第9話 久代朱里 3

 二郎の家から、真逆。

 東の砂岸を目指して朱里は歩いた。途中で自分の小屋に寄り、一人芝居をこなした中央の丘を越え、白に包まれたエリアに足を踏み入れる。

 この場所はなぜか廃材が流れ着きにくく、代わりに我が物顔で純白の砂が居座っている。


 一歩一歩足を前に出すだびに、きゅっきゅっと小動物が鳴くような音が耳に入る。

 流砂の音とはまったく別の高い音色だ。朱里はこの音が好きだった。滅多に来ない東のエリアを堪能する気持ちで、無意味に砂を踏み鳴らした。


「あっ、あそこだ」


 たっぷりと時間をかけた朱里はようやく顔をあげた。

 目の前には小さな三日月型の入り江があった。

 直径にして五メートルほどの湾の中は、ようやく目で捉えられる程度の速度で流砂がゆっくりと回流している。

 慣れない者では、陸地と流砂の境目すら見分けられない場所で、朱里は慎重に目をこらした。


 大丈夫。今ならわかる。


 朱里は内心で飛び上がりたくなった。このエリアに一人で来ることを止められていた理由をようやくクリアしたからだ。

 いつかの記憶が脳裏にまざまざと蘇ってきた。


 東のエリアに行ってみたいという朱里に、那須平は眉根を寄せてこう言った。

「陸の砂と流砂の見分けがつくまではだめだ。ここは毎日少しずつ変わっていく。昨日の足場が次の日には無くなるんだ。まだやめとけ」

 那須平の真剣な表情に向けて、もう大丈夫です、という言葉は出てこなかった。その前日に、西の砂岸で危うく流砂に落ちかけたからだ。


 だが、今の朱里は違う。

 流砂の微妙な動きを捉えられるようにまで成長している。空いた時間にずっと景色を眺めていた成果だろう。


「いよぉっし!」


 溢れる喜びを言葉にのせて、朱里は駆け足で三日月の湾に降りていく。固そうな足場を有頂天で踏みしめて、次に次に進んだ。

 たどり着くと、無造作に転がっている奇妙な形の銀色の棒を握りしめた。


「うっ……重すぎ」


 棒の先端についている直径二十センチほどの円柱が重いのだ。

 公園や街中に存在する足のある灰皿なのだが、朱里には分からない。その灰皿内に石やおもりを詰めて、ビニールのロープで固くしばったそれは、二郎がハンマーと呼ぶ狩猟道具だ。

 朱里は全身に力を込めて、柄をつかんでもちあげた。


「よいしょっ!」


 勢いよく頭上に振り上げ、突如背中側にかかった重さに、たたらを踏んで尻もちをついた。

 危ないところだ。

 場所が悪ければ流砂に落ちていたかもしれない。

 朱里はぞっとする想像を振り払い、気持ちを落ち着かせて同じ動作を行う。

 そして、砂に向けて振り下ろした。


「えいっ!」


 重量のある先が、流砂に振り下ろされた。白い砂が飛び散り、窪みができあがった。

 額に浮き上がった玉の汗をぬぐってじっと見つめる。

 流砂はわずかの時間で元に戻った。


「やっぱり、岩峰さんみたいにはいかないか」


 朱里はため息をついた。

 二郎は砂サメを捕獲するときに、いつもこの道具を使う。素振りで流砂に叩きつける時は、比べ物にならない大穴があくのだ。


「でも、まずはやってみなくちゃ」


 気を取り直した朱里は、小屋から持ち出した袋から砂サメの切り身を取り出した。貴重だが、腐りかけている部分なので許してもらえるはずだ。

 匂いが広がりやすいようにと細かく切ったそれを、三日月の湾にひっくり返してぶちまけた。白い砂がじわじわと赤く染まりながら呑み込んでいく。

 朱里はそれを横目に、再び砂岸で素振りを始める。

 数回振るだけで、全身が汗びっしょりになった。手のひらにじわっと赤みが浮き上がり、ひりひりと痛みを伝えてくる。

 何度も振れば手が擦り切れるのは間違いなかった。


「こんなにしんどいんだ……」


 朱里は砂サメを切ることはできた。那須平の手伝いくらいはこなせる。

 だが、持ち上げるのはもちろん、捕獲など夢のような話だ。餌をまいても砂サメが現れない日もある。

 二郎がどれだけ苦労しているか骨身にしみた。

 ちょうどその時だ。


「あっ」


 運良く、入り江に一匹の砂サメが入ってきた。特徴的な黄土色の背びれが白い流砂を割るように近づいてくる。

 朱里はごくりと唾を飲んだ。

 自分の立つ位置は間違いなく陸地だ。ここまでは来られない。

 そうはわかっても、音を立てて近づいてくる凶暴な生物に身震いする思いだった。


「怖がっちゃだめ」


 朱里はぴしゃりと頬を叩いて喝を入れると、ハンマーを握りしめた。

 陸地すれすれにまいた切り身を、砂サメが砂面に顔を出しながら喰らっている。警戒心はまるで感じられない。


 ――鼻先だ。そこに一撃でやつらは気絶する。


 二郎の言葉が朱里の背中を押した。

 まるで見守っていてくれるかの安心感の中で、朱里は瞳に力を込め、今持てる力のすべてを砂サメに向けて叩きつけた。


 と同時に、

「えっ……」

 朱里は声を漏らした。


 踏み出した右足の大地が深く沈んだのだ。

確かに硬かったはずなのに。

 慌てたのも束の間、その場は初めから流砂であったように、たちまち朱里の右足が呑み込まれた。反射的に左足で砂面を蹴ったが、見事に吸い込まれる。

 どこにこんな深さがあったのか。這いまわるような砂の感触に朱里は背筋を震わせた。


「うそっ!?」


 悲痛な叫び声をあげ、両手を陸に伸ばそうとして、右手のハンマーに気づいた。

 これがなくなったら、みんなが困る。岩峰さんに顔向けできない。

 朱里はそう考えて、瞳に一筋の決意を宿す。

 即座に先だけ呑まれたハンマーをなんとか引き抜いた。最後の力で頭上に振り投げ、ほっと息をつくと同時に、体が大きく沈んだ。


「いやっ……」


 弱弱しい声が漏れ出た。恐怖心が湧きあがり、目の前が暗くなった。

 走馬燈のように父の顔が浮かび、島の三人の笑顔が続いた。

 朱里は必死に砂をたたいて浮かび上がろうとした。

 しかし、小柄な体は暴れるほどに、ずぶりずぶりと音を立てて沈んでいく。浮力など微塵も感じない。

 さらにばたつき――


「朱里、それ以上動くな」


 頭上から、よく知る声が舞い降りた。

 左手首がごわごわした手に捕まれ、朱里の体が音を立てて引き揚げられた。砂が無念そうに朱里の下半身から落ちていった。


「危ないところだったな」


 岩峰二郎が無表情で立っていた。朱里は呆然と口をあけた。


「岩峰さん……」


 言葉が続かなかった。

 真っ先に浮かんだ考えは「怒られる」というものだ。

 一人で東の砂岸に来たことは内緒にしなければならない。よりにもよって、足を捕られて沈みかけたところを見られたのだ。


「あっ……あの……ありがとうございました」


 朱里は助けてくれたお礼を伝えていないことに気づいて慌てて頭を下げた。

 あまりの情けなさなに、頭を上げられない。


「危なかったな」

「は、はい……」


 二郎は立ち尽くす朱里の隣に立った。

 思わず身を固くしたが、二郎はそのまま歩いて流砂に近づいていく。そして、先が返った長い鉄の棒を砂の海に突っ込んだ。

 何度も感触を確かめて、鉄の棒の向きを変えている。


「あの……なにをしているんですか?」

「ちょっと待て。おっ、いたな」


 二郎の全身に力が入った。肩がぐっともりあがる。一歩一歩、足場を確認しながら下がっていく。

 あがってきたのは、口の中に棒を引っかけられた小型の砂サメだった。


「砂……サメ……え?」

「こいつは正真正銘、朱里が捕らえたサメだ。ちゃんと気絶している」


 二郎はさらりと告げ、大地の奥まで砂サメを引きずっていった。朱里が黙々とその後をついていく。


「私……の?」

「そうだ。いい叩きっぷりだったぞ。俺の動きをしっかり見ていたんだな」


 二郎の微笑んだ顔が向けられた。

 朱里の顔が、かあっと熱を帯びた。思わず俯いてしまう。


「叩く位置もそうだ。的確ですばらしかった」

「で、でも……砂に落ちました」


 消え入りそうな朱里のセリフに二郎は「確かにな」と頷き、大きく笑う。


「ちょっと来てみな」


 手招きする二郎に、朱里は素直についていった。


「あそこ、色が違うだろ」


 岸でしゃがんだ二郎が、湾の一部を指差した。


「はい……白ですね」

「この辺は?」

「少し黄色がかった白?」


 首をかしげながら答えた朱里の頭を「正解だ」と二郎がなでた。大きな手だ。


「この流砂は固まって時間が過ぎると少し色が変わる。朱里が選んだ足場は、確かに陸だったが、新しかった。そういう場所は何かの拍子に崩れることがあるから、気をつけてな」


 とうとうと話す二郎の横顔に、朱里は恐る恐る尋ねた。


「……もしかしてずっと見てました? 岩峰さんも一緒に出かけましたよね?」

「ちょっと用事を思い出して、戻してもらったんだ」


 二郎がうそぶくようにいった。


「それと、俺のことはじっさんと呼んでくれ」

「え?」

「今日の砂サメの獲り方を見ていて思った。もう一人前だ。自分で考えて動く。それができれば心配されるだけの子供は卒業だ」


 二郎はとても嬉しそうに微笑んだ。


 ――認めてくれた。あの岩峰二郎が私を。


 朱里はじわじわと湧きあがる喜びに、口元がにやつくのが止められなかった。恥ずかしい場面を見られていたことなど、頭から吹き飛んだ。

 ともすれば「やったー!」と大声で叫びそうなほどに嬉しくて、そして気恥ずかしくて。

 胸のしこりがほろほろと崩れていくような感覚だった。


「ちょうど、なっさんと未久も帰ってきた。今日の朱里の武勇伝をたっぷりと聞かせてやるとするか」


 二郎はそう言うと、大きな体をのそりと動かした。

 東の浜に向かって、那須平と未久が乗るボートが音をたてて近づいてきているところだった。


「朱里も手を振ってやれ」

「那須平さーん、未久さーん、お帰りなさーい!」


 温かい気持ちに促されるまま、声を張り上げた。だが、隣で二郎が「違う」とつぶやいた。


「俺たちはみんな対等の関係だ。那須平のこともなっさんだ」

「え……」


 朱里の目が泳いだ。少しばかりハードルが高かった。


「あの……那須平さんが許してくれるでしょうか」

「いつまでも一人だけ那須平ではおかしいだろ」

「いえ、そうじゃなくて……私、東エリアに入らないようにって言われてたので」


 しょげた様子の朱里に二郎が苦笑して見せた。


「胸を張ればいい。砂サメを一人で捕獲したんだ。文句を言われる筋合いはない、とな。まあ無いとは思うが、なっさんが咎めるなら、俺からも伝えるさ」

「で、でも……それだとまずいです」

「まずい? なぜだ?」

「また、お二人がケンカになるかもしれないからです」


 朱里の沈んだ声に、二郎が嬉しそうに目を細めた。

 小さな肩にぽんっと手を乗せ、耳打ちするように言った。


「今度は朱里が注意してくれるんだろ。あれなら、なっさんもすぐに引き下がるはずだ」


 脳内にじわじわと二郎の言葉の意味がしみ込んだ。


「え?」と呆けた声を出したのも束の間、顔を真っ赤に染め上げた朱里は、その場で卒倒しそうになった。

 一人芝居中に、観客がいたのだ。

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