第9話 好転
その日の最後の講義を終えた鋼治は、敷地外に向かって学内を歩きながら夏の大会について考えていた。
経験値稼ぎもしている、強力な装備を作るのに必要な素材集めもしている。それでも本気で勝ちに行くのならばそれだけで十分とは思わなかった。
プレイヤーである自分の腕前も磨く必要がある。それをはっきりと実感したのはやはりピジョンブラッドと共にプラネットソーサラーオンラインをプレイするようになってからだった。
ピジョンブラッドは短期間で驚くほど自分たちに追いついてきている。
経験値を獲得してレベルアップすることで、ステータスの数字が上昇してプレイヤーは強くなるが、ピジョンブラッドの場合は逆だ。数値が上昇したから強くなったのではない。彼女はゲームを始めたときから強く、レベルやステータスはその強さを正確に表現するために後追いで上昇したのだ。
拳闘魔法使いのプレイスタイルである自分はピジョンブラッドと共に最前線で戦うことが多い。大会で勝つためならば、彼女の足を引っ張らないようにしなければならない。そのためには高いレベルや優れた装備だけでは不十分だ。
ヘレナと戦ったときのことを思い出す。動作補正系技能に頼ってさえいなければ、自分が回避したせいで味方が倒されるなんて間抜けなことはしなかった。
ではどうやって腕を磨くか。ゲーム内では魔法の格闘家でも、現実の自分は武術の素人だ。そんなやつが我流で練習しようとしてもたかがしれている。師匠とは言わないまでも、参考となるものが欲しい
一つ心当たりが思い浮かんだ頃、大学の正門前で赤木鳩美の姿を見つけた。
「同じ大学だったんだな」
大学生という身分は同じだと思っていたが、通う学校まで同じとは思っても見なかった。
「そうです、ね」
鳩美は蚊の鳴くような声で答える。初めてあったときほどではないが、それでもおどおどした様子は伝わってくる。
しかしそこから話が発展することはなく、無言の時間が続いてしまう。
さてどうしようかと思案する鋼治の心に気まずさというものは一切なかった。別にこのまま鳩美と一切言葉をかわさなくても全く構わないとすら思っている。
それでも無言の空気をどうにかしようとおもっているのは、自分はともかく鳩美の方は気まずく思っているかもしれないからだ。
自分がいることによって他人にストレスを与えるのは正しくない。鳩美の気が楽になるようなにかの話題は必要だと鋼治は考える。
しかしここで一つ問題があった。鋼治は女性とのコミュニケーションで上手く行ったことがないのだ。
鋼治は高校の時に体験した初めての恋愛を振り返る。
思えば、あれは初恋などではない。より正確に表現するならば恋愛行動を取ったという履歴を残しただけだ。
「私と付き合ってください!」
ことの起こりは高校二年の夏。皆が夏休みの到来を待ち遠しくしていた時期だ。
相手は後輩の娘だった。所属する委員会が同じで、先輩としていくつかの物事を教えていた相手だ。
鋼治は後輩の告白を受け入れた。断る理由はないし、精一杯の勇気を振りぼって告白したであろう後輩の気持ちを無下にする訳にはいかない。
それは正しくないからだ。
夏休みに入ったら、早速初めてのデートに行った。分からないだらけの中でも下調べを重ね、後輩が楽しめるよう努力した。
後輩の誕生日が近くなった時も当日ギリギリまでプレゼントを吟味した。
恋人として正しいと思える事は出来る限りしたつもりだ。
にもかかわらず後輩との関係は夏休みよりも短く終わってしまった。
「先輩、私たち別れた方がいいと思います」
彼女はある日突然話を切り出した。
「分かった」
別れ話に対し鋼治は冷静に答えた。
「……私を引き止めようと思わないんですか?」
「無理に関係を続けても君が苦しいだけだろ。それは正しくない」
「正しい、正しくないの問題じゃない!」
後輩は突如として激昂した。
「私のことが少しでも好きだったならば、別れたくないと思うはずでしょう!? なんでそんなにあっさりと納得しちゃうんですか!」
後輩の瞳には涙が浮かんでいる。
「先輩のすることはいるだってそう。正しいか正しくないかの二択だけ。私に優しくしてくれたのも、告白を受けてくれたのも、私が好きだからじゃなく、そうするのが正しいからでしょう!?」
そうだと思ったがそれを鋼治は口には出さなかった。そうするのは正しくない。
「先輩は名前の通り、金属みたいに心が冷たいんですね。こんな人、好きになるんじゃなかった」
そのような言葉を叩きつけられても鋼治の心は硬い鋼のように無傷だった。
ああそうか自分には人情がなかったのか、と異様なまでの客観視だけがあった。
後輩にしての行い、その全てが彼女を好いてのことではなく、恋人として正解であろう行動をとっていただけに過ぎなかったのだ。
委員会に入ったばかりで勝手が分からず困っていたのも、人情によるものではなく、良心に従って正しいと思った行動に過ぎない。
正しい行いとは、好かれたいから、感謝されたからではなく、ただ正しいからと言う理由で行うべきだと思っていた鋼治だが、後輩との恋愛にとってはそれは間違いだったと理解した。
後輩には申し訳ないことをしたと罪悪感が湧いてくる。しかし彼女を好きという気持ちはついぞ現れることはなかった。
人情が欠落し、正しいと思ったことを正しいという理由のみで行う鋼治の心に、人に好かれたいという欲と人から嫌われたくないという恐怖は無く、人を好きになるという心もなかった。
結局、後輩と別れた後は二度と誰かと交際するということはなかった。
これからずっと誰にも愛されなくても構わなかった。好かれたいという欲がないのだ。人は一人では生きていけない生き物だが、それは誰かに愛されることを必須とするものではないと鋼治は考えている。
少なくとも、なるべく正しくあろうとしてさえいれば世の中から断絶することはない。鋼治にとって生きていくにはそれで十分だった
そして今、隣を歩く鳩美と何を話そうかと考える。会話をするからにはなるべく楽しいほうが良いかと思ったが、恋愛という行いに致命的な失敗をした人間があれこれ知恵を巡らせても不毛にしかならないと結論が出る。
そもそも鳩美を心から楽しませる必要など無い。ようは気まずささえなければそれでいい。鋼治にとって彼女はただの隣人。顔を合わせた時に挨拶をすればそれで十分な関係だ。
天気の話あたりで十分だろうと鋼治は結論づけ、鋼治は鳩美に話しかけようとする。
「黒井さんは大学で何を勉強されているのですか?」
そう思った時、予想外にも鳩美の方から話しかけてきた。
●
「黒井さんは大学で何を勉強されているのですか?」
言った。言ってしまった。
一線を超えてしまったことに対する後悔が心を支配しかけるが、踏み出してしまったからには最後まで進むしか無いと鳩美は自分に言い聞かせる。
鋼治は両目を大きく開き意外そうな顔をした。少なくともそこから敵意は感じ取れないことを鳩美は心のうちで安堵する。
「経営学を勉強している。実家が雑貨店でね。家業に役立ちそうな知恵をつけたいんだ」
「ちゃんと将来を考えて勉強されているのですね」
どんな進路を歩むにせよ、社会人になるためにはそれなりの教養というものが必要で、そのための大学なのだが、とりあえずやなんとなくで勉強しているものは多い。そんな中、きちんと目的地を定めて勉学に励む彼を鳩美は素直に尊敬の念を持った。
「そんな事無いさ」
鋼治は謙遜した。褒め言葉を嫌味と受け取られてしまわないか内心ヒヤヒヤしていたが、彼から敵意は一切感じられない。
まるで綱渡りをしているかのようだ。心臓が激しく鼓動し、まるで体全体を揺らしているかのようだ。鳩美は自分の心音が相手に聞こえてしまうのではないかと心配になった。
「赤木さんのほうは何を?」
何を学んでいるか聞いたのだ、同じことを聞かれるのは当然だろう。
「語学を学んでいます。英語ですね」
「翻訳か通訳の仕事をしたいのか?」
「はい。ただ翻訳はともかく通訳は果たしてできるのかどうか……私は極端な人見知りですから」
本当は全ての他人に殺意を向けられるのではないかと恐れているのだが、言葉をオブラートに包んだ。
「じゃあ翻訳家を目指してるんだな」
鳩美は意外に思った。自分の言葉に対する鋼治の反応は「頑張って人見知り直さないとな」というものではないかと予想していたからだ。
「え、ええ……」
相手の予想外の返しに次に何を言おうかとすぐには出てこなくなってしまい、ほんの僅かだけ沈黙が生まれてしまう。
「あ、あの。人見知りを治すべきとは思わないのでしょうか?」
「いや、別に? 他人に迷惑をかけているわけじゃないから、無理に治す必要はないと思う」
鳩美は鋼治の言葉を確かにそうだと思えた。あの事件がある前は、大抵の人とはある程度親しくなれていただけに、それが当たり前、いやそうでなければならないという思い込みが、知らずしらずのうちに出来てしまったのだろう。
「友達とか恋人がいないやつは死ねって世の中でもないし、誰彼構わず仲良くなる必要なんて無い。喧嘩しなきゃそれで良いんだから赤木さんが無理して変わる必要はないと思う」
無理に変わる必要はないという言葉。不意に鳩美は心が軽くなるのを感じた。少なくとも鋼治一人に対する恐怖心は驚くほど消えている。
それからは些細な世間話する。
「そういえば来月には夏休みだな。赤木さんは実家に帰るのか?」
世間話の中で話題がそれに変わった時、薄れていた恐怖心があっというまに蘇った。
鋼治に対するものではない。実家。自らが育った場所に対しての恐怖だ。
「いえ、私の実家はそう簡単には帰れない場所なので……」
「ああ、遠いと帰るにも金がかかるからな」
帰りたくない遠回しの表現を鋼治はそう解釈した。
実際の赤木家は東京から新幹線で1時間程度の場所にある。
「俺の実家も結構遠くてさ、親も帰ってくるのは正月だけで構わないって言うから、夏休みはずっと東京にいるつもりだ」
そんな話をしているといつの間にか夢見荘についた。
「私はこれで失礼します」
「ああ、またな」
玄関先で鋼治と別れて鳩美は自室に戻る。
それから鳩美は身を投げ出すようにベッドへ横たわった。
鳩美は自分自身の心を見つめなおす。
良くなっている面はあるが、しかし未だ改善していない面もある。
一応、隣人の鋼治に対する怯えは無くなった。
ビクビクと怯え他人の顔色をうかがう人間を好ましいと思いものはいるわけがないし、明るく社交的でないことが他人に敵意を感じさせ、それが殺意に繋がるかも知れないと恐れていた。
でも違った。この隣人は特に不快感をあらわにせず、別にそれでも構わないと言ってくれた。
赤の他人である鋼治が今の鳩美を許容してくれたことで、鳩美はようやく人は簡単に殺意を持ったりしないと少しだけ受けられたのだ。
でもまだ完全ではない。
実家のことを思い出した時、鳩美の心には未だ拭い去れない強い恐怖心が残されていたとわかる。
帰る場所であり、安らぎと温かみを感じるべき場所を鳩美が恐れるのは、そこであの人から殺されそうになったからだ。
あの人が自分を殺そうとしたのは決して消えない事実。
その事実が鳩美の心に怯えを刻み込む
あの人が自分に殺意を持つと言うことが現実に証明されたと言うならば、人は誰もが他人に殺意を持つ可能性を秘めているのではないか。その考えを鳩美はどうしても拭い去れない。
電子音が鳴る。スマートフォンに誰かからの着信があった。
相手は母の赤木
わずかなためらいの後、鳩美は意を決して出る。
「もしもし、どうされましたか?」
『どうしたと言うわけじゃないけど、今どうしているかなと思って電話をかけたの』
4月から今日まで鳩美が自分から実家に連絡を入れたことはなかった。それを心配したのかもしれない。
「大丈夫です。大学での勉強もそれ以外の生活も順調です」
『そう? それならば良いのだけど……』
朱鷺子は「それと」と言葉を続ける。用件は一つではなくむしろここからが本題のようだ。
『夏休みのことだけど……』
まさか帰ってくるように言うのだろうかと鳩美は恐れる。
『できれば帰ってきて欲しいけれど、あなたが家を怖いと思っているならば無理をする必要はないからね。あなたを傷つけた場所なのは間違い無いのだから』
刹那、鳩美の脳裏にあの瞬間がフラッシュバックする。あの時受けた肩の傷が一瞬だけ蘇った。
母は言葉を続ける。
『私に男を見る目がなかったばかりに、あなたには辛くて苦しい思いをさせてしまった』
「そんなことありません。原因は私にあります。あの時はっきりと道場を継がないを言ってさえいれば、あの人は私を殺そうとは思わなかったはずです」
『違う。違うわ鳩美』
母は優しく、しかし断固としていった。
『悪いのはあの男と、あの男の本性を見抜けなかった私達よ。あなたは何も悪くない。あなたが受けた仕打ちは、何一つあなた自身の責任じゃないわ』
母からは何一つ敵意や殺意はなかった。
『あんなことがあったのだから、私を信用できないのは分かるわ。だから無理に信じて欲しいとは言わない。でも何かのきっかけに信じてくれるになら、またあなたを抱きしめさせて』
母から伝わってくるのはただ一つ。
親としての愛だ。
『授かり方が普通とは違っただけで、あなたは私の娘なのだから』
「私もそう思います。こうして今話している人こそが私の母親です。他の誰かでは有りません」
鳩美が口にしたものは敵意を避けるためのものではなく、自らの心の内をそのまま発したものであった。
「あの事件のことを思い出してしまうので、すぐには帰ってこれません。でも今よりも私が少し強くなれたときは必ず帰ってきます。私の家に」
『それで良いわ。心の苦痛を我慢してまで帰るべき場所なんて家なんかじゃない。何年先でも良い、あなたが帰りたいと思った時に帰りなさい』
「はい」
『それじゃあ、またね。しばらくしたらまた電話するわ』
鳩美は母との通話を終える。
鳩美の心から全て怯えが消えたわけではない。しかしこの日、少なくとも隣人と家族に対する恐怖心に限っては消え去っていた。
あの事件は鳩美の心を深く傷つけ、決して元には戻らない破壊をもたらしてしまった。
誰に対しても、それこそ家族に対しても敬語で話す振る舞いは固定されてしまっている。鳩美は以前の自分のように振る舞えないだろうと感じていた。
しかしだ。それは負の永続というわけではない。
以前の自分に戻れなくなったとしても、津音子との友情は蘇り、隣人と親しさを結べ、再び朱鷺子を心から母と思えるようになった。
無理に自分を変える必要はないのだ。他人は自分を攻撃してくるかもしれないと疑うのは、絶対に改善すべき悪徳などではない。全ての他人を信用する必要など無い。自分が善良と思える人と時間を掛けて親しくなればそれで構わないのだ。
そう思うと、鳩美は肩の荷が下りたような感覚がした。他人への恐怖を消そうとして無理が生じていたのかもしれない。限られた人と親しくなればそれで良いと割り切ったことで、かえって他者からの敵意を恐れなくなっていた。
大丈夫よ。だってあなたは自分を守れる力があるじゃない
普段はサイバースペースのみ存在するピジョンブラッドの心が鳩美に語りかけてきた。
たしかにそうだと鳩美は思った。自分は赤木流の剣士だ。幼い頃からの稽古の日々は自分を守れるだけの力を授けてくれているはずと自信すら湧いてきた。
「大丈夫。私は立ち直れる」
鳩美は自分の心に良いと思える変化が訪れたことを静かに嬉しく思った。
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