(3)
「催眠アプリ」があれば、夢のキラキラ青春生活を送れるかもしれない――。
その可能性に気づいたわたしは、さっそくアプリのマニュアルを隅から隅まで熟読することにした。
マニュアルに目を通してわかったことは色々あった。
ワンタップで画面全体に一斉に催眠をかける方法。それからスマートフォンを中心点として半径を指定して催眠をかけられる、ということもわかった。
「あ、いちいち人数分タップしなくてもいいんだー。便利……」
わたしは新発見があるとそんなことをつぶやきつつ、アプリのマニュアルを読むことに没頭する。
他にも一度催眠をかけた相手はアプリから遠隔操作できる、ということもわかった。ショートカットメニューを開けば、それ用のボタンが並んでいることがわかる。そこにはいくつか見覚えのあるようなないような名前があったので、これは今日アプリを使ったリア充女子グループの名前なんだろうなとわたしは解釈した。
「読めば読むほど便利だなーこのアプリ。……便利すぎて怖いくらい」
悪魔に与えられたアプリを調子に乗って使いすぎて破滅する……。そんな短編ホラー漫画なんかでありがちな展開が、自分自身に降りかかるところが容易に想像できてしまう。
となればこんな悪魔謹製などという怪しげなアプリは使わない方が身のためなんだろう。賢い人はたぶん、封印する。
けれどもわたしは「キラキラした青春を送れるかも」という、いわば目先に吊り下げられたニンジンを見てしまったがために、今すぐアプリをなかったものとして日常へ戻るという選択肢を取れなかった。
ちょっと使うだけだから。そんな、だれに対しての言い訳かもわからない言葉を脳内で繰り返す。
そう、ちょっと使うだけ。ちょっと使って、友達を作って……それでおしゃべりしたり、色んなところに遊びに行ったりしたいだけ。それだけなら、バチは当たらないよね……?
「うん。そうだよ。ちょっと使うだけ。本当にちょっとだけにしよう……それ以上のことはしない。絶対にしない」
わたしはひとり心に決める。「催眠アプリ」は、友達になって仲良くなるためだけに使う。それ以上のことは相手には強要しない――。頭の隅では「それだけ」でも、大変に独り善がりで身勝手な行動だということはわかっていた。
わかっていたけれども、どうしても欲求を鎮めることはできなかった。すなわち、友達を作って、いっしょにワイワイと楽しい生活を送るという欲望を。
そしてわたしは次の日から「催眠アプリ」を使うことに決めた。
わたしには異性の幼馴染がいる……と独白すれば、ちょっとは漫画やライトノベルの主人公っぽいかもしれない。
しかし現実はありがちで、お粗末だ。昔はそれなりに仲が良かった。親友、と呼べるくらいだったかもしれない。
けれども年を経るにつれて段々と溝が開き、深まり、今ではもう奇跡的にクラスメイトだというのに一切会話などしない仲である。
男女の幼馴染であるから、まあそんなもんかなと思いつつ、わたしはその事実をちょっと寂しく思っていた。……のは恐らく、わたしがボッチだからだろう。他に親しい友人がいないから、昔取った杵柄というか、過去の栄光にすがってしまうのである。
今では幼馴染の動向は、クラスメイトだというのに、おばさん――幼馴染のお母さん――からたまーに又聞くのみ。
又聞きした内容が本当なら、幼馴染はわたしと同じくらいボッチで彼女もいないらしい。本当かどうかはよくわからない。クラスメイトと言っても、四六時中彼を観察するなんてことはできないわけだから。
それを聞いて、わたしはちょくちょくまた仲良くなる妄想をしていた。一時は疎遠になっていたボッチ同士が再び出会って仲良くなる、なんて、青春小説にありそうな展開だったから。
けれども現実にはわたしは彼に話しかけることなんてなかったし、逆もしかり。
結局わたしたちは幼馴染というだけで、別に友人でもなんでもない、ただのクラスメイトという関係のままだった。
――でも、それを変えられるかもしれない。
幼馴染の名前は
そしてわたしの苗字は「澤村」で、鴻一郎は「
そしてそして、クラスの日直当番は五十音順に毎日二人に割り当てられる。
そしてそしてそして、明日はちょうどわたしと鴻一郎が日直なのだ。
――「催眠アプリ」を使う、絶好のチャンスというわけである。
再び「コウくん」と呼べるようになりたいとまでは思っていないが、ちょっとは気安くおしゃべりできる仲になりたい――。
わたしはその身勝手な野望を胸に眠りに就いた。
翌日、教室に入ってもだれも「おはよう」なんて声をかけてくれない中、わたしは既に登校しているリア充女子グループを横目で見る。
昨日のギスギスバトルなどなかったかのような、なごやかかつキラキラなオーラを放って、彼女らは実に楽しそうに、心の底から笑い合っているようだった。
その事実を目で確認して、わたしはホッと心の中で安堵のため息をつく。
悪魔謹製アプリを使ったからというのもあり、もしかしたら昨日のアレは一時しのぎのもので、実はあとから事態なんかがより厄介になる……みたいな真の作用? はないようだった。
となればこれからわたしの野望を叶えるためにこの「催眠アプリ」は非常に有用だ。
「催眠アプリ」を使うという部分に、引っかかりはまだ覚える。
けれどもわたしは、どうしても、漫画やライトノベルの主人公みたいな、キラキラした青春を送りたい!
――ちょっと仲良くなるのに使うだけだから……。
わたしはまたそんな言い訳を心の中で繰り返す。
そうしているあいだにいつものように空気のまま授業が始まり、休憩時間に日直の仕事を挟み……としているうちに、チャンスが巡ってきた。もちろん、ここで言う「チャンス」とは「周囲に怪しまれず鴻一郎に催眠をかけるチャンス」のことを指す。
社会科の授業が終わり、先生が持ち込んだ資料を資料室へ返すことになった。こういった雑用も日直当番の仕事である。
わたしが資料の束を持つと、鴻一郎はひとことだけ「重くない?」と聞いてきた。不意を突かれる形となったわたしは、「フヒ、ダイジョブデス」みたいな気持ちの悪すぎる声を発する。鴻一郎は気にしていないようだったが、わたしは自分のあまりのコミュ障っぷりにその場から消えたくなった。
どうしてスマートに「重くないよ。ありがとう!」くらい言えないのか……。もっと朗らかに、元気よく返せないのか……。
そんな自己嫌悪にまみれつつわたしたちは資料室まで歩いて行く。
そしてわたしは、やはり「催眠アプリ」を使うしかないと思った。
わたしはあまりにコミュニケーションがヘタすぎる。それはこの先も変わらないような気がした。変えるために必要なのは経験なのだろうが、その経験を積むためにはまずコミュニケーション能力が必要だ。……つまり、どん詰まり、というわけである。
アリ地獄のようなジレンマから脱するには、「催眠アプリ」はうってつけだ。これを使えば確実に仲良くなれる。友人になって、楽しくおしゃべりできる。そうすれば、わたしは「なにか」変われるかもしれない……。
「あ、あのさ、篠田、くん、チョット……」
資料を棚に戻して無言のまま資料室を出ようとする鴻一郎の背に声をかける。
蚊の鳴くような声だったし、ちょっと声のトーンが高すぎだった。またわたしはその場から消えたい衝動に襲われる。我ながらキモすぎる。
けれども心がくじけそうになるのをなんとかこらえて、鴻一郎の方を見た。
鴻一郎は、小さすぎるわたしの声を無視するなんてことはせず、不思議そうな顔をしてこちらを振り返ってくれた。
それは別に「優しさ」ではないんだろうけれども、空気のように扱われるわたしからすれば、「優しさ」と同じだった。
わたしは手汗をかきまくった右手でスマートフォンを取り出す。制服のポケットに入れていたスマートフォンは、既にアプリを立ち上げた状態でスタンバイさせていたので、カメラレンズに鴻一郎を収めるのは簡単だった。
鴻一郎が疑問を抱くより先に、画面に映る彼をタップする。途端に鴻一郎は時間でも止まったかのように顔を強張らせて固まった。
昨日、リア充女子グループに「催眠アプリ」を使用したときと似たような状況だ。この状態から鴻一郎に「して欲しいこと」を吹き込んでアプリの操作を終えれば、催眠は完了となるはずだ。
「あのさ、篠田くん……わたし、篠田くんともうちょっとだけでいいから、前みたいにおしゃべりしたいな……」
これでいいのかな? と思いつつ、わたしはもう一度アプリの画面に映る鴻一郎の姿をタップした。
目の前に立つ鴻一郎は、何度か目をしばたたかせてから、我に返ったようにゆっくりと頭を左右に振った。
それからやはり、不思議そうな顔をしてわたしを見たあと、ふっと口元を緩ませる。
「前みたいにしゃべりたいの?」
「えっ?! アッハイ」
――まさか「催眠アプリ」が効いていない?!
わたしは内心でビビり散らかした。しかしすぐに考えを改める。
コミュ障ボッチの、ブスでクソキモいわたしの頼みを、疎遠になっていた鴻一郎が素直に聞いてくれるだろうか?
となれば、鴻一郎がわたしに笑いかけてきてくれるなんて、これはやはりアプリが効いている証なのではないだろうか?
わたしは「そうだ。きっとそうだよ!」と都合良くアプリが効いてくれたのだろうと解釈した。
するとどうだろう。「催眠アプリ」を使ったのなら、コミュニケーションに失敗するはずがないという自信が湧いてきて、先ほどよりもスムーズに会話することができたのである。
「昔は仲良かったのに今はそうじゃないっていうか……だから、それがちょっと寂しいなって思ってたんだよね」
「ふーん。そうなんだ」
「篠田くんはわたしとしゃべったりするの、イヤかな?」
我ながら嫌らしい問いだなと感じる。「催眠アプリ」が効いているのなら、きっと鴻一郎は「イヤだ」なんて言わないに違いない。昔の鴻一郎は、わたしの頼みだったらなんでも聞いてくれた。それくらい、わたしたちは仲が良かった。
案の定、鴻一郎は「イヤじゃない」と答える。しかしそれから「でも」と続ける。わたしはドギマギしながら鴻一郎の言葉の続きを待った。
「……『コウくん』って呼んでくれないの?」
「え? でも」
「昔みたいに仲良くしたいんなら『コウくん』って呼んでよ」
「え、うん、篠田く……コウくんがいいって言うなら……」
「いいよ。僕も香津子のことは前から気になってたから」
「そうなんだ……」
それは鴻一郎の本心なのだろうか? それとも「催眠アプリ」が整合性を保つために生み出した、偽りの心なのだろうか?
わたしには判断がつかなかった。
……でも、それで良かった。
鴻一郎がわたしを気にしてくれていた。そういう「設定」でわたしは構わなかった。
わたしの心は鴻一郎と再び親しく話せたという事実に舞い上がる。
しかし同時に「催眠アプリ」の威力を再び目の当たりにしたことで、アプリは慎重に使わなければならないと改めて思った。
人生の絶頂の最中に転落する。具体的な理由は思いつかなかったけれど、イメージだけは明瞭に持つことができた。
それが嫌なら「催眠アプリ」を使うのをやめてしまえばいい。それはわかっている。わかっている……けど、できなかった。
鴻一郎との友誼が復活したことで、わたしは更にクラスメイトと仲良くなりたいという欲望を深めて行ったのだった。
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