第72ターン ハジメテの、その後
……それから数十分後……。
「……………………」
「……がはっ……! ……かはっ……はあっ……はぁっ……」
地下水脈の水面から隆起した、所々が苔むした巨大な瓦礫の上。オルファリアとクラッドは、その一角でようやく一息吐いていた。……もっとも、大の字に身体を投げ出したクラッドとは裏腹に、彼に背を向けて正座するオルファリアは今なお緊張感が収まり切らない様子であったが。それは、彼女が相変わらず一糸纏わぬ赤裸々な格好であるというだけが理由ではなく……。
「…………………………」
頬を赤々と染め、鳶色の双眸を潤ませ、己が可憐な唇へ手を遣ったオルファリアの心中は、余程鈍い者でなければ察するのは容易であっただろう。
(うぅ……うぅっ……うぅぅううううううっ……!)
あの場面、オルファリアが口移しで酸素を融通したことでクラッドは窒息を免れたものの、それは一時凌ぎに過ぎなかった。最終的に、クラッドは無詠唱で行使した水中呼吸の魔法にて溺死を回避し、自らの脚を挟み込んでいた元アーネル像の瓦礫を攻撃魔法で除去して、死地を脱したのだが……そこに到るまでに、オルファリアは何度か水面上とクラッドの許を往復し、彼に酸素を送り届けなければならなかったのである。……方法はもちろん、前述の繰り返しであった。
(……あれはノーカウント。全部ノーカウントっ。キスじゃない……キスじゃないのっっ!!)
脳内で自己暗示のように復唱し続けるオルファリア。……その行為が、彼女自身が一切合財ノーカウントと思えていないという証明であることには全く気付けていない……。
そんな、動揺極まっているオルファリアの背中に、やっと息を整え終わったクラッドが声を掛けた。
「……はぁっ…………悪ぃな、オルファリア。世話を掛けたぜ……」
珍しく素直に礼を述べたクラッドの声に、オルファリアは小さく跳ね上がった。
「……ぃ、いえ!
「………………ぷっ」
裏返った声で噛み噛みに答えたオルファリアに、クラッドは思わずといった風に噴き出した。
「……クラッドさんんっ……」
「いや、本気で悪ぃ。……もしかして、初めてだったか?」
「……気にしないで下さい」
肩越しに振り返ってジト目を向けたオルファリアに、クラッドも悟らざるを得なかったようだ。彼の少しだけばつが悪そうな確認に、オルファリアは首を横に振る。……声音に落ち込みの響きが混じったことはどうしようもなかったが。
オルファリアの落胆した雰囲気に、クラッドのばつが悪そうな様子が増した。
「……オレは、元々内陸の街育ちだったモンでな。必要に駆られてそれなりに訓練はしたんだが……泳ぎはあまり得意じゃねぇんだよ。それで……あのザマだ」
「だから、その……気にしないで下さい……」
クラッドの弁明に、オルファリアは同じ言葉をもう一度告げる。……海からも遠い、水路の整備も進んでいるような比較的都会の街で育ったのなら、泳ぎを覚える機会などほぼ無いことはオルファリアにも理解出来た。『泳げる』というのは、この世界、この時代において実は割と特殊な技能なのである。
オルファリアは溜息を一つ吐き、それをこの場では最後のそれとした。
(……これ以上はクラッドさんを責めてるみたいになっちゃうし……。ナートリエル様の信徒として、それは駄目だから。……うん、切り替えないと――)
オルファリアが無理矢理に気を取り直すと、気を取り直したふりをすると、クラッドの眉間に微かに、本当に微かにだが皺が寄った。己の精神の安定化に精一杯のオルファリアは、その事実には気付かない。彼女はクラッドへ背中越しに呼び掛ける。
「クラッドさん……もう大丈夫ですか? 大丈夫そうなら、そろそろ動きましょう。地上まで戻る方法を考えないと……」
オルファリアは《
「……悪ぃんだがよ。もう少しだけ休ませてくれ。流石に疲れたからなぁ……。
……クラッドの声には疲労のせいか、どんよりとしたものが滲み出ていた。
(無理もない、よね……)
オルファリアにだって推し量れる。
「解りました。少し休んで体力と
(……本当は、わたしも翼を生やせば昇れそうだけど……)
そんなサキュバスの本性はおくびにも出さず、オルファリアは《
……が、そうであるはずの苔の寝台から、クラッドは上体を起き上がらせる。
「ク、クラッドさん?」
「……服が濡れっ放しで気持ち悪ぃ。脱ぐからちぃとあっち向いててくれ、オルファリア」
「あ――は、はいっ」
急いでオルファリアは、再度クラッドへ完全に背中を向けた。……その白い背中の、絶妙な曲線美をクラッドの金の視線がなぞっていることを、彼女は悟れない。
(濡れた服のままだと身体が冷えちゃうし……仕方ないよね)
魔法にて急速乾燥というのも、クラッドの今の状態では出来ないのだろうとオルファリアは判断した。後ろから断続的に聞こえる湿った衣擦れの音に、オルファリアは自分の心臓の鼓動が早まるのを感じる。
(い、今、後ろでクラッドさんが裸になってるのかな? ……わ、わたしも思えばまだ裸だし……何だか凄く、変な感じ……)
自らの濡れた裸体の表面は冷えた感覚なのに、その皮一枚内側では暖炉が燃えているような……。冷たさと熱さの板挟みになったオルファリアが僅かに身じろぎした――その刹那だった。
「……なぁ、オルファリア」「……っっ!?」
――いつの間にかにじり寄っていたクラッドに、オルファリアは背後から抱き締められたのである。……彼のその両腕に捕らえられるように……。
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