第2話 上級者の助言
ピジョンブラッドは森の奥へと更に進む。その過程で発生した戦いで経験値も蓄積され、レベルが3に上昇した。
視界がひらける。まるで巨大な剣が大地を引き裂いたかのような長大な崖が伸びている。
ピジョンブラッドは崖縁に立ち、見下ろす。高さは20メートル、いや30メートルはあるだろうか。落ちてしまえばひとたまりもないだろう。
周辺のキノコは一通り採取した。クエスト報告するためにセーフシティへ戻ろうとした時、崖縁に一本だけある木の根本に、驚くほど大量のキノコが生えているのを見つけた。
「やった! 運が良いわ」
思いがけない幸運に心を踊らせながら、ピジョンブラッドは木に近づいていった。
その時だ!
突如として木が動き出し、枝をまるで腕のように動かしてピジョンブラッドの体を掴んだ。
「えっ!」
思わず声を上げるピジョンブラッド。彼女の視界には、フェイクツリー:レベル7と表示される。
「ウソ! 木に化けていたの!?」
擬態能力を持つMエネミーだったのだ!
ピジョンブラッドは腰のマジックセーバーを手に取り、自分をつかんでいるフェイクツリーの腕を切断しようとする。
しかし、フェイクツリーは腕を切り落とされるよりも前に、ピジョンブラッドを崖に向かって放り投げた。
向こう岸の崖肌にたたきつけられ、視界の左下に表示される
HPはキャラクターの生命力を示す値だ。これがゼロになれば死亡と判定され、最寄りのセーフシティに戻される。
ピジョンブラッドは引力に引っ張られて崖下へと落ちていく。このままでは落下ダメージで死亡判定を受けるだろう。
とっさに、マジックセーバーのレーザー刃を崖に突き刺す。それが金属製の刃だったら落下を防げていたかもしれないが、レーザー刃の高熱は崖肌をマグマのように溶解させてしまい、ピジョンブラッドは落下し続けた。
「わわっ! 止まらない!」
それでも落下の速度自体は減速した。そのお陰で、崖下に叩きつけられてしまっても、HPがゼロになることはなかった。
ピジョンブラッドは腰をさすりながら立ち上がる。サイバースペースである以上、痛覚は感じないようになっているのだが、あまりにリアリティがあるゆえに、あたかも痛みがあるかのように錯覚してしまう。
HPは半分以下となっている。回復する必要があった。
ピジョンブラッドはメニューデバイスから回復アイテムを取り出す。ペンライトのような形をしているそれはメディカルライト:レベル1だ。アイテム説明文には『回復の魔法を封入した使い捨ての治療装置』と記されている。
「えっとこうすればいいのかしら?」
スイッチを入れると先端部から光が放たれる。それを自分の体に当てると、HPが回復していった。
光は10秒続き、ピジョンブラッドのHPを最大値の8割まで回復させた。光が消えると、使用済みとなったメディカルライトは消滅する。
「回復はできたけど、どうやって戻ろうかしら」
崖を見上げるとあまりの高さにため息が漏れる。
パワードスーツのジャンプ力でも上まで届かないし、かといって崖を道具もなしに登るのも危険だ。
ここで悩んでいても仕方がない。安全に戻れる場所を探したほうが良いだろう。
メニューデバイスの機能で地図を呼び出し、現在地を確認する。崖は南北に伸びており、ピジョンブラッドがいるのはちょうど中間の場所だった。
地図には崖の南端にポータルがあると記されていた。
「よかった、なんとか戻れそう」
ピジョンブラッドは安堵したが、そう甘くはなかった。
しばらく谷底を進むと、新しい敵が姿を見せたのだ。
それは背丈が8メートルはある大猿で、引き抜いた樹木を、まるでこん棒のように担いでいる。今まで出会ってきたMエネミーの中でも、明らかに格上だ。
大猿を凝視するとその敵の名前がコンボウオオザル:レベル50と表示された。
「レベル50!?」
名前の横にあるレベルを見てピジョンブラッドは驚いた。
ピジョンブラッドよりも10倍以上も強い。本来は上級者が挑む相手なのだろう。
勝ち気な魔法剣士になりきっているとはいえ、数値上ではっきりと勝ち目がないと示されている相手に挑むほど、ピジョンブラッドは無謀ではない。
幸いにも、谷底には人間が身を隠せるだけの大きさを持った岩がいくつも転がっている。ピジョンブラッドは岩陰に身を隠しながら、コンボウオオザルに気づかれぬよう先へ進む。
相手は現実の生き物ではなく、あくまでプログラムに従っているキャラクターに過ぎないので、動きを見極めるのはそう難しいことではない。コンボウオオザルがあさっての方向を向いているのを見計らって、次の岩陰へと移動する。
これならなんとかやり過ごせそうだと思っていたその時だ。ピジョンブラッドは空から小石がパラパラと落ちてくるのに気がつく。
真上を見ると、崖縁にあった岩が今にも落ちてきそうな状態にあった。
危険を察知したピジョンブラッドが弾かれるようにその場から離れるのと、岩が落下するのは同時だった。
ズンと響く音。間一髪で岩に押し潰されるという難を逃れたピジョンブラッドだったが、すかさず次の難が訪れる。
「しまった!」
岩陰から飛び出したために、コンボウオオザルに見つかってしまったのだ。
怪物らしい血走った目とピジョンブラッドの目があう。
脱兎のごとくピジョンブラッドはかけ出した。あの巨体なら動きは遅いはず。逃げきれるかもしれないと思ったが、それは甘かった。
コンボウオオザルは見た目からは想像もできないような俊敏さで飛び上がると、そのままピジョンブラッドの頭上を通り過ぎて、彼女の前に着地した。
巨体が着地したことによる振動は、大地震のような振動を引き起こし、ピジョンブラッドは転倒してしまう。
大猿のMエネミーがこん棒代わりの樹木を振り上げる。
どうやらここでゲームオーバーのようだ。HPがゼロになって死亡判定を受ければ、ペナルティとして装備品以外のアイテムは全て消失する。せっかくキノコを集めたというのに、骨折り損となってしまうことにピジョンブラッドは落胆してしまう。
「喰らえ!」
しかし、空から降ってきた人影が、コンボウオオザルにかかと落としを叩きつけて、ピジョンブラッドへの攻撃を中断させた。
現れたのは、鋼色の機人族だった。
「あ、あなたは?」
「俺はスティールフィスト。君、初心者だろ。助けに来た」
まるでヒーローであるかのように、彼は窮地に対してさっそうと現れた。
たかがゲームでわざわざ人助けをするという奇特さにピジョンブラッドは驚く。いや、あるいはゲームだからこそ? スティールフィストはヒーローという役割をロールプレイングしているのかもしれない。
コンボウオオザルは標的をスティールフィストに変えた。
樹木が振り下ろされ、スティールフィストをスクラップにしようとするが、彼は頭上で両腕を交差させて、その攻撃を受け止めた。
すさまじい衝撃がスティールフィストに伝わり、その足元がクモの巣状にひび割れるが、彼自身は痛手を受けたような素振りを全く見せない。
「ふん!」
スティールフィストが受け止めた樹木を勢い良く押し上げる。持っていた武器を弾き上げられたコンボウオオザルは、体勢を崩して上半身をのけぞらせる。
その様を見ていたピジョンブラッドは、スティールフィストの右拳から電光がほとばしっているのに気がつく。
スティールフィストは体を一瞬沈み込ませると、砲弾のような勢いで跳躍し、電光をまとう文字通りの鉄拳をコンボウオオザルの下顎に叩き込んだ。
電気の爆発が生じ、人間の数倍はある巨体が宙に浮く。
大猿は背中から倒れる。その一瞬後にスティールフィストが着地し、構えを保って残心する。
コンボウオオザルはもう起き上がらなかった。そのまま黒い灰となって跡形もなく消え去る。
あとになって知ったことだが、スティールフィストが使った技は電光雷鳴拳と呼ばれるもので、拳闘魔法の中で最も威力の高いものだった。
「危なかったな」
構えを解いたスティールフィストがピジョンブラッドに振り向く。外見がロボットであるため、見た目では年齢は分からないが、少なくとも声は若い男だ。
スティールフィストが手を差し伸べる。ピジョンブラッドは彼の手をとって立ち上がった。
「助かったわ。あなた強いわね」
その言葉を発した瞬間、鳩美は血の気が失せた。つい先程までピジョンブラッドを演じきっていたために、初対面の人に対してあまりに礼に欠ける口の聞き方をしてしまった。
気分を害したスティールフィストが自分に対し「攻撃」するのではないかと怖れた。
思わず、彼の右手を見てしまう。あの電光の拳が自分に対して叩きつけられてしまうのではなかろうか?
「そうでもないさ。レベルも腕前も上のやつはいくらでもいる」
特に怒り出す様子もなく、スティールフィストは謙遜する。先ほどのピジョンブラッドの発言はなんとも思っていない様子だった。
単なる杞憂のようだ。ピジョンブラッドは相手にさとられないように安堵する。彼がおおらかな人で本当に良かった。そもそも、このゲームは他のプレイヤーを攻撃してもダメージは発生しないと今更ながら思い出す。
「それにしても、こんなところにいるってことはフェイクツリーに引っかかったのか?」
「よく分かったね」
相手がなんとも思っていない以上、今さら本来の自分をさらけ出すのも気まずい。鳩美はこのままピジョンブラッドとして演じることにした。
「初心者はキノコ集めのクエストの最中にこの谷へ落ちることがあるんだ。だからここはプレイヤー達から初心者殺しの谷って呼ばれている」
「そうだったのね」
「このゲーム、けっこう意地悪なところがあるから、ラッキーって思った時ほど注意が必要だぞ」
「分かったわ。覚えておく」
始めたばかりでまだ右も左もわからない状態だ。経験者からの助言は値千金の価値がある。
「ここで会ったのも何かの縁だ。ついでにセーフシティまで送る」
「本当? ありがとう」
おおらかだけでなく、スティールフィストは心から親切な人だった。
「そういえば名前をまだ聞いていなかったな」
「ピジョンブラッドよ、よろしくね」
「ああ、よろしく」
機人族なので表情はわからないが、おそらく中のプレイヤーは笑顔を浮かべているだろう。
彼はメニューデバイスを操作して、卵状の装置を取り出した。注視するとインスタントポータルと名前が浮かび上がる。
「それは?」
「帰還アイテムだ。こいつを使えばセーフシティまで瞬間移動出来る。もう少し近くに来てくれ。範囲の外にいると一緒に移動できない」
ピジョンブラッドは手を伸ばせば相手の体に触れる距離まで近づく。他人に、それも異性に近づくなど、現実の鳩美ならば心臓が破裂しそうなくらいに緊張するのだが、今は不思議と平常心を保っている。ピジョンブラッドになりきっているのが理由かもしれない。
「それじゃいくぞ」
スティールフィストがスイッチを押す。直後、まばゆい光に包まれたかと思うと、一瞬にして谷底から街へと移動していた。
「便利な道具ね」
今回のような事がまたあるかもしれない。ピジョンブラッドは後で帰還アイテムを買っておこうと心に留めておいた。
「ところで、ピジョンブラッドはこれからどうするつもりだ?」
「まずはキノコを納品して、その報酬で買い物かな。武器も防具も、今使っているのは頼りなさそうだから」
現在ピジョンブラッドが装備しているのは、『型落ちしたマジックセーバー』と『中古パワードスーツ』、そして『古びた三角帽子』だ。どれも名前からして強いとは思えない。品質も五段階評価の内、最も低い粗悪等級だ
「もし迷惑でなければ、俺もその買い物につきあうぞ。助言が欲しければ分かる範囲で答える」
「え、いいの?」
「ああ。せっかくこのゲームに興味を持ってくれたんだ。俺としては楽しく遊んでもらいたい」
「ならお言葉に甘えて、お願いするわ」
斡旋所でクエストの報告をして報酬を手に入れたピジョンブラッドは、アイテムを販売している商店へむかった。
商店は巨大な倉庫を改装した作りになっており、無数の商品がずらりと展示されていた。
「うーん、数が多すぎてどれを買えばいいのやら」
「まずパワードスーツだな。マジックセーバーだったらあるクエストをクリアすれば初期装備より強いのがタダで手に入る。頭装備の帽子については、パワードスーツさえちゃんとしたものがあれば後回しで構わない」
「そうなの? ならそうするわ」
売り場へ行くとそこでは様々なパワードスーツがショーケース内に展示されていた。
ケースには展示されている商品の性能表が表示されていた。
性能表でピジョンブラッドが理解できたのは『防御力』の項目のみだった。これが高ければ敵から受けるダメージが小さくなるということだろう。だが、『身体能力強化』、『知覚精度強化』、『魔力消費量』といったその他の数値はよくわからない。
「ねえ、パワードスーツってどの数値に注意して買えばいいの?」
「プレイスタイルによりけりだな。見たところ、ピジョンブラッドのスタイルはSW
型だな?」
「SW型って? 説明書にはなかったけど」
初めて聞く用語だった。
「プレイヤー達が使ってる俗称で、セーバーウォーリアー型の略だ。マジックセーバーを使って戦うスタイルのことを言う」
「それで、SW型にはどんなパワードスーツが良いの?」
「まず防御力が高いやつ。次に身体能力強化が高いやつだな。身体能力の値が高くなると、素早く動けたりセーバーで攻撃した時のダメージが上がる」
「なるほどね、確かに剣で戦うときには大事だわ」
「あと、プレイスタイルに関係なく、魔力消費量も注意する必要がある」
「その理由は?」
「パワードスーツやマジックセーバーのような魔力を必要とする装備の魔力消費量が装備者の魔力発生量を超えると性能が著しく低下するんだ。」
「強力だからといって、欲張ると駄目ってことね」
「そういうこと。あと、魔力は必ず余裕を持っておかないと、いざという時に魔法が使えなくなる」
スティールフィストが例を交えて解説してくれる。
例えば1秒間の魔力発生量が100ポイントとして、パワードスーツで30、マジックセーバーで10消費される。そして残った60ポイントはMPとして蓄積される。
炎の魔法や回復の魔法などを使う時はMPが消費されるが、余剰魔力が60あるのでMPは毎秒60ポイント回復するという計算だ。
「魔力の余剰分に目安ってあるの?」
「初心者は3割か4割くらい残したほうが良いかな。慣れてきたら自分好みの割合にすればいい」
ピジョンブラッドはスティールフィストの助言を元に、今の所持金で買える中で最も良い物を選択した。
ショーケースにあるパネルを使って購入手続きをする時、カラーリングが選択できた。展示品は白だったが、ピジョンブラッドは自分が好む鮮やかな赤色にした。
手続きが完了すると、インベントリに新しいパワードスーツが格納された。
ピジョンブラッドは早速買ったばかりのパワードスーツを装着する。
そのパワードスーツは前のと比べると、背中と腰の両サイドに噴射口のようなパーツが取り付けられているのが特徴だった。
「この背中と腰にあるのはなにかしら?」
「それは移動用のスラスターだ。そいつを使えばMPを消費して素早く動いたり高くジャンプできたりする」
スティールフィストが答える。
「へえ、そうなんだ。じゃあ、早速ためしてみるわ。どう使えば良いのかしら?」
「スラスターは思考制御だから頭で考えるだけでいい。けどメチャクチャ難しい。いきなり自分の腕が増えてもそれを自在に動かせないのと同じだな」
「でも何事も挑戦よ。さ、早く店の外に行きましょ」
「あ、おい」
ピジョンブラッドは早足で店を出ていく。
店の前にはちょうどよい広さを持った公園があったので、そこでスラスターの試運転を始める。
「それじゃあさっそく」
その時、ピジョンブラッドはすこしだけ動くつもりだったが実際は違った。力加減を誤ってしまい、最大出力を発揮してしまったスラスターによって、彼女は弾かれるように吹っ飛び、公園にあった噴水に頭から突っ込んだ。
「だ、大丈夫か」
スティールフィストが心配そうに駆け寄ってくる。実際に怪我はしない世界だが、ピジョンブラッドの吹っ飛び具合は第三者が思わず案じてしまうほどの有様だった。
「うーん、言われたとおりすごい難しいね」
起き上がったピジョンブラッドは噴水から出る。ずぶ濡れだったが、水辺から離れるとすぐに乾くのはいかにもゲーム世界らしい。
「だから言ったろう。難しいって。俺としてはスラスターは無いものだと割りきったほうがいいと思う」
「でも難しいからこそ、俄然使いこなしてみたくなったわ」
自然に口から出た言葉に、ピジョンブラッドは自分のものならが驚いた。他人の助言に反してまで何かに挑戦しようというのは、赤木鳩美という人間にはありえないことだった。それが今では何かに挑戦するのが当たり前のようになっている。たかがゲーム世界の中とはいえ、自分は明らかに変わっている。ならば現実世界でも、少しくらいは変われる余地があるのではないか? ピジョンブラッドの中にいる鳩美はささやかな期待を持った。
「ひとまず、スラスターの練習は後にするとして、次は武器ね。クエストの報酬ってことは、まずはそのクエストを受けるために斡旋所に行けば良いのかしら?」
「いや、クエストは斡旋所だけで受けるものじゃない。ついてきてくれ」
言われてやってきたのは木造の建物で、中から気合いの声が聞こえてくる。
入り口には小尾流光剣術道場という看板が掲げられている。
「ここなの?」
「ああそうだ。入口の前に立てば、クエストが受けられるようになる」
言われたとおりにしてみると、入り口の扉にメッセージが表示された。
『クエスト:『挑戦者求む!』を開始しますか? はい/いいえ』
ピジョンブラッドが指で『はい』に触れると、扉が自動で開き、中に入れるようになった。
道場内では男女さまざまな人種が隔てなく稽古に励んでいた。
奥ではこの道場の師範らしき者が門下生たちの稽古を見守っている。彼は着物をきた機人族だった。
「新しい挑戦者か」
機械仕掛けの瞳がピジョンブラッドを見る。
「私の名は
ロボットに日本人の名前があるのは不思議な感じだが、この世界は肉体ではなく知性に人権が与えられているので、むしろ普通なのだ。
小尾は稽古をしていた門下生の一人を呼びつける。
「お前の相手は俺だ」
彼はかなり体格が大きい定命族で、威圧感のある人物だ。鳩美ならば怯えてすくみあがってしまうだろうが、ピジョンブラッドは不敵な笑みを返した。
門下生が差し出してきた木刀を取り、ピジョンブラッドは彼と向き合う。
「よろしくお願いします」
門下生が頭を下げる。威圧的であっても作法は心得ている様子だ。
「よろしくお願いします」
ピジョンブラッドも相手に礼をする。
「試合は先に一太刀浴びせた側を勝利とする。それでは両者、構え!」
門下生は木刀を頭上に振り上げた構えを取る。対してピジョンブラッドは木刀を右手で持ち、左手は相手を牽制するように前に出す構えをとった。
「はじめ!」
小尾の号令と同時に門下生が木刀を振り下ろそうとする。
その瞬間、ピジョンブラッドは左手で相手の木刀の柄頭を下から受け止め、攻撃を阻止した。同時に右手の木刀を脇腹に叩きつける。
「勝負あり!」
ピジョンブラッドは勝利した。
「ありがとうございました」
門下生は敗北の悔しさで顔をしかめながら礼をする。
「ありがとうございました」
ピジョンブラッドは試合前と同じように、敬意を持って礼をした。たかがゲームのNPCごときに礼を尽くす必要があるのかと考える者はいるだろうが、それでも彼女はしかるべき作法を守った。
礼節とはいついかなる時でも、誰が相手であろうとも守ってこそ、礼節たりうる。ピジョンブラッドは自分に礼節の何たるかを教えてくれた人の言葉を思い出していた。
「見事だ。お主の腕をたたえて、これを渡そう」
小尾がこのクエストの報酬である、マジックセーバーを渡してきた。それを見つめると武器の説明文が表示される
『アプレンティス・セーバー:小尾が門下生向けに自作したマジックセーバー』
品質は通常等級。今使っているのよりもワンランク上なだけあって性能も高い。
「すごいな」
クエストの様子を見ていたスティールフィストが感嘆の声を漏らす。
「何か習っていたのか? 今の技、普通の剣道とは違うよな」
「うん。子供の時からおじいちゃんに教えてもらっていたの」
「じゃあわざわざ動作補助系技能はとらなくても良いな」
「それは普通の技能とは違うの?」
「例えば『剣術』の技能を取得すると、システムが体の構えや動きを補正してくれて、素人でもそれらしく戦えるようになるんだ」
「それは困るわね。慣れたのとは違う構えや動きにされたくないわ」
幼い頃からずっと稽古をしてきたのだ。その動きは体に染み付いている。動きの型を勝手に他の流派のものに変えられてしまうのはとても困る。変な癖がついてしまうことだってありそうだ。
「そう。だから武道経験者のプレイヤーは動作補正系技能を取っていないんだ」
「私もそうするわ」
「そのほうが良い。さてと、装備は整ったし、次はレベル上げでするか? いい場所を知っているぞ」
スティールフィストの提案は実に魅力的だが、ゲームを始めてからだいぶ時間が立っている。それに初めてサイバースペースに入ったためか、疲労感も出てきていた。
「さすがにこれ以上は遠慮しておくわ。そろそろログアウトして夕飯の買い物に行かないといけないし」
「そうか。なら最後にフレンド登録だけでもしておくか」
「それをするとどうなるの?」
フレンド、つまりは友達を登録する。オンラインゲームの世界では友人関係というのはわざわざ登録処理が必要なのだろうかと、この手の事情に疎いピジョンブラッドは思った。
「電話番号やメールアドレスの交換みたいなものだ。フレンド登録自体、オンラインゲームなら必ずあるのだが……もしかしてこの手のゲーム自体が初めてなのか?」
「ええ。初めてよ。サイバースペース自体もね」
「そうか。まあ、わからないことがあったら連絡してくれ。今日みたいに分かる範囲で教えるよ」
「ありがとう。それじゃあね」
最後にピジョンブラッドは彼に手を降ってゲームからログアウトした。
サイバースペースから現実世界へと戻った時は、夢からはっと覚めたような感覚だった。
鳩美は頭につけていた機器を外して身を起こす。
窓の外はオレンジ色に染まっている。日没は近いだろう。
できれば夜道は歩きたくない。鳩美は急いで近くのスーパーへ夕食の買い出しへとでかけた。
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