第8話 久代朱里 2

 ――数カ月前。


「いい加減にしろ、なっさん。そんな夢物語に乗れると思うのか」


 二郎の苛立った声が響いた。

 傷だらけの木皿に砂サメの焼きものを取り分けていた朱里は、血の気が引く思いで小高い丘に視線を向けた。

 ちょうど那須平が二郎の白衣の胸倉を掴んでいる様子が視界に飛び込んできた。

 頭半分高い二郎が、冷めた目で那須平を見下ろす。


「無茶苦茶だ」

「時間がないんだ」


 那須平の眉がけわしく寄せられた。二郎が「わかってるさ」と鼻で笑う。


「でもな、勝算もなければ、作戦もないだと? 勇気をはき違えたバカの無謀と変わらん。お前一人が行ってなにができる」

「なんとかする。それにじっさんだって、楽園島に思うことはあるだろうが」

「もちろんあるさ」


 二郎がやるせなさそうにため息をつき、瞳を伏せた。


「毎日考えない日はない。あの時こうしていれば、あの時判断を間違わなければってな。だが、今はこの島にいるやつを守ることも重要だ」


 二郎の黒い瞳が朱里にちらりと向いた。


「なっさんが抜けて、俺が抜けて、残った二人はどうなる。見殺しか? 北か、南に送るのか?」

「それは……」


 那須平の視線が泳いだ。


「今がその時か? よく考えろ」

「けど……じっさん」

「はーい、喧嘩そこまでにして。もう勝負決まったでしょ」


 二人の間に、明るいオレンジシャツを着た未久が割って入った。

 非難する視線が向いたが、未久はどこ吹く風だ。


「あんたたちさ、いい歳した大人が炎天下で、なっさんだのじっさんだのあだ名で言い合って格好いいと思うわけ? 喧嘩なら名前でやりなさいよ。お友達じゃないんだから」

「余計なお世話だ」


 毒づいた那須平を、未久がじろりと睨む。


「巴と、二郎に言い直してもう一回やってみなさいよ。聞いてあげる。それとも私がやろうか?」


 腰に手を当てて睥睨するように二人を見る未久が、那須平を真似た。

 ヘルメットに手を置く仕草がそっくりだ。形の良い口をへの字に曲げて、小さく動かして言った。


「『なんとかする。二郎さんも、思うことはあるだろうが』……だったっけ? どう? 似てた?」


 未久が「似てるよね」と恐る恐る近づいてきた朱里の方に振り返った。まるで太陽のようにまぶしい笑顔に、冷えた心の端々が熱をもった。

 朱里は小さく微笑んだ。


「……似てると思います」


 那須平が苦虫をつぶしたような顔を見せた。明後日の方向に視線を投げ、二郎を確認して「わかったよ」とぶっきらぼうに言った。

 未久の表情に満面の花が咲いた。


「それでいいの! 端から見るとかっこ悪いってわかった?」

「へいへい」

「……あんたたちの喧嘩を見せられるこっちのことも忘れないで。朱里にさっきみたいな顔させるのはやめて」

「悪かった」


 二郎が未久と朱里に深々と頭を下げた。長い白髪が地に流れた。


「朱里、悪かったな」


 不満そうな那須平が続いて頭を下げた。朱里は慌てて顔の前で手を振った。


「い、いえ……私はなにも……未久さんが頑張ってくれただけで……」


 しどろもどろに言う朱里の背中を未久が二度叩いた。


「そうじゃないんだよねー。二人とも朱里の視線が気になるの」

「私の?」


 朱里は心底理解できずに首をかしげた。「どういう意味ですか」と口を開いたが、答えは返ってこない。

 二郎は苦笑し、那須平は早々に踵を返して場を離れていく。その背中は、どこか逃げていくようにも見えた。


「朱里のおかげだね」


 未久は満足そうに朱里の頭を撫でた。

 私がなにか役に立てたのだろうか。朱里の疑問は膨らむばかりだった。


 ***


「やっぱり役に立ってないよね……」


 朱里は首をひねって考える。

 何度思い返しても、喧嘩を収めたのは未久の手腕だと思えた。

 ちょっとずぼらで不器用。でも、とても明るくて、笑顔が素敵で、そばにいるだけで、自然と心が温かくなるような人。そして――自分の影は決して見せない人。

 朱里の未久に対する評価だ。

 未久がいるからこそ、この島は成り立っていると常々思っている。


「私も、未久さんみたいに言ったらケンカ止められたのかな」


 周囲をこそっと見回した。

 聞いているのは流砂だけだ。大きく息を吸った。

 心の中で、未久になりきって口を開けた。


「『あんたたちさ、いい歳した大人が炎天下で、なっさんだのじっさんだのあだ名で言い合って格好いいと思うわけ?』」


 甲高い声が溶けるように消えていった。

 一番印象に残っていたセリフだ。

 詰まらずにすらすら言えたことに、未久は気を良くした。自分でもこれくらいできると思うと心が弾んだ。


「うん……今のは良かったかも……」


 目を吊り上げてさらに言った。


「『それでいいの! かっこ悪いってわかった?』」


 未久の動作を思い出して、頬を膨らませながら想像の二人を下から見上げるように告げた。

 二人が弾かれたように自分に頭を下げた。

 イメージトレーニングは完ぺきだった。


「うん、いいかも! 今度ケンカしてたら、これでいこっと」


 未久は小さな拳をぐっと握りしめ、弾んだ声をあげた。


 ***


 岩峰二郎は白い廃車に住んでいる。

 打ちあがりそうな角度で上向く車の助手席という場所に腰かけていることが多かった。朱里が勉強を教えてほしくて訪れる時の二郎は、いつも物憂げな表情で虚空を眺めていた。

 口数は多くないが、きっと優しい人だと思っている。


「どうしよっかな……」


 朱里は車を眺める。割れたガラス窓から、幾重にもビニールで巻かれた何かが見えた。中に何が入っているのかは知らない。

 ふらふらと誘われるように、まだら模様に錆びが浮いたドアの取っ手に手をかけた。

 だが、力を込めようとして戸惑う。

 この車は二郎の家だ。

 未久も一人用の小さな小屋を北のエリアに持っているが、そこには当然足を踏み入れたことはない。

「絶対に入らないで」と強く言い聞かせられているからだ。

 背筋に寒気が走るほどの厳しい顔をした未久が、その直後に見せた、今にも消え入りそうな表情を忘れたことはない。

 朱里はその時、そこは絶対に入ってはいけない場所なのだと強く思った。


 二郎も同じかもしれない。

 プライベートなスペースを一度も経験したことがない朱里には、無断で人の家に入るというイメージが湧かない。

 父と旅をしていた時も視線を遮る家などなかったし、この島に来てからも共同生活だった彼女は一人の空間の大切さがわからないのだ。

 けれど、目の前のビニールが自分の手帳や絵本だと思えば、ぼんやりとは理解できた。

 知らぬ間に宝物が触られるのは良い気持ちではない。


「やっぱり許してもらってから、入れてもらおうっと。勝手に触るのはダメだよね」


 朱里は「じゃあ次だ」とつぶやいてその場を離れた。

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