第29話 流砂に抱かれて

 那須平に手渡されたロングボードに身を預けていた二郎は、魂の抜けた表情でゆっくりと高度を下げる楽園島を眺めていた。

 半端に浮遊力を残したそれは、砂の海に沈まずに、ただの巨大な浮島へと変わるだろう。

 ゴンドラでしか昇れなかった島が手の届く位置に変わる。砂の世界はどう変化するだろうか。


「あのバカめ」


 突き上げてくる寂しさが口をついて出たような言葉。

 イヅナが二郎の背中を優しく抱きしめる。


「任せろっていうのはこういうことだったのか……」


 二郎が後悔を滲ませて言った。流砂が悲し気に鳴いた。


「最後までよくわからない人だったわ。怒ったり、笑ったりの連続だった。でも……たぶん最初から死に場所をここに決めてたんだと思う」


 イヅナはそう言うと、那須平に押し付けられた手のひらサイズの記憶装置を取り出した。今では古くなったスライド式の電源スイッチを動かすと、小さなノイズ音とともに、旧世代の疑似人格が産声をあげた。


『那須平巴です。ご命令をどうぞ』


 無機質でなんの抑揚もない声だ。まったくの別人だ。

 イヅナは瞼をふせた。


『……ご命令をどうぞ』


 そっと電源を切った。

 那須平との短くも濃い時間。まざまざと顔が思い出され、胸が締め付けられた。

 口をつぐむ二郎は何を思っているだろうか。

 未久は。朱里は。

 こんなものを持って帰って、那須平はこれです、と言えるはずがない。

 イヅナは顔をあげて楽園島を眺めた。半分ほどの大きさになった深紅の石が、苦しむように細かい破片をまき散らしている。

 幻想的な滝のようだ。


「なっさんはな……」


 二郎が放心した表情で口を開いた。


「あいつはずっとあの赤い石を見ていた。朝から晩まで、暇があればずっとだ。俺も薄々考えたことはあった。なっさんは銃でも手に入れて、壊すんじゃないかってな。だが、あの大きさでは到底無理だと、考えるのをやめたんだ」


 イヅナがそっと二郎の胸に手を回した。


「でも、あいつは違う。北の島と一人で交渉して、俺たちにずっと隠し続けて……どうあっても成し遂げると決めていたんだろうな。俺に協力してくれ、なんて言いながら、最後は自分一人でケリをつけるつもりだったんだろう」


 二郎の声が震えた。


「どんな気持ちだったんだろうな。毎日、島の追手を気にして、自分の体の限界を気にして、気が休まる瞬間はあったんだろうか」

「……あなたは話を聞いたじゃない。それで十分だと思う」

「だといいがな……」


 苦笑した二郎は、緩慢な動きで首を回した。イヅナも遅れて続く。

 古びた黄色いボートがゆっくりと近づいてきていた。

 乗っているのはよく知った顔だ。


「朱里、未久……」


 二郎は「成長しすぎだ」と目じりを下げた。

 ボートの先頭では、手でひさしを作ってワンピースをなびかせる少女が片足をかけていた。細い足でぐっと踏ん張っている。

 まるで小さな那須平を見ているようだ。


 彼女たちは北の島に協力を求めにいく仕事をこなした。それが一回りも二回りも成長させたのだろう。

 後方では未久がエンジンの操作をしている。最後尾に腰かけ、ゆったりと構える態度。あれは誰の真似だろうか。


「じっさーん、イヅナさーん!」


 朱里の透明な声が飛んできた。二郎が視線を島に向けたまま片手をあげ、イヅナが力なく手を振った。


「なっさんは!?」


 エンジンを止めると同時に、未久が飛び出す勢いで身を乗り出した。ボートがゆらゆらと揺らめき、態勢を崩した朱里が後ろに尻もちをついた。

 イヅナが唇を噛んだ。長い時間、逡巡して、受け継いだものを渡す。

 未久の顔に疑問が浮かんだ。


「これは?」


 そして、二郎が何も言わないのを見て、みるみる顔をゆがませた。

 こらえがたい悲しみに耐えきれなくなったのだろう。瞳に涙があふれた。


「……嘘でしょ、じっさん」


 二郎は口を引き結んで開かない。

 未久の甲高い声が響いた。

 胸が引き裂けそうだった。


「じっさん、何とか言って!」

「あいつの意志を尊重してやれ」

「いやっ! 私はいやっ!」


 イヅナは居たたまれずに視線をそらした。

 朱里も口元に手を当てて嗚咽を漏らした。


「違うって言ってよ、じっさん! お願いだから……なっさんは……どこよ……」


 二郎はことさらに大きなため息を吐いた。

 小さく歯ぎしりをする音が鳴り、


「未久……あいつは死んだ。よくやった」


 言いながら目を丸くし――


「そう……俺もそう思ってたんだよ……」

 と、ぽつんと言った。


 砂上を何かが駆けていた。場にいる者たちに応えるように、ぐんぐんと近づいた。


「あの野郎……そうならそうと早く言いやがれ!」


 二郎が大声で毒を吐いた。

 だがそれは、例えようのない強い歓喜に満ち溢れていた。

 うねる感情が全員に広がった。これこそ狂喜だ。

 誰もが歓声をあげた。

 四番と刻まれたロングボードが砂煙を巻き上げて到着した。


「待たせた」


 那須平巴が、ぐったりしながら片手を上げた。

 未久が顔をくしゃくしゃにして飛びついた。


 ***


「死んだと思ったぞ」


 二郎が目を細めてそう言った。

 那須平が「俺も覚悟はしてた」と笑う。


「でも、よく考えたら、未久にまだ薬を渡せてなかったんだ。渡す前に出発したからな。このまま死ぬわけにいかない、って思ってたら、ちょうどロングボードを見つけてな……」

「なっさん!」


 感極まった様子の未久が、ボートに引き上げた那須平を押し倒して覆いかぶさった。


「良かった、良かった!」


 泣きじゃくって胸に顔をこすりつける未久を、那須平が片手でゆっくりと撫でた。


「ただいま」

「……お帰りなさい」

「心配させて悪かった」

「ううん。生きてたらそれでいい」

「ああ」


 那須平と、未久、そして朱里が顔を見合わせて微笑んだ。

 幸せな時間だった。


 ***


「あの……」


 イヅナが沈黙を破ってか細い声をあげた。


「なんだ?」

「あの三人の輪に入らなくていいの? あなたも立役者でしょ? 囮をこなすって大変なことだし……」


 イヅナがしどろもどろで隣に座る二郎を見上げた。

 だが、すぐに視線が落ちた。


「すべてを計画し、成し遂げたのはなっさんだ。俺はほんの少し力を貸しただけだ」

「でも……」

「あいつがいなければ、俺もここまで動けなかった。北の島も絵空事だと笑って相手にしなかったに違いない。だが、なっさんの必死さはすべてを突き動かした。まあ……俺にはそれ以外の目的もあったがな……」


 二郎が痛々しい顔で、つぶやく。


「少しで良かった。娘の情報が……欲しかった……」


 そう言って、はっとした様子で頭を下げた。


「イヅナには……話してないことだったな。すまない。忘れてくれ」


 何もかも諦めた表情だ。

 イヅナは息を呑んだ。どこかで見た。

 この顔は――

 イヅナの記憶に、同じ横顔が蘇った。

 それは、死んだ母をベッド脇で見つめていた父だ。何かできないかと奔走し、それが無力だと知らされた瞬間の顔だ。

 不憫さと愛おしさで、一気に胸がいっぱいになった。

 視線を落として、口端を緩めた。

 ただ嬉しくて。


「すまない……って口癖みたいね」

「そうか? すまない。っとこれが悪いのか……」


 苦笑いしつつ頭をかく二郎を、イヅナが深呼吸して、照れくさそうに見上げた。

 片手で白衣の裾をそっと握り、耳打ちするように言った。 


「…………いつになったら白衣を洗濯するの? 嫌われるよって言ったでしょ?」


 イヅナが顔を染め上げ、思い出すように諳んじた。

 二郎の双眸が驚愕に見開かれた。首を回し、唇を震わせながら見つめた。

 揺れ動く瞳。

 イヅナは「うん」と頷いてみせた。とびっきりの笑顔だった。


「そうだったのか……こんなところに……」


 男の瞳から、涙が滂沱のごとく流れ落ちた。

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