第2話

 天使は何をもって天使たるのか。

 悪魔は何をもって悪魔たるのか。


 ––––天使には信仰を。悪魔には恐怖を。

 人間達は無意識に捧げてきた。しかし、それは表裏一体。信仰の裏には、怒りを買いたくない恐怖心が。恐怖の裏には、自分と違う高位の存在への畏怖が。


 ……天使と悪魔は何が違うのだろうか?








 襲われた相手に優しく接する女悪魔に、少女は戸惑いを隠せなかった。

 悪魔である証拠の角とこうもり羽さえなければ、問答無用で斬りかかった自分より余程天使のようだった。少女は動揺を隠す為に手に持っていたピンク色の飲み物を一口飲む。


「!これ……なんて甘くて……優しい味なのかしら。」

「気に入った?口に合わなかったらどうしようかと思ったけど、その顔なら大丈夫そうね。」


 こくこくと嬉しそうに頷く少女を悪魔は微笑ましく見つめる。


「……貴女にはこういうのが似合うわね。あんな危ないもの、そう簡単に振り回すものじゃないわ。私だったから無事だったけど、他の上級悪魔だったらとっくに消されてたわよ?もっと慎重に下調べしてから、自分の実力に見合った悪魔を狩りなさい。」


 上級天使と全く同じことを言われる。今回程その忠告が身に染みたことはない。少女はただ頷くことしか出来なかった。でも、問わずにはいられなかった。


「……どうして、私を殺さないんですの?悪魔なら天使は邪魔者。聖剣だけ壊すなんて生温いんじゃありませんの?」

「ん?んー、まあ昔は人も天使も散々狩り尽くしたけど、なんか性に合わなかったのよねー。そんでまあ人間の生を支えられる病院に来てみたら、私がやりたかったのはこれだ!ってなってね。それからは悪魔業は引退。たしかに存在定義用の餌恐怖心は得づらいけど、そんなもん死に際の人間の側に居れば簡単に手に入るしね。」

「で、では私をここに留めたのはなぜなんですの?」

「あらだって、ちゃんと教えておかないとまた同じこと繰り返しそうだし?天界うえの奴らって画一的な話だけしてあとは実戦。殺されても下級天使自身の責任で、死んだらまた生産すればいいってんだから、薄情なもんよね。悪魔は自然現象からしか生まれないから、信仰さえあればポンポン産まれる天使よりそこらへんは慎重なのよ。綺麗好きなとことかは馬が合うけど、そういうとこは生理的に無理だったわ〜。」


 少女は、女悪魔の天界に対する認識の深さに口が塞がらなくなる。超上グランド級でも伝説レジェンド級でも、悪魔なら天界事情には詳しくないだろうし、興味もないだろう。なのにこの詳しさは……


「貴女もしかして……堕天なさったんですの?」

「あら。貴女ちゃんと勉強してるのね?えらいわぁ。というか、私が堕天したのなんて紀元前なのに、その感じだと天界うえも変わってないのね。こんな真面目で勉強熱心な子を育てられないから悪魔にしてやられ続けてんのよ。」

「うっ、ぐうの音も出ませんわ……。」


 まさにしてやられたばかりの少女には返す言葉もなかった。


「まあとりあえず私はここでの穏やか〜な余生を過ごせればいいだけだし、天界うえに報告しないでくれるならこのまま貴女のことは見逃すわ。あと今の天界事情をちょこっと漏らしてくれればこっちも助かるかな。」


 そう言うと女は煙草を取り出す。結界で外界と遮断できるのをいいことに、どこでも喫煙所にしているようだ。


「貴女……こんな高度なことしておいてやることがソレって……。」

「いやだって悪魔私らは健康とか関係ないけど、なりは人間こんなだし、院内で看護師が吸ってるの見られると、ねぇ?面倒じゃん?でも人間の自堕落の塊みたいなコレ、なかなかやめらんないのよねぇ〜。背徳的っていうか、退廃的っていうか?」


 ケラケラと笑いながら女は美味そうに煙草を吸う。コロコロと雰囲気が変わる彼女は、悪魔かどうかに関わらず、自由で、芯があり、美しかった。




「……天界には報告しませんわ。したところで無駄でしょうし。でも、私だって天使の端くれです。天界を売るような真似は出来ません。」

「……ふぅん。」


 興味をなくしたように呟いた悪魔に、天使はホッとする。もう一口甘露な飲み物を飲もうとしたが、それは強烈な痛みで阻まれる。


「〜〜ッ?!?!」

「貴女のこと多少は買ってたんだけど、まだ立場分かってなかったかぁ。本当はこんなことしたくなかったけど……格上からの要求は逆らうといいことないよ?覚えておきな?」


 微笑みながら喋る悪魔の手には、いつのまにか切断された天使の右手があった。残された右腕からは、ボタボタと潰れた苺のような血が滴り落ちていた。



 概念でしかない天使という存在だが、痛覚は人の痛みに共感できるように、ある程度備わっている。しかし天使は滅多に怪我なんてしない。少女は生まれて初めて味わう強烈な痛みに絶句する。

 でもそれだけではなかった。ただでさえ切られたという痛みがあるのに、悪魔の魔力によって。悪魔に右手を撫でられているのが、痛い程に伝わる。


 その右手が、目の前で、灰皿にされようとしていた。



「ヒッ!?は、話します話します!話しますわ!だからこれ以上はおやめになって!!!」

「うんうん。いい子ね。でもこれも、お勉強だから。」


 天使のような優しい微笑みを崩すことなく、悪魔は迷わず煙草を押し付ける。傷一つなかった柔肌は、高温でねっされ焼け爛れる。肉が焦げる匂いが鼻をつく。天使は涙と鼻水で溺れそうになる。



「貴女が向けた聖剣ってのは、悪魔私らにはこういうことなの。まあ貴女程度の力じゃ私にはかすり傷もつけられないけど。……こんなの、痛くて辛いでしょう?貴女はちゃんと痛みを知った上で聖剣を使える子になってね?」




 ……そんなもっともらしいことを彼女は言っていたが、天使は悪魔の目を見て悟った。

 これは彼女がただからやっているだけなのだと。痛み泣き叫ぶ顔を見るのに愉悦を感じているだけなのだと。


 その瞳に孕んだ熱情は、天使のようで悪魔な彼女を、最も鮮やかに彩っていた。






「う、うううッ……ぐすッ…………」

「ふふふ。悪魔ってものがよぉく分かったみたいね。」


 天使は痛みと恐怖で嗚咽を漏らすことしか出来なくなっていた。悪魔は満足気に目を細めると、火傷に舌を這わせてくる。まるで蛇に狙われているような錯覚に陥る。恐ろしいのに甘美な雰囲気が漂う、倒錯的なその情景に、天使の目は釘付けになっていた。


 ぬるりとした感触とともに痛みが引いていく。同時に右手が光で包まれると、見る見るうちに右腕とくっついていく。





 何もなかったように右手は元通り戻っていた。だが、手首には茨が巻きつき、掌には赤い蕾が色付いていた。


「さすがに休憩終わっちゃう。仕事終わりにもう一回来てくれる?その時にお話してね。ついでにコレ、治してあげるから。それでもう私とは会わなくて済むわよ。じゃ、またね。」



 悪魔は右手首を優しく撫でながら、結界を解き、その場を立ち去って行く。









 右腕の接合部には濃厚な悪魔の魔力が注がれ、じくじくと鈍い痛みが続いている。目の前で起きた残酷な所業が、幻覚などではなく実際にこの身に起こったのだと、如実に語っていた。


 衝撃的な出来事に理解が追いつかない。ないはずの心臓が、鼓動を早めている気がした。






 撫でられた箇所をなぞる少女の顔は、雨に濡れた薔薇と化していた。

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