第12話 平未久 3

 無為な時間に決まって思い出すのは、那須平と二郎との出会いだ。

 二人だけだというゴミ島に連れてこられた時は心底驚いた。男が二人、こんな辺境の島で仲良し共同生活もないだろう、と。

 未久は自然と口元に笑みを浮かべていた。


「何かおかしいのか?」


 訝し気な男の声が聞こえて、未久は慌てて「いえ」とだけ答えた。

 苦痛で仕方ない時間がようやく終わった。

 男はやおら立ち上がり、防護服に付着した砂埃をわずらわしそうに叩いて落とす。未久はもうもうと舞う白い煙の中、固い口調で尋ねた。


「あの……楽園島には?」


 沈黙が返った。

 男は無言でファスナーを上げ、複雑な構造の服のテープを止める。

 防護服は外で脱いだ時点で意味がなくなるのでは。

 未久はそう思いつつもおくびにも出さず、繰り返した。


「楽園島には……いつ連れていってもらえるんですか?」

「希望者は多い」


 男は言葉を遮るようにぴしゃりと言い放った。未久がそっと目を伏せた。


「色々と審査がある。だが、代わりに頼まれていた物資は渡そう」

「ありがとうございます……」

「電池にドライシャンプーに燃料。ボートにすべて積んできてある」

「はい……」

「それと――」


 男は防護服のポケットから五センチ四方の銀色の袋を数個取り出した。とても薄く、表面には何も描かれていない袋を手にとり、未久の目の前でちらつかせるように振る。

 意地悪い声が投げつけられた。


「洗浄剤も持ってきてやった」

「ありがとうございます」


 未久はぐっと歯を食いしばり、深々と頭を下げた。背中にじわりと嫌な汗が流れた。


 男が言う洗浄剤とは肺の洗浄を行う薬だ。白塵に侵される呼吸器病――白カビ病――の進行を和らげる効果のあるそれは、楽園島でも非常に高価な品だと聞かされている。

 楽園島は巨大な半透明のドームに覆われており、白塵の流入をほぼ防ぐことが可能なのだが、中には過敏に反応して発症する者もいる。

 洗浄剤はそれゆえに研究された代物だった。


「これでしばらくはもつだろう」

「はい。何から何まですみません」


 男は偉そうに頷くと、用事は終わったとばかりに小屋を出た。未久が慌ててその後ろを続く。

 ほどなくしてクラフトボートに到着し、物資は岸に投げ捨てるように放たれた。

 燃料缶と電池が音を立てて地面にめり込んだ。

 そして、最後に投げられたドライシャンプーを未久が大事そうに拾い上げたときだ。


「ごほっ」


 未久は盛大にせき込んだ。

 この咳はまずい――と直感したものの、一端火がついた咳は止まらなかった。胸の奥から気道を通って次々と何かがこみあげてくる。

 慌てて手で押さえたが、流れは止まらない。

 指の間から吐血が噴き出し、あとからあとから、から咳が拍車をかけた。みるみる手の平が真っ赤に染まり、白砂の上にぶちまけるように赤い飛沫が広がった。


「違うんです!」


 そう叫んだものの、言葉にはならなかった。すべては血の混ざった咳によってかき消された。

 咳の最中に顔を上げられなかった。自分を見ているであろう男の視線が怖かった。

 ようやく収まったころ、未久は口元を染め上げたまま祈るような心境でボートを見上げた。

 まるで、虫を見るような冷たい視線があった。


「だいぶひどいようだな。それでは洗浄剤など役に立たんだろ」


 冷徹な言葉に未久の心は音を立てて切り刻まれた。

 もうすぐ死ぬぞ。

 言葉の意味をすぐに理解した。


「お前との関係は今日で終わりだ」

「ま、待ってっ!」


 男は顔を砂の海に向けて、ボートを発進させた。悲鳴はエンジン音に虚しく打ち消された。


「待って、待って、待って! お願い!」


 少しでいいから、みんなのためになりたいの。

 愕然と膝をついたまま、未久は何度も何度も小さな願いを白い砂に吐き出した。


 ***


「未久が帰ってこない?」

「そうなんです。私、あの小屋には近づくなって言われているので……お願いできませんか?」


 夕暮れ時、定位置で楽園島を眺めていた那須平は、朱里の言葉に怪訝そうに眉を寄せた。

 両手を胸の前で組んだ朱里が瞳を伏せる。


「いつもだと、私やじっさんに交渉で手に入れた物を持ってきてくれるんですけど……今日は……。それにまったく顔も見ていないので心配で」

「……交渉……ね」


 那須平は腕組みをして考えこむ。

 しばしの沈黙を経て「わかった」と、動き出した。



 未久は自分の小屋から少し離れた場所で、ぼんやりと沈む寸前の太陽を見ていた。

 那須平は「いるじゃねえの」と口にしながら、その背中に手をかけた。


「おい。具合でも悪いのか――」


 あの男は帰ったのか。

 そう聞こうとして、那須平は息を呑んだ。

 未久の顔色が真っ白だった。足下の白々とした砂の上には吐血のあとがこれでもかと残っている。


「おいっ、未久! しっかりしろ!」

「あっ、なっさん……どうかした? 朱里のドライシャンプー手に入ったんだ。喜んでくれるかな」

「そうじゃねえ。何があった?」


 鬼気迫る表情の那須平に、未久の顔色がさっと変わる。視線がさまよった。そして、ふと気づいたように足下の血のあとを見て、息を呑んだ。


「なっさん……ち、違うの……こ、これはね……その……は、鼻血、そう鼻血なの。暑かったでしょ? だから」


 未久は体をががたがたと震わせる。両腕で自分の胸を抱き、まばたきをせずに顔を下げた。


「あの男は……勘違いして……そうなの。えっと、私が病気みたいだからもう用はないって……勘違いなの……本当だって。説明したんだけど……だから――」

「わかった。わかったから落ち着け」


 那須平はしゃがみこむと、未久の頭をそっと自分の胸に寄せた。


「あの……なっさん……私ね……」

「もういいから。もうしゃべらなくていい。全部知ってる。未久はずっとがんばった」

「……なっさん、ごめんね……私……もうダメだって……役に立てない……」


 那須平は未久の口を抑え込むように胸に押し付けた。

 夜の帳が降り始めた世界。

 すすり泣く声が、物悲し気に響いた。


 ***


 那須平が、足下がおぼつかない未久の手を、有無を言わせずに引く。


「いいから、こっち来い」


 立ち止まろうとする度に、那須平は強い口調で未久をせかした。


「いいか、ここで待ってろ。すぐ戻る。絶対だぞ」

「うん……」


 未久が頷くのを確認して、那須平は駆け出した。いつも陣取っている場所への方向だ。

 ほどなくして、息を切らせて帰ってきた。

 ビニールの大きな包みを片手に持っていた。


「なに?」

「いいから。今から未久は質問無しだ」

「……うん」

「ボートに乗るぞ」


 未久は「夜に?」と聞きかけ、口を閉ざした。前にもこんなことがあった。

 今度は約束を守らなければ。


「燃料は……大丈夫だな。未久のおかげだ」


 那須平はエンジンスターターを引いた。本気で危険な夜の流砂の上に出るらしい。目をこらしても見えない世界ではボートなど自殺行為だ。


「質問禁止だからな」


 だが、唇に指を当てて再度念押しをされた。未久の考えはお見通しのようだ。


「いくぞ」


 那須平は、とっぷりと日が暮れた中、手探りでボートを走らせた。

 どこかで砂クジラの鳴き声が響いたが、不思議と怖さは感じなかった。


「寒いだろ。これ巻いとけ」

「これを取りにいったの?」


 那須平はビニールの包みの中から、大きめの毛布を取り出した。よく見えないが、花柄が描かれているように見えた。

 未久の質問に答えは返ってこなかった。


「よーし、着いた着いた。ほら、上がれ、上がれ!」

「え、ここって他の人の島じゃないの?」


 那須平はゆっくりと首を振った。微笑が浮かんでいる。


「うちの島の近くに新しく生まれた島だ。そのうち人が住むかもしれねえが、今はまだ無人島だ」

「そうなんだ……」


 神妙な表情で頷いた未久に、那須平が細い枝を差し出した。真っ直ぐすぎて自然のものではないことはすぐに分かった。


「ちょっと、待てよ。おっ、これだ」

「なっさん?」

「待てって。風が強くてだな……おっ、ついたついた」


 突如、光が生まれた。優しく、温かい光だ。

 特徴的な黒色火薬の匂いを漂わせたそれは、線香花火だった。

 ぱちぱちと静かな音色を漂わせる光に、未久が「きれい」と頬を緩めた。消えかけていた子供時代の記憶が色づいたようだった。


「まだあるぞ」


 那須平はもう一本の線香花火にも火をつけた。手にしていたのはライターだった。未久は驚いて聞いた。


「そんなの持ってたんだ」

「最終手段にな。火種がダメになった時には使うつもりだった」

「花火なんて高そうなものをごめんね……私のために……」


 しょげた未久の頭のうえに、那須平の拳がかつんと当てられた。呆気にとられたのも束の間――


「いい加減、ごめんはやめろ。未久は謝る回数が多すぎる。お前は何も悪いことはしちゃいねえ」

「うん……でも私、役に立たないから。朱里の方がすごいくらい。これからは物資も貰えなくなるし。私の価値ってあるのかな」


 本音を吐露した未久の頭に、再び拳が降りた。

 那須平の瞳に本気の怒りが宿っていた。線香花火の光を吸い込むように、らんらんと輝いている。


「役に立つから未久は俺らについて来たのか。違うだろ。俺らは打算で声をかけたわけじゃねえ。未久が死にかけてたから発破をかけたんだ。それに、毎日お前の仕事を見てきた朱里にとっちゃ、いいお姉さんみたいなもんだ。忘れるな」

「うん」

「俺らは互いに家族みたいなもんだ」

「か……ぞく……」


 絞り出すような未久の言葉に、那須平ははっきりと頷いた。


「正直、最初はそんなつもりなかったけどな。けど今は違う。長い付き合いだ。朱里もじっさんも……そんで俺も……未久が必要だ」

「うん……ありがと。すごく嬉しい。みんながそう思ってくれてるんだって思っただけで……泣きそう。でもね……私、実は――」

「知ってる」


 那須平が苦笑した。


「え?」

「お前の病気のことだろ? まあ知ってるのは俺だけだろうがな」

「なっさん……気づいてたんだ」


 那須平が大げさに肩をすくめた。「隠すの下手なんだよ」とぶっきらぼうに告げると、再び線香花火に火をつけた。


「とっくに気づいてた。けど未久が言い出すまでは黙ってるつもりだった。お前だってもう大人だからな。言いたくないなら聞かねえよ。それと――」


 赤々と輝く黒い瞳が、未久を射抜いた。


「俺が何とかする。安心しろ」


 未久は小さく息を呑んだ。

 那須平が自分を助けると言った。

 嘘でもよかった。この場限りの救いでもよかった。

 誰かにそう言って欲しかったのだと、未久はようやく気付いた。

 心の決壊が怒涛のように音を立ててひび割れた。

 積もり積もった辛さと恨みが、ない交ぜになって一筋の雫と変わった。

 那須平は口を引き結んだまま、未久の顔ずっと見つめる。

 もう我慢ができなかった。

 自分は長い間、ずっと我慢していたのだと気付いた。溢れ返るほどの雫が、すべてを押し流さんと流れ落ち始めた。

 頬を濡らし、あごを伝い、温かい涙がぼろぼろと未久の心をゆっくりと溶かしていった。

 そして、大声をあげて男の胸に頭を預けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る