第4話 遠方地の受験は前泊がつきもの

 二月一日、学校が自由登校になったその日に紗理奈は同盟社大学経営学部を受験。五日には立栄館大学経営学部を受験した。いずれも確信ある手応えは無かったが、酷い出来でもなく、後は運を天に任せるといった感じであった。


 そして八日。この日の晩は翌九日の明経大学経営学部受験に供えて、会場周辺の宿に前泊することになっていた。といっても会場は東京ではなく大阪市内であったが、大阪方面への始発が六時台で乗り継ぎもあるから、当日出発だと間に合わないのである。


 最初は、一人で宿泊は危険だからと母親がついて来ようとした。大阪は大都市で誘惑が多いので、監視役がいた方が良いに越したことはない。だが、今から自分で決めて自分で動く機会を作らなければ後々苦労するから可愛い子には旅をさせよ、という考えの父親の意見で、単独行動が許されることになった次第である。


 夕方には梅田のビジネスホテルに着いてチェックインを済ませ、少し休憩してから夕食を取ることにした。母親からはあまり出歩かないように厳命されているし小遣いも多く渡されていないから、隣のコンビニで弁当を買うか、道路の向かい側にあるファミリーレストランで外食するかの二択に絞った。本音ではせっかくの大阪だから串カツとかたこ焼きとか食べたかったが、今は我慢である。


 悩みに悩んで、コンビニで豚肉の生姜焼き弁当を買うことにした。東南アジア系の外国人の店員が接客していたが、これも都市圏ならではの光景である。時給も地元のコンビニと比べて百円以上高い。同盟社と立栄館がある京都も大阪程ではないにしろ、地元よりも賃金が高いと聞く。いずれも受験会場は桃川市であったが、一度は京都にも行ってみたい。


 そんなことを考えつつホテルに戻ると、エレベーターの前にたたずんでいた人物を見て、思わず声をかけた。


「黒部さんじゃない」

「あっ、塩谷さん!」


 黒部真奈が自分のことを知っていたのは意外であった。いくら一学年四クラスしかないとはいえ、前期課程から六年間、真奈とは一度も同じクラスになったことは無い。


 ちょうどエレベーターが来たので一緒に乗り込む。真奈が「何階?」と聞いてきたから「五階」と答えると、ニコッと笑った。


「私の部屋と一緒の階ね」


 ボタンを押すとエレベーターが動き出した。紗理奈は真奈とは親しい仲ではないがこれも何かの縁だと思い、話をすることにした。


「私、明日明経大学を受けるんだけど、黒部さんも受けるの?」

「ううん。中興大学の法学部よ」


 そうよねえ、と紗理奈は納得した。中興大学の法学部は法曹界に数多の人材を輩出してきた名門で、東大志望者でも受験する人は少なくない。真奈の第一志望は東京大学である。だから明経大学は、言葉を選ばないならば真奈の高すぎる学力と吊り合う大学ではなかった。


「黒部さんはご飯食べたの?」

「うん。さっきそこのファミレスで」

「そうなの。私もそっちに行こうか迷ってたんだけどコンビニ弁当にしたわ」

「本当はたこ焼きにしたかったけどね。でも旅行してるわけじゃないからやめた」

「やっぱりそうよねえ。ここには一人で来たの?」

「うん。姉さんは練習をほっぽり出してでもついて行く、って言ってたけど丁重にお断りさせて頂いたわ」


 真奈の姉は、かつてフェンシングでインターハイ優勝を勝ち取った黒部真矢まやである。その実績で桃川文理大学にスポーツ推薦で進学して、レギュラーメンバーとして大会に出ている。しかしてその実態は妹狂いと言えるほどのシスコンであり、真奈に恋人ができた折は学校全体を巻き込むほどの一悶着があったことを今でもよく覚えている。


 その恋人、清原操きよはらみさおは元緑葉の剣道部員で、高校からは外部進学で隣県のスポーツ名門校に進んでいた。こちらも大会で好成績を収めているらしい。


「カノジョさんとはどう? 受験勉強でなかなか会えないと思うけど」

「なるべく月一で会うようにしてたわよ。でも操は寮暮らしで外出もあまりできないから、都合を合わせるのが大変だったけどね」

「殊勝なことね。エッチはどう? 我慢してるの?」


 溜まりに溜まっているせいで、図らずもド直球なことを聞いてしまった。真奈はきっちり七三に分けたショートヘアーにノンフレームの眼鏡という、見た目はクールビューティでお固いという印象を与えている。昔は三つ編みに黒縁眼鏡というもっと地味で、いかにも真面目さんというような格好をしていた。だからこんなシモな話に乗る性格とは思えず、紗理奈は話題作りに失敗したかなと後悔した。


 ところが。


「昨日たっぷりしてきたわよ」

「え……?」

「だって、我慢は良くないでしょ? と言っても直接会ったわけじゃないけど、スマホ越しで、ね」

「テレホンセックス……」


 紗理奈から頼まれたわけでもないのに、外泊でテンションが上がっているのか知らないが、真奈はあけすけに昨日の情事について事細かに語りだした。彼女は元文芸部員である。小説執筆で培った語彙力を無駄に駆使して官能の世界を紡ぐたびに、才媛のイメージがどんどん崩れていった。紗理奈は話を聞くうちに、頭の片隅でくすぶっていた情欲がまたメラメラと燃え始めた。


「あの子ったら攻めるの大好きだけど、一端受けに回ったらもう何とも言えない可愛い声で鳴くの。私も調子が出てきてノッてきて意地悪な言葉で攻めて恥ずかしいことをさせて……」

「よ、よくわかったわ。黒部さん、悪いけどご飯冷めちゃうからここで」

「あ、いけない。じゃ、明日は受ける大学は違うけど、お互いに頑張りましょう」


 手を振って別れて、各自の部屋に戻っていった。


 黒部真奈は後期課程五年から文系国立コースに進んで、その中ですら首席の地位から落ちることはなかった。ワンランク下の文系進学コースで中の上をうろうろしていた紗理奈とは頭の出来が違うから、受験勉強の合間に性欲を満たす余裕があるのであろう。


 真奈の一方的なエロトークのせいで、収まりがつかなくなっている。今すぐ八千代に電話して声を聞きつつ、自分を慰めたい。いや、受験が終わるまで我慢だ。


 紗理奈は生姜焼き弁当を五分で平らげて、バスルームに入ってシャワーを浴びた。温度設定はかなり熱くして、体に喝を入れる。同時にもセンター試験のときのように紗理奈をボットン便所に落として汚物まみれにする様子を想像する「平貞文たいらのさだふみメソッド(命名:古川恵)」で情欲を消しにかかった。同盟社と立栄館の受験のときもこの方法で乗り切ったが、さすがに慣れてしまったのか効果が弱まっている感じがした。それでもやらないよりはマシである。


 シャワーを浴び終えると、筆記用具と国語の入試問題集を取り出して机に向かって勉強を始めた。真奈あいつきっと今から恋人の清原操と電話して昨日の余韻を語り合ううちに、そのまままたテレホンセックスに雪崩れ込むのだろう。そう勝手に決めつけた。


 自分はただひたすらに、勉強に打ち込むのみ。己に勝って受験に勝つ。紗理奈はマントラの如くそう心のなかで唱え続けた。


 *


 とてつもない吐き気ととるに目が覚め、たまらずバスルームに直行し、便器のフタを開けて胃の中のモノをドバっと吐き出した。一部が鼻の奥に入って、異物感と酸味を帯びた異臭で余計に気持ち悪くなる。


 それだけではなく、内臓が割れて出そうな程の激しい腹痛が紗理奈の体を蝕んでいた。頭も鈍器で殴られたように痛く、体は熱っぽい。


「こ、これは一体……」


 ドンドンドン、と部屋のドアがノックされる。「開けて!」という真奈の声も一緒に聞こえてくる。紗理奈は気力を振り絞って口周りの汚物をトイレットペーパーで拭って流すと、フラフラになりながらもドアに向かい、開けた。


「塩谷さん!」


 真奈の口から悲鳴が出た。


「凄く顔色が悪いよ……やっぱり塩谷さんも……」

「ど、どういうことなの? うぐっ」


 唐突な悪心が胸をえぐる。紗理奈はうめき声を漏らして口から汚物を吐き出し、そのまましゃがみこんでしまった。


「救急車を呼ばないと!」


 真奈が叫んだが、すでにサイレンの音が鳴っていてホテルの方に近づいてきていた。紗理奈は吐瀉物にまみれながらドアの外を伺うと、自分と同じく倒れている人が何人かいる。


 これはただ事ではない。そう思ったときからの記憶がほとんど残っていなかった。

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