第70ターン 奈落への途中

 ――落下開始の僅か数瞬後には、ディアスもロレンスもピリポも、オルファリアからは見えなくなっていた。

「ぃ、やぁぁああああああああああああああああ――――――――――――――――っっ!?」

 重力に引かれ、秒単位で下方向に加速していく我が身に、オルファリアの悲鳴は止まらない。

(な……何とかしないとっ……! ――そ、そうっ、羽……翼……!!)

 サキュバスである自分には、そもそも蝙蝠のような黒い翼がある――オルファリアは今さらながらその事実へ思い至った。慌てて背中からそれを引っ張り出そうと意識するが……。

「――ちぃっ、オレとしたことが……!」

 傍らの宙で、一緒に崩落に巻き込まれたクラッドが精魂アニマを立ち昇らせる方が早かった。


 この身に宿りし精魂アニマ

 我が意に従いて見えざる翼と化せ

 大気を叩き風を裂き

 我を大空へ誘え――


「――《翼を下さいフライト》! 摑まれ、オルファリア!!」

「ひゃうっ……!?」

 自由落下中の不安定な体勢をものともせず、クラッドが飛行の魔法を発動した。不可視の翼を羽ばたかせて横方向へ滑った彼が、搔っ攫うようにオルファリアの裸身を抱き止める。身体に掛かっていた下向きの運動エネルギーが突如消失し、反動でオルファリアは息を詰まらせた。

「け……けほっ……す、すみません、クラッドさん。ありがとうございます……」

(そ、そうだった。クラッドさんも一緒に落ちてたんだっけ。あと一秒遅かったら、わたしの本性をクラッドさんに見られてた……)

「礼は後でいい……! それよりも状況を確認してぇ。明かりを頼むぜ」

 オルファリアの内心の動揺を悟ること無く、クラッドが彼女へ指示した。彼の方も、地面の崩落という緊急事態に直面し、他のことには気が回っていない模様である。

 ともかく、墜落が中断したことで、オルファリアたちにもどうにか周囲を見回すだけの余裕が生まれた。オルファリアが《光あれホーリーライト》を灯してみれば、直径が一〇〇mに及びそうな大穴の、人工物が混在する岩壁が魔法の光に浮かび上がった。……けれど、穴の底までは献身の女神の威光も届かない。あのまま落下するに任せていたらどうなっていたか……想像してしまい、オルファリアは震え上がる。

「……こりゃぁ、さっきの《爆裂地獄エクスプロージョン》で出来た穴じゃねぇな。あの神殿の遺跡は、元からこの大穴を塞ぐように造られてたってことか? それが《爆裂地獄エクスプロージョン》の威力で崩れたのかよ……? ったく……約束を守れずに、危うくメイリンのヤツにどやされるところだったぜ……。オルファリア、怪我は無ぇか?」

「は、はいっ、おかげ様で……」

 再びクラッドにお姫様抱っこされつつ、オルファリアは彼の確認に返答する。直前の転落、その前にも邪神の眷属アポストルやら嫉妬教徒エンヴィアンやらの脅威に晒されながらも、片付いてみれば彼女の身体には傷らしい傷はただの一つも無かった。白磁の肌は少々埃や土に汚れているが、滑らかさを全く失ってはいない……。

(…………。こ、心には少なからず傷を負った気がするけど……うぅ……)

 決死の決意を何度も固めながら、それが空振りに終わったこととか。……自分の為に傷付き、倒れていった仲間ディアスたちを前に、無力さを噛み締めたこととか。…………己の本当に大切な場所を嫉妬教徒エンヴィアンの村の村長に覗き込まれ、自分自身すら知らなかった純潔の証の色や形状を詳細に把握されてしまったこととか――

(……ほ、他のことは自戒として憶えておかなきゃだけどっ、さ、最後のことだけは忘れよぅ……ぅん……)

 頬を染め、目尻に涙の粒を震わせて嫌な記憶の削除へと乗り出そうとしたオルファリアだが――その前に、クラッドがずいっと彼女へ顔を近付けてきた。彼の金色の瞳に自らの鳶色の瞳を捉えられ、オルファリアはたじろぐ。

「ホントに怪我は無ぇんだろうな? 献身教ナートリズムの女ってのは、実際には痛ぇクセに黙ってることが結構あるからな。ちぃと確認させろ」

「えっ? ……あ……やっ……?」

 クラッドの視線がオルファリアの目元からおとがいへと下り、さらに首筋へと下っていく。落下の途中で法衣も手離してしまっていたオルファリアには、当然素肌を隠せるものなど己の細腕しかなく。咄嗟に乳房と股間へ手を遣るしか出来ない。

「あ……待っ……ク、クラッドさんっ……?」

 クラッドの金の眼差しがオルファリアの鎖骨をなぞり、その直下の丘陵を登る。……『丘陵』という表現は適さなかったかもしれない。オルファリアの繊手では頂上しか庇えなかったそこは、深い深い渓谷を間に刻んだ『連山』という呼び方こそ相応しいのではなかろうか?

「……服の上からでも充分解ってたが……デケェな。しかも、形も完璧に整ってやがる」

「ク、クラッドさんっ……あぅぅっ……」

 ストレートに自身の乳房を寸評され、オルファリアはクラッドから目を逸らした。首から上が耳の先まで熱を持つのを自覚し、彼女は今すぐ全力疾走で逃亡したい衝動に駆られる。だが、クラッドに抱え上げられている今のオルファリアにそれは叶わない。空中であることを置いておいても……腋と膝裏に腕を差し込まれ、しかと固定させられてしまっているのだ。身じろぎを多少したところでびくともしないだろう。

「あっ……ぁ……ク、クラッドさんっ……わ、わたし……恥ずかしい、ですっ……」

「大切な確認だぜ。我慢しろ」

 名目上は負傷の確認。けれど……これは実のところ視姦と言っても間違いではなかったかもしれない。オルファリアの肢体の曲線を映し取るごとに、クラッドの目の熱量は増していっているのだから。その熱さは、オルファリアの皮膚感覚へ実感さえ与えてくる。

(……い、今おへそ、見られてるっ。こ……今度は鼠径部……! ゃ、やぁぁっ……そこは、そこを、そんなに熱く見詰めないでぇっ……!!)

 股間を覆う手の甲を貫いて、クラッドの眼光が自分のアソコへ突き刺さってくる――そんな幻覚に囚われて、オルファリアの心臓はうるさいくらいに鼓動を響かせた。

(こ、このままじゃっ、クラッドさんの視線だけでどうにかなっちゃうよぅ――――えっ?)

 そのような羞恥心と怯えに身を焦がしていたオルファリアの聴覚に、小さく救いの手たる音が届いた。……いや、本当にそれは救いの手だったか――

 ごく細やかな破砕音。それの直後、激音を轟かせて真上からオルファリアたちに降り注いできたのは――アーネル像。古代神殿の崩落後、何処かに引っ掛かっていたものが、ここに来て落下を再開したらしい。オルファリアの柔肌に目を奪われていたクラッドは、反応が遅れる。

「……ヤバっ!? しまっ――」

「わ、わ――」


 ――我らが主へ

 偉大なる献身と慈愛の女神・ナートリエル様へ求め訴えます

 か弱きわたしたちが困難に屈さぬよう

 暴威を退ける庇護をお与え下さい


「プ、《守り給えプロテクション》ッ!」

 アーネル像の頭部が自分とクラッドに激突する寸前、オルファリアは僧侶クレリックの代表的な防御魔法を完成させた。二人を中心に球形の力場が形成され、アーネルの頭突きを受け止める――が、文字通りの石頭、その上で質量もオルファリアとクラッドを合わせた数十倍はあるはずのアーネル像を受け止め切るなど出来るはずも無かった。二人は均衡の神にして嫉妬の邪神たる石像に弾き飛ばされ、さらなる奈落へと向かっていく。

 ……やがて、微かに水音がした――

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