第3話

 大学は坂の上にある。夏の間は半袖のTシャツを着て坂を登っていた学生たちは、冬の今はコートを着て歩いている。紺やカーキといった落ち着いた色に混じって、メタリック系のブラウンやシルバーの輝きを身にまとっている人たちもいる。

 幸宏も学生たちに混じって、コートのポケットに手を入れて歩いている。兄にもらったお下がりの、紺色のウールのやつだ。べつに、いま流行のダウンでなくても十分だ。吐く息が白い小さな円を描いては空気中に消えて行く。

 「おはよっ」

 後ろから勢いよく走って来た女子に、ドンと肩をどつかれた。

 「うわっ」

 不意にぶつかられた衝撃で、幸宏はよろめいた。いくら相手が女子だといっても、不意打ちにはかなわない。

 「なんだ、坂内(ばんない)か」

 肩越しにのぞいている顔がにいっと笑う。

 「なんだ、じゃないよ。ユキちゃん」

 「つっ。その呼び方はやめろって」

 「アハハハ」

 絵美里は心から楽しそうに笑う。日に透けると焦げ茶色に見えるウエーブのついた長い髪は腕の肘辺りまであり、そのカジュアルな雰囲気が欧米からの留学生を連想させる。

 「じゃあまたね、ユキちゃん。授業で会いましょ」

 絵美里は手を振りながら颯爽と、学生たちの雑踏に消えて行った。

 「!」

 気づけば周りの学生たちが、幸宏をジロジロ見ている。おかしそうに笑っている子もいる。全身に視線を浴びて、幸宏は頬が火照ってくるのを感じた。

 (たぶん、顔が赤くなっているんだろうな)

今の絵美里と自分のやり取りを見れば、絶対に付き合っているように回りからは見られるだろう。そう思うと幸宏は、嬉しいとか恥ずかしいというより、複雑な気持ちになった。戸惑う、という感情のほうが正確かもしれない。

 もしも、絵美里が内部進学の子でなかったら。

 もしも、絵美里がお手伝いさんを雇うような裕福な家の育ちでなかったら。

 もしも、俺が都会育ちだったら。

 幾つかの「ifーもしもー」が幸宏の頭の中で交差する。自分は絵美里を好きは好きだが、はっきり「好きだ」と言うには資格があるような気がしてならない。

 絵美里の恋人になる資格ーそれは、幸宏がクリアできないでいる幾つかの項目を満たす男であることだ。そして、その条件の中では自力では変えられないことも含まれている。

 それは、生まれ育ち、つまり出身地の問題だ。

 幸宏の頭の中で、子どもの声が響いた。

 「おまえんち、水ん中に沈んでやんの」

 その声を皮切りに、わらわらと他の声がこだまする。

 「やーい、おまえんち、水ん中に沈んだんや」

 耳をふさいでも追いかけてくる子どもらの声。学校の先生は、「皆さんの安全な生活のために、幸宏くんのご家族は家を手放されたんです」と生徒たちに説明したし、家でも父ちゃんや祖父ちゃんが「国民の生活のために俺たちは家をダムの底に捨てて来たんだ。なぜ卑屈になる必要がある。堂々と胸張って歩かんかい」と憤った。

 だが、幸宏少年は、からかいの声に屈してしまうのだった。

 はやされると、耳をふさいで逃げるしかなかった。あの頃の幸宏は気弱な子どもだったから。引っ越しのために転校したことも、幸宏の”ビビり”の性格に拍車をかけた。せめて見知った土地や、知り合いがいる土地だったら良かったのかもしれない。けれども親や祖父たちは、幸宏の知らない土地へ引っ越すことを、村のほとんどの戸主たちと決めていた。

 次に移り住んだのは、谷あいにある集落だった。山々に沿うように家が並んでいる集落へ、幸宏の親たちは引っ越したのだった。

 「慣れ親しんだ村を離れていきなり都会へ出るなんて、考えられねえ」

 大人たちは大人たちで、都会へ出ることをビビっていたのだろう。なにせ、死ぬまであの村で暮らしていくと信じていた土地から出ていくことを余儀なくされたのだから。

 「寝耳に水とは、こういうことなんやろな」

 ぼそりと父がつぶやいた言葉が忘れられない。都会的でなくたって、キラキラした生活を送らなくたって、彼らはずっとあの村にいたかったのだ。今日のような冬の寒空を見上げると、あの日の父の寂しそうな表情を思い出す。

 (父ちゃん)

 職を変わったことで給料が減った、と母から聞かされたが、元気でいるだろうか。

 (やっぱり正月には帰んなきゃな)

 そう思った瞬間、こんな俺が絵美里とどう見たらお似合いと言えるだろう、とため息をつきたい気持ちになってしまう。

 (だから、付き合うってのはナシだな)

 幸宏は、足下の小石を蹴った。すると、さっきまで自分たちを見ていた野次馬たちがうっとうしくなった。

 (べつに俺、見せものじゃねえし)

 幸宏は歩みを早めてずんずん歩いて行った。

 その様子をじっと見ている者がいるとは、露知らず。

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