第5話

 無垢な乙女が駆けて行く。心に灯った情熱の炎が、なぜ燃えているのかも知らずに。

 生まれて初めての感情の答えを求め、燃え上がらせた元凶を探す。



 その目、その顔が物語る。

 もう何も知らずにいられない。恋しい相手を求めずにいられない。




 恋する乙女が、駆けて行く。









 下級天使の少女は、気配を辿って女悪魔を探そうと試みる。大学付属病院という大規模な施設では有効な手段のはずだった。

 だが、格上の悪魔が本気で気配を遮断してしまえばそんなものは無意味だ。少女は地道に探す他なかった。




 忙しなく行き交う人々の横を天使がすれ違う。姿を隠蔽している彼女に気付くものはいない。幾千幾万の目線が流れ行く中で、一つ、チクリと刺さる。

 振り返れば看護師姿の女悪魔が廊下を歩いていた。天使を見つめる悪魔は少し目を丸くしていたが、すぐに無表情になり何もなかったようにすぐそばの病室に入っていく。


 少女は慌てて悪魔を追い、閉められた扉をすり抜け室内に入る。

 真っ白な壁に囲まれたその部屋には、一台のベッドがあった。そこには体中からたくさんのチューブを生やしたような老人が静かに横たわっていた。チューブの先はそれぞれベッド近くにある大きな機械達に繋がっている。

 老人は微動だにせず目を閉じていた。わずかに動く腹が老人の生命いのちを示してはいたが、そばにある機械の点滅の方が生き生きとしているようだった。







 女悪魔が老人の近くに立っている。後ろ姿で判然としなかったが、何やら老人に話しかけているようだ。少女は聞き耳を立てることにした。



「佐伯さん、お休み中のところ失礼します。定期交換のお時間です。今の体調はいかがですか?」

「……む、おお、阿久沢さんか。ご苦労さんです。今日もいつも通り、と言いたいが……少し体が重くなった気がするね。でも新しい薬がいいのか、今までより痛みが少なくてぐっすり眠れたよ。」

「そうでしたか。お薬効いたようで何よりです。体の重さは先生に相談してみましょう。他にも気になることがあったらすぐ相談してくださいね?それではまずお体を拭きますね。」



 悪魔は慣れた手付きで老人の体を清め始める。常に微笑みを絶やさずに優しく話しかけながら全身拭き終わると、機械の調子を見始めた。そこには先程の悪魔らしい所業の気配は微塵もなく、天使はただただ呆然とするしかなかった。



「……機械は問題なく作動してますね。でも佐伯さん、尿がいつもより少し多かったですね。喉がいつもより乾いていませんか?追加でお飲み物ご用意しますか?」

「ん?そうか。いや、分からんかったな。今のところ気になる程ではないな。飲まなきゃいけないとかでなければそのままでかまわんよ。」

「分かりました。次の交換でも多いようでしたら摂取していただきますが、今は必要ないかと思います。では最後に点滴を交換していきますね。」



 点滴を交換するために動いた悪魔がちらりと天使を見る。天使は目線の意味が分からず、そのまま悪魔に近付く。すると悪魔の目が厳しくなる。笑顔の表情を変えずに目だけが天使を拒絶する様は、恐ろしいようで少し滑稽に感じた。先程の翻弄してきた彼女とは別人のようで、今なら自分でも彼女を困らせることができるように感じた。

 天使は、自身が老人に見えていないのをいいことに、彼女に自由に話しかけてみようと考えた。



『貴女、人間界ではアクザワと名乗っているのですね。もしかして"悪魔"から取りましたの?』

「佐伯さん、点滴の交換も終わりましたよ。」

『看護師が性に合っているというのは本当なんですね。この方の表情を見れば分かりますわ。随分と信頼されていますのね。』

「他に何か気になることはありますか?」

『ふふ、無視されても出て行きませんわよ。あ、お仕事はいつ終わりますの?』



 悪魔である阿久沢は、もちろん天使の声が聞こえていた。だが人前で結界も使わずに見えない相手と話すわけにもいかなかった。必然、少女の好きにさせるしかなかった。



「大丈夫だよ、阿久沢さん。あ、そうだ。そろそろ娘から連絡が来るはずなんだが、そこの、ほれ、すまほ、取ってくれんかの?」

「わかりました。……こちらですね。どうぞ。」

「うん、ありがとう。ええと、次の土曜日に来るそうだ。孫も連れて来てくれるらしい。楽しみだ。」

「そうですか、良かったですねぇ。」

「ああ本当、いい子に育ってくれたよ。……なあ、阿久沢さん。」

「?はい。」



 阿久沢は佐伯の話を聞きながら、ズボンに入れていたメモ帳とペンを取り出す。サッと何かを書き殴ると、天使に目配せをする。今度こそ天使は意味することを汲み取り、阿久沢の背後に回りメモを覗き見る。そこには天界語で"三時間後に終わる、大人しくしてなさい。"と記されていた。

 天使は返事をもらえたことが嬉しかった。出ていきなさいとも言われなかった。見ている分には構わないのだろう、と判断しそのまま無言で見守ることにした。



「貴女は若いのにしっかりしているね。いくつだったかの?」

「……二十七です。」

「二十七か、まだまだ人生これからだね。……儂はまさかこんな長く生きられると思わなかった。流石に癌が巣食ったこの体に残った時間は少ないだろう。でも娘を立派に育てられたし、孫も見れた。義息子むすこが緩和ケアを受けさせてくれた。こんな幸せなことはない。貴女も人々を支える素晴らしい仕事をしているんだ、きっと素晴らしい人生を送れるだろう。」

「素敵なご家族ですね。私も素敵なパートナーが見つかるといいのですが。」

「大丈夫だよ。いつも世話してもらってて、貴女の優しさはよく分かっている。ふと儂より年上に感じるくらい落ち着いとるしの。」

「ふふ。ありがとうございます。」

「おっと、若い女性にこれは失礼だったかな。」

「いえいえ、大丈夫ですよ。お褒めの言葉だと分かってますから。」



 佐伯の何気ない会話に阿久沢は優しい笑顔で相槌を打つ。

 その後ろで天使はにやけていた。彼女は紀元前に堕天したと言っていたのだから、少なくとも二千歳は超えているだろう。悪魔の気配を完全に断てる阿久沢でも、実年齢は隠しきれないらしい。きっとこの老人すら阿久沢にとってはひよっこなのだ、うっかりそういう雰囲気を滲ませてしまったのだろう。天使は彼女の普段の様子を伺えるのが楽しくなっていた。



「……阿久沢さん。儂は死ぬのは怖くないんだ。たしかに癌が見つかった時は肝が冷えたし、進行してからの痛みも酷いものだった。でも今こうして穏やかに人と話せて、週末には娘達が来るのを楽しみに待てて……でも……。阿久沢さん、貴女は死後の世界を信じておるかい?」

「死後の世界、ですか?天国と地獄といった?」

「ああ。儂はな、あると思うんだ。きっと先に旅立った妻は天国に逝ってくれたろう。でも儂は……仕方なかったこととはいえ大罪を犯した。天国には逝けないだろう。……こんなこと妻にも話したことなかったが、誰か一人くらい、聞いてほしくてな。なんだか阿久沢さんになら打ち明けてもいい気がしてな。」

「そうでしたか。お辛い過去があったんですね。私で良ければ聞きますよ。」

「ありがとう。まあそうは言っても、もう過去のことはどうしようもない。だが妻に"先に逝って待っていますね"と言われていてな……。良い笑顔で言われたもんだから、一緒のには逝けないだろうなんて言えなくてな。妻が一人寂しく儂を待ち続けているかと思うと、遣る瀬無くてな……。そればかりが気掛かりで仕方ない。」



 そう話す佐伯の体から、わずかに紫色のが湧き上がる。妻を孤独にしてしまうのではないかという彼の心情が表れたそれは、天使と悪魔だけに見える気持ちオーラだった。紫のモヤは恐怖心が沸いたことを示し、天使にとっては除去するもの、悪魔にとっては餌となるものである。

 そのわずかな恐怖心を増幅させてから根こそぎ刈り取るのが悪魔には定石だ。その上感情豊かな人間は刈り取られても何度でも再生する。問題は、刈られる前に増幅された恐怖心によって人生が狂わされることだった。

 "恐怖心を纏わせた人のそばに悪魔がいれば必ず警戒しろ"と天使は教わる。下級天使の少女は条件反射で臨戦態勢に入ろうと身構えたが、武器を壊され手枷まで付けられていたことを思い出す。天使はただ二人を見つめる他なかった。



 天使の緊張感とは裏腹に、阿久沢はそのモヤを見ても態度を変えることはなかった。しかも増長を促すことなく、すぐにモヤを吸収する。

 佐伯の体から紫のモヤが消え、恐怖心が和らいだ彼は憂いを帯びた表情から穏やかな表情に戻る。阿久沢は何事もなかったように言葉を続ける。



「そうだったんですね。……私も死後の世界はある気がします。でも、たとえ死後に出会えなくても生前の思い出を大事にして過ごされるのではないですか?長年連れ添われた奥様なら、幸せな人生だったというだけでも、きっと充分嬉しいと思いますよ?」

「そう、かの。なんだか阿久沢さんに言われるとそんな気がしてきたな。」

「きっとそうですよ。……そろそろお体に障りますから、今日はこのくらいにしましょうか。スマートフォン、お戻ししますね。」

「ん、そうか。ありがとう。」



 佐伯の枯れた手から阿久沢の瑞々しい手にスマートフォンが移る。阿久沢は元の位置にスマートフォンを戻すと、老人に退室の挨拶を述べ病室を出る。

 天使は先ほどの光景にあっけを取られていたが、慌てて阿久沢を追う。その光景は出会った時以上に天使には衝撃だった。







 その後も阿久沢は様々な患者と接していたが、恐怖心を煽ることなく吸収し続けていた。柔和な態度のまま恐怖心を取り除き続ける姿は、まさに白衣の天使だった。

 本物の天使である少女よりも献身的なその働きは、阿久沢が悪魔と知らなければ素晴らしい行いそのものだった。少女はこの姿が上級天使のものだったらどんなに良かったろうと夢想する。反面、彼女が自分に見せた嗜虐的な笑みを思い出す。


 彼女が他の誰にも見せなかった表情を自分だけは知っている。


 そう思い至った少女は、胸が高鳴る気がした。

 もっと彼女を知りたい。もっと彼女に見てほしい。

 少女は自分に沸き上がった感情に戸惑いを覚えたが、不思議と心地よくもあった。






 結局悪魔らしい所業を垣間見せないまま阿久沢が退勤する。病院を出ていく阿久沢の後ろを、手枷を外してもらうという約束を信じて待っていた天使がふよふよと付き従う。

 人気のない夜道を歩く阿久沢に天使が声をかける。


「アクザワ……さん。お仕事お疲れ様ですわ。」


 少女は労いの言葉から会話を広げようと思っていた。だがそれはすぐに途切れることになった。



 阿久沢が振り向きざまに結界を展開し、隠していた悪魔の力を解き放つ。外壁に縫い付ける形で天使の首を鷲掴み、締め上げる。

 突然の事態についていけなかった天使は目を白黒させながら阿久沢を見やる。そこには絶やすことのなかった笑顔と余裕が剥がれ落ちた女の姿があった。

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