第13話 岩峰二郎 1
「お父さん、いい加減あきらめたら?」
分厚い参考書とにらめっこをしていた二郎は、菜々美の尖った声に首を回した。掃除機を片手に扉を開け放った十歳の一人娘は、柳眉をひそめて「早くどいて」と告げた。
「すまない。別の場所でやるよ」
二郎はのそりと立ち上がると、すごすごと菜々美の隣を通り過ぎようとした。
だが、菜々美の左手がその前に突き出される。
「いつまで続けるの?」
「医者になるまで」
何度も聞かれた質問に、変わらない言葉を返した。
菜々美の声が暗く沈む。
「大丈夫なの?」
「まだ大丈夫だ。貯金はだいぶ残っている」
菜々美の眉がぐっと吊り上がった。甲高い声が放たれた。
「そうじゃないって! お金の心配なんかしてないじゃん。会社辞めて、一日中、白衣なんか着て、ずっと机にかじりついてるお父さんの心配をしてるの!」
「すまない」
「だから違うって! すまないとかじゃなくって、ああっ、もう! ……お父さん、たまには気晴らしにどっか行こうよ。私ね……歌上手なんだよ。この前友達とカラオケ行ったら一番上手だって言われたの」
「そうか」
二郎のうろんな表情が、小さく微笑みに変わった。
菜々美の顔色が目に見えて明るく変化した。
しかし、
「お母さんに似たんだな。麻衣も上手だった」
二郎の懐かしむ様子に、菜々美が愕然と顔をゆがめた。掃除機ががたんと大きな音を立てて、フローリングの床に落ちた。
「お母さんはもう死んだじゃん!」
金切り声が廊下に木霊した。
「いや、お父さんの心の中には生きている」
「いっつもそればっかり! 二年も経ってるんだよ!? いいかげんにして!」
泣き笑いの表情を浮かべる菜々美に、二郎は小さく頭を下げた。
「すまない。だがお父さんにはこれしかできない」
「もう聞きたくない! お母さんもお父さんも必死にがんばった結果でしょ! お母さん、最期に『ありがとう』って笑ってたの忘れたの!? 私は覚えてる! 忘れるはずがない!」
白衣を両手でつかんだ菜々美に、二郎はゆっくりと首を振って見せた。
後悔の言葉がぽつぽつと吐き出される。
「あんな状態になるまでお母さんを苦しめたのはお父さんだ。医者の言われるままに、難病だからと病院を転々とさせてしまった。お父さんがあの時にもっと勉強していたら、麻衣は苦しまずに済んだ。もしかしたら新しい治療法に巡り合えていたかもしれない」
「だからって、お父さんが今勉強したって遅いじゃん!」
「そうだ。もう遅すぎる。だからこれは……お父さんのわがままだ。すまない」
視線を落とした二郎が乾いた笑いを漏らした。菜々美は唇をぎゅっとかみしめ、そして言った。
「なら、私の見えないところでやって。いつまでもうじうじして、いらいらする。それと……いい加減、その白衣は洗濯して。ずっと着っぱなしでしょ。嫌われるよ」
「ああ」
生返事をした二郎は、階段をゆっくりと降りた。
何不自由のない生活だった。幼少期は親の庇護の下、すくすくと成長し、挫折らしい挫折を経験せずに大学を卒業後、大手企業に就職した。
社内恋愛で気立ての良い麻衣に出会い、結婚し、子供にも恵まれた。
だが、麻衣は突然の病でこの世を去った。
国の難病指定がなされていない病気だった。研究が未発達だったこともあり、原因を掴むだけで何度も転院を繰り返すこととなった。
やせ細った麻衣を、二郎は体を切り刻まれる思いで看病していた。
いずれの治療もほとんど効果が認められず、実験体のように大量の薬が投与された。
そして、かけがえのない妻を失った。
「お母さん、もう起きないんだよね……」
身内の死をまだ理解しきれない菜々美の言葉で、二郎は逆に妻の死を受け入れた。しかし、認めたくないという事実は変わらない。
後悔の念が、病巣のように体中を蝕んでいた。
そんな時だ。あの日が来る。
「お父さんっ、ちょっと窓あけてっ」
菜々美が閉め切っていた部屋の扉を蹴破る勢いで入ってきた。顔は青ざめていた。いつもの非難めいた様子はなく、焦燥感がにじみ出ていた。
即座に、何かあったのだと感じた二郎は、参考書にペンを挟んで素早くカーテンを開けた。何日ぶりかの自然光が、鬱屈した気持ちを晴らしてくれるようだった。
「何もないぞ」
「違うって、道路、道路、砂が溢れてる」
「砂が?」
トラックでもひっくり返ったのだろうと視線を落とすと同時に、二郎は双眸を見開いた。あちらこちらのマンホールから驚くほどの勢いで白い砂が噴射されている。温泉街で見るような白い煙まで舞っている。
野次馬が興味深そうにスマートフォンを向けている様子も見えた。
「どうしよう……」
背後で不安そうな菜々美の声が聞こえた。
二郎は沈黙で返し、冷静に考え始めた。
噴き出しているのは水ではなく砂だ。マンホールの中は基本的には水路だ。砂が混じるなど、排水口から逆流する以外では考えらえない。だが、止水弁も至る所に備わっている。そう簡単に逆流することは考えにくい。
「いや、上下水道ではないのか……」
マンホールはガス関係や水道の私設管に繋がっている場合もある。
二郎は再び、眼下に広がる光景を眺めた。噴水状の砂は一向に勢いを止める気配はない。
一時で収まりそうにはなかった。
そもそもこの辺りは海抜百メートルを超えるエリアだ。海の底からの逆流も考えにくい。もし海が原因ならば、とうに海岸線のエリアは砂に浸食されてニュースになっているはず。
二郎は愕然とした表情で、床板を眺めた。
「……地底……か? 何が起こっている」
答えのない問いを虚空に投げかけ、二郎は振り返って菜々美に告げた。
「逃げるぞ」
「……逃げるってどこへ?」
「とにかく山の上だ。避難グッズがあっただろ」
「あるけど、避難場所は小学校のグラウンドって教わったよ」
菜々美は不安顔で言う。
「いや、たぶんそこだとまずい。山に逃げた方がいい」
二郎は菜々美の答えを聞かずに歩き出した。数日分の食糧と生活必需品を詰めた防災リュックを白衣の上から背負うと、菜々美の手を引いて歩きだした。
素早く自動車に乗り込みエンジンをかける。
「お、お父さん」
「お父さんの考えすぎだったら全部謝る。だから、今は言うことを聞いてくれ」
「……うん」
二郎は自分の直感を半ば確信していた。
これは大惨事になる。
そして、それはすぐに現実となった。
「まさか、ここまでの事態になるとは」
近くの山の五合目まで車で登った二郎は、ただひたすら登山道を登って山小屋に到着した。同じ考えで登ってきた人間が多かったのか、明らかに登山装備をしていない者も多かった。
眼下ではとてつもない光景が広がっていた。
至るところが真っ白な砂に覆われている。
流砂が生物のように蠢き、轟音を響かせながら森の木をへし折って呑み込んでいく。
自分たちが生活していたエリアだけではない。目線が通る場所すべてが同じ色に塗りつぶされようとしていた。
「学校のみんなは……」
毛布に体をくるんだ菜々美の絶望的な言葉に、二郎は口をぐっと引き結んだ。
言葉が浮かばなかった。
あの物量に押しつぶされた以上、砂の下は地獄になっているはずだ。時折砂の上に浮かぶボートや小型船、そして家の屋根に乗った人間以外は、全員が呑み込まれたに違いない。
絶対に口にはしないが、死体があがってきても不思議ではないのだ。
「お父さん……」
「菜々美……大丈夫だ。お父さんがいる」
「うん」
顔面蒼白の菜々美を、二郎は冷たい体で力いっぱい抱きしめた。
それから三週間ほどが経過した。
新たな漂流者も現れ、山小屋の周辺は人が増えていた。
二人は不安に苛まれながらも周囲の人間と力を合わせて細々と日々の生活を送っていた。
ちょうどそんな時だ。
二郎は慌てて顔をばっと上げた。菜々美も同じだ。耳を澄ますように、緊張した表情で辺りを見回した。
耳に、まるで大地が唸っているような不気味な音が届いた。遠くからだんだんと近づいてくる音は、徐々に鼓膜をつんざくほどの大音量に変化していく。
続いて、腹の底に響く地響き、そして到底抗えない経験したことのない大地の揺れが、その場の全員を等しく襲った。
「お父さんっ!」
「落ち着け、落ち着け!」
その言葉は娘にかけたものだったのか、自分にかけたものだったのか。
何が起こっているのか想像すらできない自然現象に、二郎はただ翻弄された。
小一時間ほどの地震は人々の恐怖を絶頂に引き上げ、誰もが身震いしながらこの世の終わりだと思っていた。
だが、それは――
島が浮かび上がった瞬間。この世界唯一のユートピアの盛大な産声であった。
二郎と菜々美は運よく選ばれた人間の一人だった。
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