の散歩を楽しむ余裕ができていた。

 大通りにはそれなりに立派な家が立ち並んでいる。Tさんの住む新興住宅地とはまた雰囲気が違った。整ったツバキの生垣や、素人目でもわかる剪定された立派な松など。どれもきっと明るい時間に眺めたら心に癒しを与えたはずだ。暗い中にたたずむそれは今は大きな化け物にしか見えない時もあった。

 これで何度目か、車の明かりが途切れる。

 あたりが一層静かになって、Tさんがあることに気が付いた。

 そう遠くないところから、女性の声が聞こえている。

 ぼそ、ぼそ、と途切れ途切れになるのは生垣の揺れる音に混ざっているからのようだった。

 こんな夜更けに女性が外に出ているのは不用心にも思える。それに話しかける女性の声に答える声はない。

 不思議に思ってTさんは音の出どころを探すことにした。

 まずは自分の位置を掴もうとひょいと顔を上げてみる。暗い庭に何本もの庭木が経っている。風でひしゃげたのか、家屋の方に頭を下げた木が訪ねている客人にも見えるな、と思った時だった。

ぼそ、ぼそ、とまた声が聞こえる。今度こそ出どころが分かるぞと顔を上げれば、女性の声は今しがた見ていた庭から聞こえているようだった。家屋の方にひしゃげた一本の木が風もないのに揺れている。まるで家の中を伺うような動きで。

「ごめんください、いらっしゃいませんか」

確かに、そう訪ねていた。


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