せりあがるもの

 これは留学生のOさんの住む地区でたびたびある話だという。


 初めにOさんに話してくれたのは、多分隣の部屋に家族と住む小学生。日本語の苦手なOさんをからかい半分に教えてくれた話だ。

「あの川は、お化けがいるんだぜ」

 Oさんはもちろん子供の戯言だと思っていたが、今度は地域の寄り合いで老人からこんな話を聞いた。

「あんた、川の傍に住んでるんだろ? だったら、夜中に騒いでる奴にうるさいって言っといてくれ」

 もちろん、Oさんは川沿いの家に住んではいたが、彼が住み始めてから夜中に騒ぐ人など見たことはなかったし、何なら友人にも確認してみたが、そんな体験はしたことがないとの話だった。

 それからまたしばらくしたころ、今度は学部の友人から似たような話を聞いた。


「なぁ、O。お前ってA地区に住んでるんだってな?」

「うん。そうだけど」

「川の近くなんだろ?」

「そうだよ」

「幽霊が出るってマジ?」

「幽霊?」

「あれ? 知らないの?」

「ほんとにそんな噂があるの? そんなの話してるの近所の小学生くらいだけど」

「いや、昔っからあの辺は出るって噂だけど。特に、川のあたりは」

「へぇ」


 その時は曖昧に頷いた。人の噂には尾ひれがつくものだし、それこそ噂話ほど信憑性のないものはないとOさん自身は思っていたからだった。

 それからしばらくしてのことだった。

 その日は台風の近づく天気の悪い日だった。特に、川面を通り抜けてくるらしい強い風のせいで、Oさんの住むぼろいアパートの窓はずっとガタガタと音を立てていた。

 音に悩まされながらも、大学は強風の影響で休校になってしまっているのでOさんは家に籠りきりになってしまう。びゅうびゅうと吹きすさぶ風の中に、その内に雨の音も混ざり始める。ばらばら、バタバタと強くたたく音を聞いて、Oさんはこのアパートが壊れたりしないかと気が気ではなかったそうだ。

 次第に強くなる雨の音を聞いて、Oさんが心配し始めたのアパートの極近くを流れる川だった。氾濫なんかされたら最後Oさんには逃げ場がない。雨脚はどんどん強くなる。Oさんはたまらなくなり、カーテンを開けた。

 果たして、そこにはだいぶ水嵩の増した川が流れていた。どこから流れてきたのか、茶色い水がごうごうと渦巻いている。だが、もうしばらくは大丈夫そうだとOさんは胸をなでおろした。予報に寄ればあと数時間もしないうちにピークも終わる。

 もう家の中から出ることもないのだし、今日は寝てしまおうとカーテンを閉めようとした瞬間、Oさんは異様なものを見た。

 茶色い水の中から黒い手が岸を掴むように揺れているのだ。それも一本ではない。二本、三本と増えたそれが、その内に運よく岸を掴んで体を水から引き上げる。水にぬれた真っ黒な体は折れそうなほどに細かった。

 その異様な光景に釘付けになっていると、黒いものの一つがOさんの方に顔を向けた。凹凸のない、のっぺりとした顔だったが、その時確かに目が合ったとOさんは思った。

 急いでカーテンを閉め、家の戸締りを確認する。

 しばらくしないうちに風が強くなったのか、窓の揺れが大きくなり、気圧の関係で部屋のドアもカタカタと揺れ出した。

 Oさんはその日の残りを布団の中で丸まって過ごしたという。

 気が付けば、太陽が昇って、風も止んでいた。窓の外から覗いた川はいつもより澄んで綺麗だったという。

 

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