第3話

 生まれたばかりの雛は目の前で動いたものを親と認識する。犬だろうが電車だろうが親を殺した仇だろうが。何も知らないからただ付いて行くしかない。たとえそれが不幸に見えたとしても、彼らはそうやって生きてきたのだから。信じて生き続けなければいけない––––







 "天使は穢れを知ってはならない。人間が恋焦がれる、罪一つ知らず手の届かない清らかな存在でなければならない。"

 天使として生まれると、真っ先に教えられる言葉だ。

 人間の愚行を見ても、悪魔の残虐な所業を見ても、それらすべてを慈しみをもって憐れみ、救う。人間には穏やかな死を、悪魔には聖剣による粛清を、授ける。



 私は、なんて素晴らしいのだろうと思った。

 神様からの伝令を超上グランド級天使から伺い、配属されたところで苦しむ人々に救済を与える。来る日も来る日も、助けを求める声を聞けば駆けつける。やりがいのある日々はキラキラと輝いていた。


 コツコツと天界図書館で人間と悪魔について勉強しながら、より善い救済を模索していたある日、私に悪魔狩りの許可が降りた。


 超上グランド級天使から私の体格でも扱いやすいように、と手に馴染む短剣型の聖剣を頂いた。人間界で聖剣が傷ついたらすぐに天界に戻ってきなさい、というお言葉も。貴女には期待しているのよ、とも。




 努力しているのを見てくれていた。私は選ばれたのだ。

 期待に応えなければ。失望させてはいけない。でもいきなり大物を狙うなんて愚の骨頂、格下の下級悪魔からコツコツと。


 ……そう、思っていたのに。蓋を開けてみれば超上グランド級よりも上の伝説レジェンド級悪魔で、私は彼女に翻弄されるしかなかった。







 切られたはずの右手から煙草の熱が伝わる。



 痛い。熱い。こんなの知らない。怪我をした人間はこんな思いをしていたの?

 怖い。恐い。こんなの知らない。悪魔に狙われた人間はこんな想いをしていたの?



 初めての感情の渦にもみくちゃにされる。

 助けて、たすけて、タスケテ。ちゃんと許しを請うたのに、なんでこんな目に合わなきゃいけないの?私の何が駄目だったの?天使として、高潔に振る舞うのは善いことなのに。なんで?何故?


 助けて、神様––––––








 涙の海にもがいていると、彼女の黒だったはずの瞳が赤く輝いているのが見えた。私のことを、を見つめている。

 聖剣を授ける時の決まり文句の"貴女には期待しているのよ"。救った人間からの"ありがとう天使様"。

 それらは確かに私を救う。でも、私だから救うわけじゃない。


 今、この瞬間、を苦しめ、救うのは、彼女ただ一人だ。


 彼女の美しい瞳が、私を捕らえて離さない。彼女が私を見て愉悦を感じている。私を苦しめている間、彼女は私しか見ていない。それが堪らなく嬉しかった。


 生まれて初めての感情に胸が熱くなる。腹の奥が重く疼く。





 こんなの誰も教えてくれなかった。








 激痛から解放され一人取り残された天使は、右腕の傷跡をぼうっと眺めていた。

 彼女の仕事はいつ終わるのだろう。彼女の何でも見透かすような黒い瞳が、優しいのに冷徹な美しい笑みが、私以外に向いているのだろうか。また、あの赤く染まった瞳を見せてくれないだろうか……。



 そこまで至り、ハッと気付く。女悪魔の目がないというのに、彼女のことばかり考えている。今のうちに天界に報告すればバレないのに、なんたることか。殺せばいいものを放っておくからいけないのだ。


 急ぎ天界に念を送ろうとする。だが、伝説レジェンド級悪魔に抜かりなんてない。すぐに自分こそ浅はかだったと気付かされただけだった。

 悪魔の魔力が染み込んだ傷跡がぶくぶくと膨れ上がる。茨状に変形した魔力が右腕にきつく絡みつく。苛烈な痛みに、先程までの記憶がフラッシュバックする。



 彼女が見ている。



 ヒュッと喉が締まる音がする。瞬時に連絡を中断すると、同時に痛みが引いていく。せっかくおさまったはずの鼓動がまた早く打ち鳴らされる。



 天使はじわじわと確信する。もう、穢れを知らない自分天使ではなくなっている。痛みを、恐怖を、知ってしまった。少しの痛みだったら、まだ、勉強になったと片付けられた。でも、はそんな生温いものではなかった。






「この感情は、何て呼べばいいんですの……?」





 答えを求めた少女は、ふらふらと悪魔彼女を探しに飛び立った。

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