第21話 鳩美の望み

 恋人のグラントが相手ならともかくなぜ自分なのかと訝しみつつも、スティールフィストは応答する。


「どうした、白桃」

『あんたにちょっと話があるの。暇?』

「まあ暇だが」

『そう。ならギルドホームのわたしの部屋に来て。そこで待っているから』


 何の話か訪ねようと思ったが、その前に白桃は通話を切ってしまった。

 スティールフィストはギルドホームへと向かいながら、一体なんだろうかと考える。パーティーの誘いや攻略法の相談などではないのは確かだ。白桃の声があまりにも真剣すぎる。

 ギルドホームにある白桃の部屋の前に到着したスティールフィストはドアをノックする。


「入って」


 部屋主の許しを得たので中へと入る。

 敷居をまたいだ時、スティールフィストは思わず足を止めてしまう。自分を見る白桃の眼差しは、真剣を通り越して睨みつけている。

 白桃を怒らせるようなことをしたのだろうかと考えるも、スティールフィストは全く身に覚えがなかった。

 スティールフィストは高校時代に付き合っていた後輩のことを思い出す。彼女のときのように、正しいと思ったことを人情無くした行いが白桃の怒りに触れたのかもしれない。


「それで、話というのは?」


 相手が自分に怒っているかもしれないと思っても、スティールフィストに緊張は一切なかった。

 人に嫌われる恐怖を得たスティールフィストだが、それはまだピジョンブラッドのみに対してであり、それ以外の人物に対しては以前と変わらず、無感情のままであった。


「あんた、ピジョンブラッドのこと好きでしょ」

「まあな」


 ドキリとしつつスティールフィストは素直に認める。この気持を隠しているわけでもない。以前にもハイカラから指摘されていた。


「でも、彼女のことはほとんど知らないでしょ?」

「そんなこ……」


 そんなことないと言いかけた時、スティールフィストはたしかに白桃の言う通りピジョンブラッドのことをあまりに知らないと気づく。

 プラネットソーサラーオンラインにログインしていないときはどうしているのか。何が好物で、好きな映画や音楽は何か。知っているのはピジョンブラッドが剣の達人ということだけで、それ以外は何も知らなかった。

 人にはプライベートというものがある。スティールフィストはピジョンブラッドのことをあれこれ詮索しなかった。それは正しくないからだ。ならば知りうるのは彼女が自らのことを語ったことのみだ。

 それでピジョンブラッドのことをわずかしか知らないということは、彼女は自分のことをほとんど語っていないということだ。

 多少なりとも他人との交流をしているのならば、自分がどんな人間であるのかを他人に語ることが一度や二度くらいあるはずだ。それがピジョンブラッドにはなかった。


「私が心配しているのはね、現実世界であんたがあの子と出会ったら、自分の理想通りじゃなかったことに腹を立てて、あの子を傷つけるじゃないかってことよ」

「そんなことはしない。ゲーム内と現実世界じゃ人は違っているからこそ、まだ知らない彼女の他の面を知りたいとも思ってる」


 スティールフィストは本気だった。それでも津音子は厳しい目つきを崩さなかった。


「確かに嘘を言っている様子はなさそうね。少なくとも、今は」

「どういうことだ」

「あんたが今、本気でいられるということは、今が何でも無い時だからよ。いざその時になった瞬間、人の心がどう働くかは、本人ですらわからないの。心から愛している、絶対に傷つけたりしないと本気で思っていても、何かの切っ掛けがあれば一瞬で裏返るのが人の心なのよ」

「俺がそうなると疑っているのか?」

「半分はそう。同時に、私はあんたがそんな悪党であってほしくないと願っているわね」

「随分とピジョンブラッドのことを心配しているんだな」


 友達のことを思いやるというのならば不自然なことではない。が、心配しすぎているような気もする。


「けど、彼女ほどの達人ならメンタルも強いんじゃないか?」


 あれ程の剣の達人なのだ、心もまた相当に強いはずだ。そうでなければ、超難関のソロ専用クエストに挑戦したり、レイドボスとの一騎打ちに臨もうとはしないはずだ。


「それこそ、あんたがあの子の一面しか見えていないってことよ」

「俺が知らない弱さがあると?」

「友達とはいえ赤の他人の私が言うべきことじゃないわ。でも、これだけは言える。あの子もあんたのことが好きで、もしあんたに傷つけられたとしたら、あの子は一生他人を信用できなくなってしまうわ」


 スティールフィストにいくつもの感情が巻き起こった。

 最初は歓喜。自分の思いが一方通行なものではなく、彼女もまた自分に好意を持っていたということに対する喜び。

 しかし喜ぶのもつかの間、スティールフィストの心は困惑へと変わる。自分の振る舞いが他人の心のあり方を決定しかねない状況にあるということだ。

 責任の二文字が自分の背中にのしかかるのを感じる。

 次は心配。他人を信じれるか否かの瀬戸際にいるというピジョンブラッドは、心が深く傷ついているということだ。

 今すぐにでも彼女の元に行きたかった。どうにかして彼女の心を癒やしたいと思った。


 そして最後は怒り。白桃の口ぶりから、おそらくピジョンブラッドは誰かに傷つけられたのだ。それも酷い裏切りによって。

 一体誰が? 少なくともピジョンブラッドが信頼していた人物であるのは間違いない。そいつの卑劣な裏切りによって、彼女は人を信用できなくなっているということだ。

 なぜピジョンブラッドが自分の内面をほとんどさらけ出さなかったのか、スティールフィストは理解した。他人に弱みを見せたくなかったのだ。

 ピジョンブラッドとの関係は遠慮のない親しいものだと思っていたが、しかし彼女の方は心の中に不安があったということだ。


「俺はピジョンブラッドを傷つけない。傷つけたくない。傷つけるような奴から彼女を守りたい」


 スティールフィストは断固たる決意をもってその言葉を口にする。


「でも、今の俺と同じ気持ちを持っていたやつが、ある日心変わりしてピジョンブラッドを傷つけたってことだよな?」


 津音子は答えない。しかし否定もしなかった。つまりはそういうことだと、スティールフィストは解釈する。

 悪党になるつもりなど無いが、聖人君主だという自信も無い。スティールフィストは自分を恐ろしく感じた。自分がピジョンブラッドを傷つけるわけ無いと思っていたが、人の心が不動ではないと理解した今、自分が彼女を傷つけるのがあまりに恐ろしかった。


「いっそ彼女とは会わずに、オンラインゲームのフレンド同士にとどめたほうが良いのかもしれないが……」


 傷つけるくらいならば距離をおいたほうが良い。その考えに対し、スティールフィストは嫌だと否定する


「それでも俺はピジョンブラッドに会いたい。会ってあいつの助けになりたい」


 恋慕の情が炎のように胸の奥から湧いてくる。


「そして、オフ会の時にもしものことがあったら、ピジョンブラッドを守ってくれ」

「あんあたからあの子を?」

「そうだ。何よりも優先すべきなのはピジョンブラッドの心の安全だ。そのためならば俺は自分ですら疑う。俺は平凡な人間だ。鋼のような心を持ったヒーローなんかじゃない。土壇場になって心変わりしてしまうかもしれない。そのために、白桃には万が一のための保険になってほしい」


 それまで厳しかった津音子の表情がすこし和らぐ。


「信じてくれってお決まりのセリフを言う人よりは信用できそうね」


 ピジョンブラッドの友人から一応の信頼は得た。ならば信頼に値する人物であろうとスティールフィストは自らの心を引き締める。



 鳩美はずいぶん良くなったと礼香は感じていた。

 最初の頃はおどおどと怯えた様子だったが次第に慣れてきて、今では接客も出来るようになった。古くからの常連客は彼女のことを仕事が丁寧と評価するほどだ。

 礼香は数週間前にあった出来事を思い出す。


「店長、ちょっといいですか」


 アルバイトの学生に礼香は呼ばれる。


「どうしたの?」

「その、外国の客がいらしているのですが、私では接客が難しくて」

「わかったわ。その人は私が応対するから、あなたは他の客をお願い」

「すみません」


 時代による変移はあれど独特の文化を持つ秋葉原は、海外からくる旅行客の観光先として選ばれることが多い。喫茶ミストでも外国人の客が訪れることはそう珍しいことではなく、メニューは日本語と英語で書いてある。

 しかしながら言葉の壁というのは存外に大きく、日本語の通じない接客は難しいものだ。

 そういう客相手に身振り手振りでどうにかして意思の疎通を行うのだが、時にはなかなかうまく行かないときもある。


「いかがいたしましたか?」


 礼香は女性の外国人観光客に尋ねる。

 彼女は英語で書かれた秋葉原のガイドブックのあるページを指差している。どうやらここに行くまでの道のりを聞いているようだ。

 礼香は困った。単に注文を聞くだけならばなんとかなるが、道順を教えるとなるとそうもいかない。

 その時、鳩美が大学で翻訳や通訳を学んでいるということを思い出す。彼女なら客に道を教えることも出来るだろう。

 しかし他人に怯えている彼女にそれをさせるべきではない。

 なんとかして自力で道を教えようと礼香が決断したその時、厨房にいた鳩美が姿を見せ、自分から英語で客に話しかけたのだ。

 言葉が通じる相手が現れて客はホッとした表情を浮かべる。そして笑顔で店を後にした。


「鳩美ちゃんのお陰で助かったわ」

「いえ、それほどでも」

「でも、あなたが自分から見ず知らずの人に話しかけるのは珍しいわね」

「自分でも意外に思っています。店長が困っているというのも有りましたけど、行けるかもしれないと思ったのです。どうやら私は少しだけ変われたようです」


 それ以降、鳩美も接客に参加するようになった。礼香としても英語を使う外国人の接客がスムーズに行くのはとても助かった。

 このまま行けば、鳩美は以前の自分を取り戻せるかもしれないと期待するほどだった。

 しかし数日前からどうも様子がおかしくなった。仕事ぶりに変化はなくとも、何かがあったのは確かだ。

 その証拠に鳩美は少しやつれてきている。食事が喉を通らないほどの悩みを抱えているのかと礼香は心配になる。


「少し前からなんだか顔色が悪いようだけど大丈夫?」


 営業時間後に鳩美と二人きりで店の掃除中に、礼香は彼女の様子をうかがう。

 鳩美は隠していたものが見つかってしまったという表示を浮かべた後、観念したように口を開いた。


「心配させてすみません」

「体調が良くないなら、しばらく店を休んでいてもいいのよ」

「いえ、少し悩み事を抱えているだけですので大丈夫です」

「悩み事? 何かあったの」


 礼香は深刻そうな表情を浮かべる。自分の店の一員が困っているなら助けになりたい。何より鳩美は鷹人から預かった大事な子で、自分にとっては妹のようなものだ。


「最近始めたオンラインゲームで知り合った人たちとオフ会をしないかと言う話になりまして……」


 遠慮がちではあるが悩み事を打ち明けてくれること自体が礼香にとっては嬉しかった。鳩美の中の他人に対する怯えがだいぶ小さくなっている。


「一人で行くのが不安ということ?」

「いえ、オフ会には高校から付き合いのある友人とその婚約者も出席するのでそれは大丈夫です。ただ……」


 そこで鳩美は躊躇する。

 礼香は急かさず待った。人の悩みと言うのはおいそれと口に出せるものではない。あるいは口に出せないからこそ悩みとなってしまう事もある。

 しかし鳩美は話してくれた。


「ゲームの中では身の危険はないので、思い切った事ができて社交的に振る舞えました。ですが現実の私はそうではありません」


 鳩美は店ではちゃんと接客ができている。しかしそれが社交性の高さであるかは別の問題だろう。相手がもてなすべき客か、共に娯楽を楽しむ友人とでは、しかるべき振る舞いは違ってくる。

 実際、他人にあまり怯えなくなってきたとはいえ、それは一定の距離があってのことだ。

 鳩美の悩みとは至近距離における人付き合いかもしれないと礼香は想像する。

 例えば恋とか。


「私は実際の自分を知られて失望されるのが怖いのです。ゲームでは何人かの友人ができましたが、その中で特に親しい人に失望されるのが何より怖いのです」

「ならいっそオフ会に参加しなければいいと思うけど、そうも単純な話じゃないから悩んでいるのよね」


 鳩美は消えそうな声で「はい」と答えた。


「その人とはもっと親しくなりたいと思っています。ゲームとは関係なく現実世界でお付き合いしたいのです」


 やはり恋だと礼香は確信する。

 同時にこれは分水嶺だとも感じる。

 辛く険しい道のりかもしれないが乗り越えたらその先に光がある。鳩美は再び他人に対して安心を感じられるかもしれない。


「ただ、先程も言ったようにその人と親しくなれたのは、ゲームの中でなら私が社交的に振る舞えていたからです。ですが現実ではそれができません。どうすれば他人に怯えず、社交的に振る舞えるのか、私は自分の心の動かし方がわかりません」

「鳩美ちゃん、あなたは大事なことを忘れているわ」

「大事なこと、ですか? それは一体?」

「相手に何をしてほしいかということよ。今のあなたは自分がどうすればよいのかばかりで、相手にどうしてほしいのかが抜けているわ」

「ですが、それは自分の都合を押し付けてしまうのでは」

「都合があるのは誰だって同じよ。自分がしてほしいこと、相手がしてほしいこと、自分がすべきこと、相手がすべきこと、そういうのをすり合わせていくのが人間関係というものよ」


 礼香は鳩美の肩を優しく触れる。拒絶はされなかった。

 本人は気づいていないようだが、鳩美の中にある他人への怯えは薄れている。

 今彼女が抱えている怯えは恋の怯えだ。礼香にもそういう経験はあった。

 鷹人と付き合う前、彼はただの客として店に来たことが何度もあり、礼香はそのたびに自信を持って一流の紅茶を出していた。

 その後、鷹人と付き合うようになり、恋人として彼のために紅茶を煎れようとすると、とたんに不安になってしまった。

 自分は今、正しいのかと確信が持てなかった。プロとしての自信が消え失せてしまい、不出来な紅茶を飲ませたせいで嫌われてしまうかもしれないと恐ろしかった。

 他人に敵意を持たれたくないという気持ちは誰だって持ち合わせている。鳩美のそれは、父親と思っていた人に殺されかけるという悲劇のせいで、過度に強くなってしまっているだけなのだ。


「自分が何をすべきなのかわからないのならば、まずは自分が相手にしてほしいことを考えてみなさい。そうすれば自然とうすれば良いのか考えられるはずよ」

「ありがとうございます。店長」

「良いのよ、鳩美ちゃん。私と鷹人さんが結婚すれば、貴方とは家族になるのよ。家族の悩みは私の悩みよ」



 夢見荘の自室で鋼治は今までの人生でこれ以上無いほどに他人のことを考えていた。もちろんピジョンブラッドのことだ。

 明るく力強い彼女を見てそれが全てかと思っていたが、実際は心に深い傷を負っていた。今の今までそれに気が付かなかった鋼治は彼女の一部分にしか目を向けていなかったのだと痛感する。

 オフ会で会った時、自分はピジョンブラッドに対してどうするべきなのか。美しい側面だけでなく弱さも欠点も受け止める心構えはできている。しかし、それだけで良いのだろうか。ただ受け止めるだけでは何もしないのも同然ではないか。なにかすべきではないのか。鋼治ははっきりとした答えを出せないでいた。


 想い人のために何かをすべきという気持ちばかりが空回りしている。精神科医でも無い素人に何が出来るのだろうか。ましては今まで人情を持ち合わせていなかった自分が人の心など癒せるはずもない。鋼治は自分の無知無力に落胆する。

 もはや自力ではどうにもならないと判断した鋼治は、誰かに相談しようと考えた。できれば女性からの意見を聞きたいところだ。女性の気持ちは男よりも女性がよくわかっているはず。しかし高校時代の後輩との一件以来、鋼治に女性との交流は皆無となっている。


 いや、交流はある。

 鋼治は壁を見る。正確にはその向こう側。

 赤木鳩美だ。

 部屋を出た鋼治はすぐに隣りにある鳩美の部屋の玄関前に行き呼び鈴をおそうとするが、そこで躊躇する。

 交流とは言ってもあくまで隣人という関係。大学からの帰りに偶然顔を合わせたら他愛もない話をする程度だ。心が深く傷ついた誰かにしてやれることはないかという、重い相談事にのる筋合いがあるのだろうか。

 何をするべきか明快ではない以上、出来ることをやるしか無い。断られたらそれはそれ。また改めて考え直せば良い。そう考えて鋼治は呼び鈴を鳴らした。


「しょ、少々お待ち下さい」


 扉越しにやや怯えた様子の鳩美の声が聞こえる。

 それからガチャガチャとした音が聞こえる。おそらくチェーンロックを外しているのだろう。随分と用心深い。鋼治は初めて彼女と出会った時を思い出した。

 玄関がかすかに開かれ、隙間から鳩美がこちらをうかがう


「どうも赤木さん」

「黒井さん? いったいどうされました?」


 来訪者が隣人と知ったためか、鳩美の表情から警戒の色が消える。


「実は相談に乗ってほしいことがあって。こんなことを頼むのは筋違いかもしれないが」

「相談ですか? お役に立てるかどうかわからないですけど、話を聞くだけならば良いですよ。立ち話もなんですからこちらにどうぞ」


 鳩美は鋼治を招き入れる。

 初めて足を踏み入れる隣人の部屋は、一言で言うならさっぱりしていた。引っ越ししてまだ数ヶ月ということもあって、生活に必要なものが置かれているのみ。多少の差はあれど同じく引っ越しして間もない鋼治と対して変わらなかった。


「それで、相談というのは?」


 鋼治はちゃぶ台越しに座る鳩美の傍らに木刀があるのに気がついた。女の一人暮らしで用心のためだろうか。隣人と話す時にすぐ手に取れる場所に武器を置いておくというのは、臆病であると同時に武闘派だ。

 せっかく隣人が相談に乗ってくれたのだ、余計なことを考えるのはよそうと、鋼治は話を切り出した。


「俺には好きな女の子がいるんだ。その娘は表面上では明るく振る舞っているけど、心に深い傷を負っている。俺はその助けになりたいんだ」

「いったいその方に何があったのですか?」

「俺も詳しくは知らない。本人から直接聞いたわけじゃないからな。ただ、もし再び心が傷つくようなことがあれば、その娘は二度と他人を信用できなくなる」

「そこまで深く傷ついておられるのですね」

「ああ。俺はその娘のために何かをしてやりたいんだが、相手は女の子だ。男の理屈で何かしても、迷惑かもしれないし、余計に傷つけてしまうかもしれない。赤木さんがその娘の立場ならどうして欲しいかな?」

「そうですね……」


 鳩美の表情は真剣だ。真面目な人なのだろうと鋼治は思った。彼女はピジョンブラッドとなんの関係ないにもかかわらず、しょせんは他人事と軽く見なさず、まるで自分も深く関わっているかのようにちゃんと考えてくれる彼女に感謝した。

 初めて会った時は社交的でなく、何かの疑心暗鬼に陥っているとすら思った。けどあれは初めて一人暮らしをするようになってまだ間も無い時期の不安からくるものだったのだろう。

 鳩美は単に打ち解けるまで時間のかかる人なのだ。そんな人、世の中にいくらでもいる。


「もし私がその方でしたら……」


 鳩美が自らの考えを口にする。


「心の弱さを受け入れてほしいと思うでしょう。他人を恐ろしいと思う弱さを、決して克服せねばならないものとせず、弱いままでも良いと受け入れて欲しい」

「そうか、相手を立ち直らせようと働きかけるのはかえって心の傷を広げかねないのか」


 それは力尽きて倒れたものを無理やり立たせようとするようなものだと鋼治は気づく。


「その方は心の傷を隠して明るく振る舞っているのは、社会とは心の弱さを許さない冷酷なものだと思っているからかもしれません。黒井さんがするべきことは、その方の心の弱さを許してあげることです。そうすれば時間はかかるかもしれませんが、その方が黒井さんに心をひらいてくれるかもしれません」

「わかった。そうするよ。強引に活力を注ぎ込もうとはせず、ただ寄り添い見守ることにする」

「そうしてあげてください。切り落とされた腕がもとに戻らないように、心にも治らない傷というものがあります。大事なのはその傷とどう向き合うかでしょう」


 鳩美はその言葉を自分にも言い聞かせているように鋼治は思えた。もしかすると彼女にも治したくとも治せない傷や弱さがあるのかもしれない。


「どうすれば良いのか迷いが晴れたよ。相談に乗ってくれて、本当にありがとう」


 鋼治は深く頭を下げて感謝した。


「私はただ話を聞いて自分の考えを口にしただけです。感謝されるほどのことではありません。もしかしたら間違っているかもしれないのですから」

「赤木さんは俺の相談を真剣に考えてくれた。結果なんか別にして、俺はそれに感謝しているんだ」


 鋼治は立ち上がる。


「俺はこれで失礼するよ。もし赤木さんになにか困ったことがあったら、今度は俺が相談にのる」

「わかりました。その時は、どうかよろしくお願いいたします」

「ああ。じゃあ、またな」

「ええ、また」


 鋼治が笑みを浮かべると、鳩美も微笑み返した。

 良き隣人と出会えてよかった。鋼治は心からそう思った。

 


「感謝するのは私の方です」


 鋼治が立ち去った後、鳩美は静かにつぶやいた。


「あなたのお陰で、私が彼にどうしてほしいのかはっきりと分かりました。ありがとうございます」


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