第5話

「ただいま」

 ”家に誰もいなくても、声をかけてから家に入りましょう”

 確か、小学校の時に防犯講座で習ったと思う。以来、絵美里は玄関のドアを開けたら必ず家の中へ向かって挨拶をしてから入るようにしている。

 そうだ、あの頃、確か「お母さんがいなくて寂しい」と芳子さんに訴えたのもあの頃だった。

 グスッグスッと泣き泣き喋る絵美里の頭を撫でてくれながら、芳子さんは言った。

 「大丈夫ですよ。そのうち旦那さまが、お嬢さんのお母さんになってくれる方を連れていらっしゃいますよ」

 そう言ってくれた。

 (あの時からもう、十年くらい経ってるんだなあ)

 洗面所で手洗いとうがいをしながら、絵美里は思い出していた。

 「何が欲しい?」

 父にそう聞かれるたびに、

 「絵美里のお母さん!」

と返事をしては、父の顔をしかめさせていたんだっけ。結局は、建設会社を経営している父が再婚することはなかった。別れたお母さんとは、一度も会っていない。大学に入ってからそれとなく芳子さんに聞いたことがあったが、よそへお嫁に行ったようなことをなんとなくほのめかされて終わった。若い頃に離婚したので、それもアリなのだろう。そう察してなんとなく諦めがついた。実に十年もかかった。お母さんの思い出は、つないだ手が白く、指も長くてほっそりとしていたことくらいだった。「きれいな手」だと、子どもながらに思ったことを覚えている。手のことは覚えているのに、顔はよく覚えていない。

「ショックだったんじゃない?人間はショックを受けたことは忘れようとする能力があるんだって」

 友だちの由美香に、そう言われたことがある。

 あの頃は、子どもだった。年齢的にも、その年齢に見合った精神的にも。

 大人になれ、というのは無理なことだと絵美里は思う。小学生の子どもが、体は子どもなのに心と頭が大人だったら気持ち悪いではないか。

 (まるで、アニメのコナン君みたい)

 絵美里は子どもの頃によく見ていたテレビ番組、「名探偵コナン」を思い出した。あのアニメのように特殊な場合ならともかく、生身の小学生に明晰な頭脳と判断力、忍耐力などを求めてもムダだと思う。

 絵美里は、自分では同年代の子どもたちと同じだと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。先日も、小学校時代からの友だちの由美香に言われた。

 「絵美里って、子どもの頃からなんか、影をしょってたよね」

 大手コーヒーショップのテーブル席で、由美香は優雅にストローの先についたスプーンで生クリームを舐めている。

 「え?影?」

 絵美里が聞き返すと、その場にいた省吾や大輝も一斉にうなづいた。三人とも、小学校もしくは幼稚園からずっと”下から上がって来た組”だ。だから、子どもの頃からの大抵のことはお互いに知っている。

 「うんうん。確かに、天真爛漫な子どもですって感じじゃなかったよな」

 省吾が言うと、大輝が取りなすように割って入った。

 「でも、絵美里は子どもの頃から美人で目立ってたから。そんなんどうでもええよ」

 そこまでは良かったのだが、

 「お母さん譲りの美貌ってやつかな」

 と言ってしまって墓穴を掘り、「シイッ」と由美香と省吾につつかれて、「しまった」という表情(かお)をした。

 後で由美香と二人になってから言われた。

 「さっき、大輝があんなん言ったけど、悪気があって言ったわけじゃないからね。あいつ、脳天気っていうか空気読めないやつだから。昔から。勘弁してやって」

 由美香はもちろん、絵美里が寂しい子ども時代を送ってきたことを知っている。

 「う、うん。もちろん、大輝が悪い人だなんて思ったことはないよ。一度も」

 そうなんだ。大輝はいつもクラスのムードメーカーになって盛り上げ役だったし、省吾は大人しいがしっかり者で、時々はしけすぎた大輝をたしなめ、サポート役に徹していた。

 「二人はいいコンビだよね」

 くすくすと絵美里は彼らを思い出して笑った。すると、以外にも由美香は鋭い目つきになって絵美里の顔を真正面から見た。

 「あたしたち、友だちよね。それも、昔からの信頼のおける友だち。竹馬の友と言ってもいいと思うわ。なのに、なぜよ」

 「え?」

 突然の由美香の剣幕に押され、絵美里はたじろいで歩みを止めた。由美香も立ち止まった。

 「色の白い、外部から来た男の子。あたしは反対よ。絵美里と付き合ったり、将来結婚するんだったら、経済状況や生活環境が似た人、つまりあたしたちみたいな内部進学の子にした方がいいと思う。絶対」

 絶対、まで付けて言い切った。

 絵美里はさして驚かなかった。ただぼんやりと「ああ、知ってたんだ」と思っただけだった。なぜか心引かれる幸宏くんのこと。彼は授業がわからなくて半べそをかいていた自分を助けてくれた。詳細に書いたノートを貸してくれて、解説もしてくれた。

 自宅へ帰り、誰もいない家に「ただいま」を言って、二階の自室へ上がった絵美里はベッドにうつ伏せになり、枕に顔をうずめた。

 (私は上から目線で人を選ぶ立場になんか、いないのに)

 疲れた。ただただ疲れた。いつも明るく振る舞わなければいけない自分に。孤独と闘わなければいけない自分に。

 (皆、私に何を期待してるんだろう)

 父も、友だちも。

 期待も何もしておらず、いつも淡々と水のように接してくれるのは、お手伝いの芳子さんだけなのか。

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