第2話 センター試験地獄篇

 一月十八日土曜日。ついにセンター試験の日がやって来た。緑葉女学館中等教育学校の後期課程六年生、つまり高校三年生はほぼ全員が一端学校に登校して、それから試験会場である国立桃川大学まで向かった。


 単語帳や問題集を開いて最後の最後まで悪あがきしようとする者もいれば、楽しくおしゃべりを交わしてリラックスしようとする者もいる。紗理奈は前者の方で、受験生御用達の川山出版社の世界史用語集を開いて頭に叩き込んでいた。


 紗理奈の目の前には大物たちがいた。彼女と同じく文系進学コースのクラスメートである菅原千秋すがわらちあきを初め、古川恵ふるかわめぐみ黒部真奈くろべまな団六花だんろっか茶川陽菜ちゃがわひな。平成二十九年度と三十年度生徒会を賑わせた面々がひとかたまりになって談笑している。彼女たちとは特に親しくはしていないが、校内では名前を知らなければモグリと言われるほどの有名人である。


 特に千秋、恵、真奈は生徒会選挙で史上初、今後も無いであろう三者得票同数という結果を出して、平成三十年度のだけは特例で三人の共同代表という形で生徒会を運営し、実質的な平成時代最後の生徒会を飾るに相応しい成果を残した。先輩後輩との交流行事が増えて仲間意識が高まったし、運動会文化祭を合併して緑葉フェスティバルと銘打った大イベントを作り上げて、成功を収めたのである。


 学校いちの頭脳派である黒部真奈、盛り上げ役の古川恵、事務方のスペシャリスト団六花と、彼女たちをうまくまとめあげコントロールした菅原千秋。平成三十年度だけは生徒会に参加しなかったものの外部から裏方として支えた茶川陽菜。彼女たちには「平成最後にして最強の生徒会」という評価が与えられたのは当然のことであった。次の世代の生徒会役員たちはただ、偉大なる先輩たちが残した財産を運用するだけで良かった。


 だが最強たる彼女たちが近くにいても、紗理奈は用語集から目を離さなかった。それでも大きな話し声、主に古川恵のものだが容赦なく耳に入ってくる。


「すがちーは東京の私大志望だろ? どこ受けるんだよ」

「センター試験利用で明経、赤学、立光、中興、法蓮五校の願書出すけど、正直自信はちょっとね」

「おいおい、そんなんじゃ東京で待ってる愛しの先輩が悲しむぞー」

「違うってば!」


 愛しの先輩というのは、昨年卒業した高倉美和たかくらみわ先輩のことで、平成二十九年度生徒会副会長で、編入学してきた千秋を生徒会に引き入れた張本人である。千秋とは仲が良かったものの、去年暮れからにわかに千秋と遠距離恋愛しているという噂が流れてきた。ただ千秋本人はこうして否定しているし、真実はどうかわからない。東京大学に進学した高倉美和を追って本人も東京へ……というストーリーは誰にでも描けるが、そもそも緑葉には東京の大学を志望する生徒が少なくないのでそれを以って付き合っている証拠とは言えまい。


 紗理奈の第一志望は地元の桃川大学である。本音では東京に出たかったが、八千代とは遠距離恋愛にもなりたくなかったし、親からも上京を反対されていたからのもあって断念した。だが周りに見栄を張って東京の私大にも願書を出して、模試代わりに受験するつもりでいた。


 桃川駅直前で電車がスピードを緩めると、紗理奈は用語集をしまった。それから制服の胸ポケットをまさぐって、お守りを取り出した。


 見た目は何の変哲も無いが、中には八千代の分身――アンダーヘアが入っている。清和駅まで見送りに来てくれた折にお守りを見せて「八千代のためにも頑張るわ」なんてセリフを吐いたらすごく喜んで、真冬の朝日のごとくさわやかな笑顔でこう言った。


「試験のたびに新しいお守りを作って差し上げますね」


 センター試験の後、私立は東京のを含めて三校。第一志望の桃川大学。後期にも願書を出すつもりでいるから多くても計五本のアンダーヘアお守りが作られることになる。そのたびに丁寧に抜き取ってくれる、ということだ。その様子が不意に、また頭に浮かんできてしまった。


 電車が停まる。紗理奈はお守りをしまって、本番直前なのにしっかりしろ、と顔を火照らせる自分を叱咤しつつホームを降りた。続くようにして、深緑色の制服の一団がどっとホームに吐き出された。


 令和二年の受験戦争の始まりを告げる鐘は、もうすぐ鳴ろうとしていた。


 *


 試験会場に着いても、紗理奈の頭から八千代の姿が消えなかった。たちの悪いことに、もはやアンダーヘアを抜く姿にとどまらず、目をつむればベッドの上で全裸になった八千代が舌なめずりしながらくいくい、と手招きしているのが浮かんでくる程にイメージが過激化している。


 自らを慰めることもせず我慢してひたすら勉強に打ち込んできたツケが、今になって襲ってきたということである。今更欲望を処理しようにも、もうトイレに行く時間がない。



――こんな変なお守りを作るからよ



 などと挙句の果てに恋人に責任転嫁しようとして、一気に自己嫌悪に陥った。もはや試験を受けられる心理状態ではなかった。


「どうした? 顔色悪いぞー」


 声をかけてきたのは、キノコのような髪型をした生徒。たまたま隣の席になった古川恵であった。


「ウンコしてーならさっさと行ったほうがいいべ」


 大教室の隅まで届きそうなほどの声の大きさだったから、みんなクスクス笑いながら紗理奈の方を見てくる。何とデリカシーの無い女か。だが怒る余裕すら今はない。


「ウンコじゃないわ」

「なら小さい方か?」

「違うわ」

「てことは月一のアレか」

「違うって!」


 今度は紗理奈が大きい声を出してしまい、またクスクス笑いが起こった。いい加減にしてくれと言いたいところであったが、馬鹿話で気が紛れたのか少しだけ苦しみが緩和された。


 紗理奈は思い直して、恵に「耳を貸して」と頼んだ。


「恥を忍んで言うけど、恋人のことが頭からチラついて離れないの。どうしたらいい?」


 ほとんど直接会話をしたことが無い相手に打ち明けるのは恥ずかしいにも程があったが、どうせあと二ヶ月もすれば離れ離れになるからと開き直ることにした。


「あーあー、なるほどなー」


 今度は恵が紗理奈の耳元に口を近づけた。


「じゃあこの古川恵さまが解決策を授けてやろう。平貞文たいらのさだふみって知っているか?」

「いえ、知らないわ」

「平安時代のプレイボーイ貴族だ。こいつはある侍従に恋をしてアタックしまくったんだがのらりくらりとかわされて、恋を諦めるためにあることを試みたんだ。それは、侍従のウンコを見ること」


 恵が言い終わる前に、紗理奈はブーッと吹き出した。


「あははっ! 古川さん、さすが『生徒会の汚れ芸人』って呼ばれてたことがあるわね!」

「ウソじゃねーよ! ウソだと思うなら『宇治拾遺物語』十八話と芥川龍之介の『好色』を読め。その逸話が書かれてるからよ」


 恵は真顔であった。


「ごめん、悪かったわ。つまり、私に恋人のウ……排泄物を見ろと?」

「実物は無理でも恋人がウンコしているところを想像するだけでも火照りが収まるだろうよ。もっともそっちにスカトロ趣味があれば別だけどな」

「さすがにそこまでは変態じゃないわ」

「『そこまで』ってことはある程度は変態ってことか。大人しそうなツラして見た目じゃわかんねーもんだな」


 紗理奈は発言に後悔した。変なところで敏い恵に心のなかで舌打ちしつつ。


「とにかく、『平貞文メソッド』試してみな」


 何と変な造語か。また吹き出しそうになったが堪えた。


 いよいよ試験監督官が中に入ってきた。受験にあたっての諸注意を聞きつつ、紗理奈は恵に言われた通り「平貞文メソッド」を実践に移した。


 目を閉じると相変わらず全裸の八千代が早く抱いてとばかりに誘惑している。紗理奈は持てる限りの想像力を駆使して八千代の体勢をいわゆるウンコ座りにし、その下に和式便所を無理やり登場させた。令和の世になってもいまだに下水道が通っていない祖父の家のボットン便所である。


 この先が困難であった。八千代のその部分は愛し合っている最中に見たことがあるし、形もくっきりと思い浮かべることができる。しかし彼女が食べたものをそこから出す様子が全く想像できないのだ。それどころか逆にその部分の上についている秘所がくっきりと映し出されてしまった。紗理奈はたちまち、エロスの豪炎に飲み込まれて煩悶した。


 どうにか、どうにかしなければ。頭をひねるだけひねって、紗理奈は非常な決断を下した。


「八千代、許して!」


 脳内の八千代に心で呼びかけると、紗理奈はボットン便所を拡大させた。八千代は哀れ悲鳴を上げながら穴の中に落ちていき、ボチャーン、と粘着的な音が響いた。


 穴から汚物にまみれた手がニュッと伸びてきて便器の縁を掴むと、あわれ、泥人形のように成り果てた八千代がうめき声をあげながら這い上がってきた。


『ひどい、ひどいよ先輩……』


 さながらホラー映画のようである。何て気持ち悪い想像をしてしまっているのか。一体自分は何をやっているのか。性欲を打ち消すためとはいえ愛する人を徹底的に汚してしまったことに、本当に申し訳なくもみじめで情けない気持ちで一杯になった。


 その代わり、見返りはちゃんとあった。不条理で愚かな妄想のおかげで性欲はすっかり霧散していたのであった。


――よし、行けるわ


 *


「おかげでセンター試験は八割五分近く取れたわ、ありがとう」


 二日間のセンター試験を終えた後日、学校で八千代と顔を合わせた紗理奈はお礼を言った。心のなかでは、想像の上とはいえ排泄物まみれにしたことを土下座して詫びながら。


「おめでとうございます。次は私立ですね! 受けるのは同盟社大学と立栄館大学でしたよね?」

「それとあと一つ、明経大学を受けようと思うの」

「え……明経って、東京ですか?」

「受かっても行かないわよ。ほら、ここって大都市圏の名門私大かたとえ地方でも国立を受けてなんぼって雰囲気があるでしょ。私もそうしないと格好付かないと思って。合格しても行くつもりはないから安心して」

「はい」


 紗理奈は八千代の頭を優しく頭を撫でたが、このとき、果たして紗理奈は気づいていたであろうか。先程までランランと輝いていた八千代の目が曇っていたことを。

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