第15話 岩峰二郎 3

「もう十五年になるってのに。またこの夢か」


 二郎はうんざりした口調でつぶやいた。自分の体にフィットするようになった助手席のくたびれたシートから重い体を起こした。

 冷や汗がぐっしょりと背中を濡らしていた。


「やってられんな」


 二郎は運転席に置いてあったラジオの電源を入れた。これは砂の海に落とされてから探し回ってようやく市で手に入れたものだ。高価なもので、貴重な品を吐き出したせいで、しばらく食糧をろくに手に入れられずに死にかけたことを覚えている。


 楽園で作られたラジオは楽園島の番組を拾う。このゴミ島は遠すぎてノイズが頻繁に入るが、問題はない。

 娘が番組に出たことを一度でも確認できれば役目は果たせる。

 岩峰菜々美。

 アイドルならば名字はごまかして、菜々美とだけ名乗るだろうか。どちらにせよ、菜々美は自分に分かる名を名乗るはずだ。

 そう考えて二郎はぼんやりと窓の外の夜空を見上げた。もう十五年繰り返してきた習慣だった。


 電源がない砂の世界では電池の確保に苦労した。

 那須平と二人だった時は目を皿にして市を回っていた。電気製品がほとんどない世界での電池の価値は知れている。闇取引で楽園島の住人からせしめるにしても、欲しがる人間は変わり者の類だろう。

 今でこそ未久が手に入れてくれるが、当時は無駄な期待を断ち切るために、電池が切れる度にラジオを砂の海に投げようと思ったことは一度や二度ではなかった。


「……そろそろ危ないだろうな」


 二郎は未久を思い浮かべて、視線を手元に落とした。

 彼女がどんなやり方で電池を手に入れているかは知っていた。知っていて利用してきたのだ。娘の安否がわかるまでだから、と散々言い訳をしてきた。


「自分の仕事だから」と言い切る未久に甘えてきた二郎は、楽園島の審査官となんら変わらないと思っている。

 だが、欲しい物を聞きに回る未久の顔が日に日に沈んでいくのを見て、二郎はどこかで自分も那須平と同じように断らなければ、と思っていた。

 彼女は朱里には交渉で手に入れたと胸を張って、自分は吐しゃ物を頭からかぶる様な気持ちで希望の物を手に入れるのだ。


「俺には真似できんな」


 自分のことで精いっぱいだった二郎には、未久がとてもまぶしく映っていた。

 自分より他者を優先する。自分もその性格だったら、菜々美のことをもっと真剣に考えていただろうかと後悔が深くなるのだ。

 菜々美が生きていたら、未久と同じくらいの年齢であることも気になる理由の一つだった。

 二郎はラジオの電源を切った。とあるアイドルが結婚のために引退すると発表したところだった。


 深夜の楽曲ランキングはとっくに終了していた。番組表は知る由もないが、毎日聞いていればどの時間にアイドルが出演するかはすぐに把握できる。番組の改編にしても、数カ月で変わるものでもないだろう。

 ラジオが雨で濡れないようビニールで巻き、車内で最も濡れない運転席にセットする。


「……ん?」


 二郎は耳をそばだてた。乱暴に砂を踏む音が、一直線に近づいてきていた。


「まあ、大方予想はつくが……やはりなっさんか」


 薄明りの中、足場の確認をろくに行わずに近づける人間は那須平だけだ。二郎は助手席のドアを開けて、立ち上がった。


「こんな夜更けにどうした?」

「悪いな。起きててくれて助かった」

「偶然にな。で、どうした? さすがにこの時間は珍しいな。……なんだそれは?」


 二郎は那須平が片手に持っていた小さな銀袋に目をやった。と同時に、その顔に隠しきれない憤怒が宿っていることに息を呑んだ。

 こいつは本気で怒っている。

 二郎の顔に緊張感がにじんだ。


「こいつが……こいつが……肺の洗浄剤なんだとよ」


 那須平が今にも泣きだしそうな声を絞り出した。瞬く間に顔が泣き笑いのような表情に変化し、どろどろとした感情が流れ出た。


「なっさん……」

「今日聞いたんだ。未久がクズに頭下げて、媚び売って、自分の命を繋ぐものだって渡されてたのが……この薬なんだってよ。まったく……冗談きついぜ」


 二郎が差し出された銀色の袋を受け取った。

 表裏を確認し何も記載がないことを確認する。「こいつは……」と口元をゆがめた。顔からこれ以上ないほど血が引いたような感覚だった。


「粉薬……非認可薬か。まだあったのか」


 那須平は二郎の手から乱暴に薬を取り上げた。用は終えたと言わんばかりだ。

 そして――


「くそったれが!」


 大声で叫んで流砂に投げ込んだ。


「なっさん……」

「もっと早く踏み込むべきだった。未久がこんなゴミに頼っていたなんて知っていれば……これがあの島のやり方だ。俺らが必死こいて生きてるのを、やつらは何とも思っちゃいねえ。何が共存計画だ。何が人類の守り人だ!」


 那須平の怒りは次から次へと溢れ返った。

 漏れ出た罵声が、闇の中に次々と消えた。


 非認可薬は、楽園島が浮かび上がってから、島で無秩序に製造されたものだ。

 薬を欲しがる島の住人の為に間に合わせで製造されたものだが、原材料や製造方法に監視の目が行き届かなかったために、効果が保証されていないものが大多数を占める。中には、効き目がないどころか、副作用だけ起こるような毒物すら混ざっている。

 だがこれは、楽園島に住んだことがある者だけが知る事実。

 楽園議会は、そのために必死でこの事実を隠ぺいし、闇に葬り、今では正と副の工場二か所での生産に統一している。

 そして製造された際に、薬の成分ごとにアルファベット四桁と数字十桁の組み合わせが印字されるようになったのだ。もちろん、薬名も印字される。

 だからこそ、この何も印字されていない薬は、まったく別の薬であるか、最悪の場合は毒であるかもしれないのだ。


「未久はこいつを……すがる思いで口にしてたんだとよ」

「なっさん……これはまだ確定情報じゃないんだが……」


 二郎が重々しく口を開いた。


「最近、北と南の市で妙なものが出てる」

「妙なものだと?」


 二郎が険しい表情でうなずいた。


「手のひらサイズの銀色の袋に包まれた食糧だ。こいつも一緒なんだ。加熱調理も必要ないらしい……楽園が積極的にばらまいてるらしい。もちろん北のリーダーは知らんと言っている」

「うますぎる話しだな」

「腹持ちが良くて手軽ってことで結構評判になってるんだが、問題は食後だ」


 二郎の細めた目を見て、那須平の顔がさっと青ざめた。


「まず材料がよくわからない。それに弱い幻覚が見えたってやつらが出てる。気のせいだって笑うやつも多いが、未久の薬の話もある。どう思う?」

「どうもこうもないだろ。体のいい人体実験を始めやがったってことだ。どうせ廃材を手に入れる交渉やらなんやらが面倒になってきたとかじゃねえのか。くそったれ島が考えそうなことだ」


 那須平が凶暴に顔をゆがめ、吐き捨てるようにいった。二郎がしばしの沈黙の後、声を潜めていった。


「なっさん……こっちの準備はできている。いつでも行けるぞ。リーダーとも話はついた」


 那須平が目を見開いた。


「……あれだけ渋ってたじっさんがどうしたんだ?」

「いや、俺も歳のせいか色々と考えが変わってきてな。未久の薬の件もあるし、携帯食料の件もある。もちろん時間がないってことも理由の一つだ。それと――」


 二郎はそう言って、車に乗せたビニール巻きのラジオを見ながら続けた。


「誰かに痛みを押し付けないと維持できない思い出には、いい加減にけりをつけるべきだ、と思ったんだ」

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