それ行けきぼう、間に合えきぼう お題:「それいけ希望」「残尿感」

「ふうー……」

 そんな息を吐きながら、ジー野は、ガンマ之駅のトイレから出た。

 彼は今から、新幹線「きぼう」に乗り、デルタ之駅に向かう。そのため、事前に排尿を済ませたのだ。

 寛ぐ場所としては、指定席を予約してある。しかし、乗った後でトイレに行くとなると、手荷物を持って行く必要があったり、使用中で待たされたり、と面倒な事態が発生するおそれがある。いくら仕事での出張とは言え、半ば自由時間なのだから、ゆったりとした気持ちで、目的地まで行きたかった。

 しかし、ジー野には最近、悩みがあった。残尿感だ。実際、さきほど、御手洗いで小便を足したにもかかわらず、まだ、男性器の付け根の辺りに、尿が溜まっている気がする。

「いや、これは思い込みだ」ジー野は思わず、そう呟いて、首を横に振った。「いつものことじゃないか。もう一度トイレに行っても、出ないパターンなんだ」

 彼はそう自分に言い聞かせながら、ホームに向かった。

 到着して五分ほどが経過したところで、きぼうがやってきた。乗ると、指定席に向かい、座った。

 新幹線が出発してしばらくの間は、願いどおり、ゆったりとした気持ちで過ごせた。窓から景色を眺めたり、ビジネスバッグに入れておいた文庫本を読んだりした。

 問題が発生したのは、ガンマ之駅を出てから、二十分ほどが経過した頃のことだった。

 小便を足したくなったのだ。

 最初は、残尿感の延長か、と思った。しかしそれは、すぐさま、自分で否定した。この感覚、本物だ。

 仕方ない、トイレに行くか。ジー野はそう、心の中で呟くと、席を立ちあがった。通路に出ると、便所のある五号車に向かう。

 自分では、あまり意識していなかったが、やはり、心のどこかで、急いでいたらしい。客席エリアを出て、連結部エリアに入ったところで、角のトラッシュボックスにゴミを捨てて出てきた女性客を、避けきれなかった。どしん、とぶつかってしまったのだ。

 彼女は、「きゃっ!」と声を上げた。恰幅のいい、中年女性だ。

「すみません大丈夫ですか」ジー野は、形式的な謝罪と声かけを行った後、さっさとその場を立ち去ろうとした。

「ちょっとっ!」女性客が、がし、と彼の左腕を掴んできた。「待ちなさいよっ!」

「な、なんですか」

「ちょっとっ、見なさいよっ、これっ」

 女性客は、右手に持ったビニール袋を差し出してきた。中には何本か、瓶が収められいる。そのうちの一つが、割れてしまっているようで、内部に入っていたらしい黒い液体が、袋じゅうに広がり、溜まっていた。

「これはね、わたしが、デルタ之駅の近くに持っているお店で販売しようと思っていた商品なのよ。どうしてくれるのよ! こんなんじゃ、売り物にならないじゃない」

「そ、そう言われましても」ジー野は視線を宙に彷徨わせた。「弁償しましょうか」

「お金の問題じゃないわよ」女性客は、ぶんぶん、と首を横に振った。「わたしは、これを、お客様に、美味しく飲んでもらいたくて、作ったのよ。お金なんて、極端な話、どうでもいいわ」

「じゃあ、どうすれば」

「お金は要らないから、あなた、これ、全部飲みなさいよ。割れているやつ以外でいいから」

「えっ」ジー野は跳び上がった。「飲むんですか」

「そうよ。じゃないと、ここ、通さないから」

 女性客はそう言うと、通路に仁王立ちした。どうやら本当に、飲みきるまでは道を空けてくれなさそうだ。

「わかりましたよ」ジー野は、はあ、と溜め息を吐いた。すでに膀胱には、かなりの尿が溜まっていることが感じられていた。「飲みます」

「よく言ったわ」女性客はにっこり笑うと、「はいこれ」と言って、ビニール袋を差し出してきた。

 中には、アイスコーヒーを五百ミリリットル入れた瓶が六本、入っていた。そのうちの一本が、割れている。

 ジー野は、次々と瓶を取り出すと、乱暴に蓋を開け、飲んでいった。一分もしないうちに、すべてを空っぽにすることができた。

「よくできました。さ、行っていいわよ」

 ジー野は半ば押し退けるようにして、女性客の隣を通り抜けた。

 その時、車両が大きく、左右に揺れた。

「うえっぷっ!」ジー野は口を押さえた。「ま、まずい。このままでは、トイレに辿り着く前に、吐いてしまう。そ、そうだ! 即効性の乗り物酔い止めのカプセルがあったはずだ!」

 彼は、ズボンの右ポケットから、包装シートに収められた錠剤を取り出した。よくわからないが、とにかく、多いほうがよく効くだろう。そう思い、四粒、掌に出して、即座に呑み込んだ。

 その後、シートに記載されている内容を見て、仰天した。「即効性 利尿剤 医師の許可なく飲んではいけません」と書いてあったからだ。

 父親がいつも、服用している薬だ。どうやら、間違えて持ってきてしまっていたらしい。

「ぬおお……!」

 ジー野は内股になって、よちよち、と歩いていった。しばらくして、やっとの思いで、五号車に辿り着いた。

 しかし、トイレはどこも、使用中だった。

 希望のアナウンスが流れた。「もう間もなく、デルタ之駅に到着します」

 乗降口の扉の窓から、外を見てみる。すでに、ホームが見えてきていた。

「しめた!」

 ジー野は、乗降口の扉の前に立った。新幹線のスピードは、どんどん下がっていき、十数秒後には、完全に停車した。

 しかし、そこはまだ、ホームの手前だった。

 絶望のアナウンスが流れた。「信号待ちです。十分ほどお待ちください」

 待てなかった。

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