第9話 終焉
集合場所には俺を含めて5人の陸上部員がいた。後は3年生2人と1年生が1人である。この暑さからなのか、緊張からなのか。集合場所に着いた時には、吐き気が襲ってきた。その吐き気に気持ちで負けないように、目を瞑り心の中で、勝てる勝てると呟き始めた。周りの音など到底耳に入ってこない。今俺は、音のない世界に居るかのようだ。意識も遠のいて、色が無くなり地面に立っているという感覚を失う。このまま、空に飛んでいく気さえしたのだ。
「しゅんしゅん頑張って!」
後ろの客席から細い音が俺の脳内を通過した。音も色もない環境に身を置いていた俺の魂が急に現実に戻ってくる。そして、色だけがこの世界を囲む。俺はこの時に確信していた。この呼び方、色、声はかおるんのものだと。遠のいている意識を無理やり戻し、立っているのもやっとな状態で、振り返る。そこには、この競技場に似合わない色合いで、オーラを出している彼女がいた。
この色は他の人にどう映っているのだろう。彼女のことはどう見えてるんだろう。疑問を感じているのが一瞬だったのは、俺の時間軸だけだった。
「なんで、ぼーっとしてるの。ちゃんと勝ってね。応援してるよん。」
かおるんの声だけが俺の耳を通る。
「わりい。集中してた。頑張ってくるわ。」
この声を俺は残し、出場メンバーに続いて、スタート位置に向かう。もう会場の雰囲気には慣れた。いや、今のかおるんの声で、緊張に押しつぶされなくなったのか。やっぱり、彼女は俺の中で特別だ。重かった足が徐々に軽くなる。スタートが近づくにつれて、集中力も高まっている。
ベストタイムで勝っていない先輩が何人もいることなど問題ではない。そんなことを考える余裕もないほどに集中出来ていた。一番最初にゴールテープを切ることしか考えていない。役員の合図で、各々がスタート位置に向かう。
さっきまでいた観客席の前の音が通らなかった雰囲気と違って、意識がしっかりしている今でも音を感じない。学校行事の決勝でさえここまでの集中力が漂うのかと圧倒された。スターディングブロックを自分のものに合わせて、呼吸を整える。俺の気持ちとは反対に向かい風が訪れる。観客席からのがやがやした応援と強い風の音に包まれる。前の選手からも後ろの選手からも暑さのせいか、呼吸音が激しく聞こえる。
スタート練習を終え、気持ちを整理しながら自分の立ち位置に歩いて戻る。気持ちが全然落ち着かずに、立ち位置に着いてしまった。自分の顔は第三者からどんな風に見えているだろうと考えた。自分が睡眠不足であることは、この時はもう頭の中に存在していなかった。俺は、スターターの声を聴いて準備に体を動かす。
両手をトラックに付けて、顔を伏せる。そして、顔を上げる。目の前のコーナーを一番に駆けるイメージを脳に植え付けて、再び俺は顔を伏せる。ここからは、音に反応するだけだ。この待機時間の時だけ、時間経過が遅くなるような気がする。もう何秒もこの体制で待機している錯覚に陥っている。無駄なことを考えるのを止め、自分の世界に突入する。スターターと呼吸が合うと同時に、setの声が聞こえた。この瞬間、腰を上げ、ブロックを蹴る準備をする。
ピストル音と同時に俺は、低姿勢でスタートをする。後の体力を考えることの出来る程今の俺に余力はない。なんとかなるということを信じて風のように加速を始める。低かった姿勢がどんどん高くなり、アウトにいる生徒を何人も抜いていく。コーナーを曲がり終わるころには、トップに躍り出ていた。体が無気力に動いていく。何を言っているか定かではない観客の応援をBGMに150m地点へ向かっていく。このトップのまま、ゴールテープを切れると感じた。
しかし、神様はいたずら好きだ。睡眠不足の俺に、簡単にその道を導いてくれはしなかった。今まで、何も考えずに動いていた体が脳の指示通りに動かない。メドゥーサにみつめられたように、体が重くなる。150m地点を超えるころには、先輩と横並びになる。ゴールが近づくほどにその先輩たちの姿が離れていく。先輩の速さが増々加速していると感じている程に俺の失速具合は激しい。もう、このまま全員に抜かされる気持ちにすら俺の気持ちは落ちこぼれていた。
「しゅんしゅん頑張って!」
スタート前にかおるんから掛けられた言葉をふと思い出す。この言葉が何度も何度も頭の中を回る。数を数えれないほどに巡っていた。無理やり気持ちで体を動かそうと腕を大きく振る。人間の体には限界がないと強く感じた。なんとか4位でフィニッシュして、倒れこむ。
青い空に照る太陽。この2つの姿が倒れこんだ俺の視界に入りこむ。意識も体力も殆ど俺の体の中には存在していない。体の重さを痛感した。トラックの暑さを感じることなく、ただその場に動けず倒れこむ。
すると、リレーのメンバーが青い空を背景に現れる。手を伸ばし、俺を立ち上がらせる。立ち眩みでぼやける視界を無理やり開くと笑顔の3人がいた。颯斗が笑顔を輝かせながら
「お疲れさん。ハードルの決勝行ってくらぁ。」
この颯斗の発言が俺の体を動かした。他の二人からのお疲れの言葉を聞き、温かさを感じた。このメンツが本当にリレーのメンバーでよかったと心の底から感じた。まだ、リレーの決勝が残っているのにだ。
このメンツの後ろ姿が大きく見える。残りの自分の決勝とこいつらとのリレーの決勝を楽しむぞと意気込み、部活の仕事に戻る。仕事をこなしながら迎えた100m決勝は、5位という結果で終わりを告げたが、緊張も解け、楽しく行うことが出来た。
俺は、これから行われるリレーの決勝を楽しみにしていた。
今まで通り集合場所に向かうと、爽やかな笑顔の3人が待っていた。その笑顔の中に歩と涼は、緊張の顔つきでもあった。ハードル4位の颯斗は、慣れた顔つきで俺を迎える。俺は緊張よりも疲労感の方が大きかった。それでも、予選の時同様重圧による緊張感は俺を襲う。
回りの生徒も集合し、点呼が行われ全員がそれぞれのスタート位置に向かう。周りのクラスも声掛けをして、自分たちを鼓舞している。その姿に圧倒されていた俺たちだったが、全員で目を合わせそれぞれの口元が「楽しもう」と動く。この状況になってやっと涼と歩の顔が柔らかくなった。そして、それぞれの背中を目で追いながら2走のスタートへ向かう。
場所に着いた後、体を軽く動かし、大きく跳んだ。涼がブロックを準備する姿が目に映る。俺と同様に体を動かしている歩と颯斗の姿も遠めに見えた。その姿を見て落ち着き、深呼吸をする。体を叩き自分を鼓舞する。
少し昼に比べ気温が涼しくなった。青かった空も橙色に変化を始める。これくらいの気温が昼も続いていたら楽だったのにと感じる。あんなに騒いでいた観客席も落ち着きを見出し、トラック内に目を落としている。トラック内の動きが止まり、静寂に包まれる。
「on your marks」
スターターの声が響く。一斉にブロックに向かった。そして、制止する。
「set」
静寂なトラックの中で、ピストル音が響いた。予選と違い、決勝のレベルを感じた。その中、必死で食らいつく涼の姿が視界に入った。その姿がより俺の闘争心を掻き揚げる。もう正直走れる余裕のある体力は余っていない。俺が少しだけ走り始めるタイミングを涼を信じて早めた。
その気持ちに応えるように少し早めに走り始めた俺の手に、涼からバトンを受け取った。そのバトンを受け取った俺は、必死に走り、アウトの生徒を何人か抜く。このバトンを歩に渡すことで頭がいっぱいである。向かい風の中、突き進み動かない体を無理やり動かす。その時の気温や空の色は、記憶にも残らない。俺の視界に入っているのは歩だけだ。
気づいたときには、歩にバトンが渡り、スピードにのって走る。
「いっっっっっけぇぇ。」
とバトンを渡した俺はその場で叫ぶ。この声が歩に届いているのか届いていないのかは問題ではない。俺が声を出したくなった。ただそれだけのことだ。
歩が最終コーナーを抜け、颯斗が走りだす。先頭集団と横一列の状態で、バトンが渡った。俺は、その姿を黙って見つめる。今の俺の場所からは、正式な位置がわからないが接戦であることは会場の熱気から悟ることが出来る。ゴールに向かいながら歩く中で、接戦を制して勝った3年生のガッツポーズが映る。健闘したが悔しがっている颯斗の姿がその横にいる。
結果は6位だった。しかし、結果以上に楽しかった。またこのメンツで走りたいと心の底から感じた。こうして、俺らの陸上競技大会は幕を閉じた。
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