第7話 久代朱里 1

 久代朱里の世代は新世代と呼ばれている。

 期待された世代という意味ではなく、単にこの激変した世界ができ上がってから生まれた命という意味だ。


 父の名は久代智樹。母は仁田五十鈴。

 四年制大学を卒業後、大手電機会社で管理職に昇進した直後の智樹は災害発生当時三十五歳。部下の誰もがのびのびと仕事をこなせるようにと気配りを忘れない人間だった。

 母の五十鈴は当時二十六歳。引っ込み思案だが、辛抱強く負けるのが嫌いな性格だった。彼女は、智樹と同じく大卒で中堅アパレル企業に就職後、三年勤務したのち、体を壊して離職。その後一年を治療にあて、いざ新しい仕事を探すために見分を広めようとしていた時だった。


 二人は早朝に流砂という未曽有の災害に翻弄された。

 近所のコンビニは屋根を残して沈み、肌身放さないスマートフォンはその二日後に電池を消耗して只の端末に成り下がった。

 怒涛のように世界規模で訪れる食糧危機と水不足。

 現れる凶暴な生物と、失われた秩序。

 毎日が苦難の連続だった。


 それから一年。


 絶望の真っただ中で二人は出会った。

 北の島の市で、落ち窪んだ瞳を殺気立たせながら食料を見つめていた智樹に「内緒ですよ」と板チョコのかけらを渡したのが五十鈴だった。


 彼女は北の島の住人だった。

 とろけるほどに甘いチョコの味に、智樹はその場で死んでも良いと思った。

 こんなにうまいものがあったのか。こんなものを無報酬で渡してくれる五十鈴はなんて優しいのだ、と。

 日々心をすり減らして生き延びていた智樹は即座に想いを伝えた。

 感謝なのか一目ぼれなのか、自分の感情を整理する余裕もなかった。見返りを求めない五十鈴の笑顔を目にしたとき、口をついて言葉が出たのだ。

 だが、自分でも早すぎたと思ったのだろう。

 直後にしどろもどろになった智樹に五十鈴は大笑いした。


「なんですかそれ。私じゃなくてチョコにですか?」


 ばつの悪そうな顔で頬をかく智樹に、五十鈴は平和だった頃の記憶を掘り返され、自然と微笑んだ。


 そして、時間が経過した。

 五十鈴は妊娠する。だが危険な生活が待ち受けていた。

 猛暑の中、満足に食べられず動くこともままならない毎日は、五十鈴の体力をそぎ落とした。それでも限られた医療の中で、なんとか命は誕生した。

 しかし、力尽きた母は目覚めなかった。


 智樹は一晩中泣きはらした。

 腕の中の朱里と共に流砂に身を投げようか。

 一日のうちに何度も訪れる危険で甘美な誘惑を、五十鈴の顔を思い出して何度も振り払ったが、智樹の心は時間を刻むごとに疲弊していった。

 だが――

 こうしている間にも、朱里は死にかけている。

 腕の中で響いた、助けを求める小さな小さな泣き声が智樹を我に返らせた。

 その瞬間、目の前の灰がかった世界が一気に色づいた。

 周囲との協力でなんとか食いつないでいた智樹は、よく見ると朱里の顔が痩せこけていることに気づいた。小さな手に動きがなく、泣き声もほとんどあげない。腕に抱いているのに今にも消えてしまいそうだ。

 五十鈴の面差しを継いだ顔が、暗く陰っているように見えた。

 背筋に震えが走った。

 自分はこんな時に何をしているのだ。この子を守れるのは自分だけだというのに。

 智樹は周囲を見回した。

 皆が、皆の大事な人間しか見ていなかった。

 仲間だと思っていた人々は、ただ集まって生活している他人に過ぎなかった。

 智樹はこの日、北の島を出た。自殺行為かもしれないと思いながらも、周囲の人間が怖くなったのだ。

 その後、朱里が十二歳になるまで智樹は奔走する。

 良心を抑え込み、精神をすり減らしながらも、人を傷つけ奪う仕事にも手を出した。すべては朱里を守る為だった。

 そして、それらすべてから逃げるようにこの島にたどり着き、白塵に侵されて亡くなる。



「お父さん……」


 板に腰かけていた朱里は、黄ばんだ手帳を閉じた。目頭がじんと熱かった。

 手帳の元の持ち主は父である智樹だ。

 前半は朱里にはよく分からない仕事のスケジュール。後半が大災害に見舞われてからの手記になっている。

 ところどころ破れ、かすれて読めない箇所も多いが、朱里にとっては自分の知らなかった父の生涯を間近で感じられる宝物だった。

 市で交換しても何の役にも立たないであろうそれを、朱里はこの島に来てから何度も読み返していた。何かあって落ち込みそうになる度に、励まされるのだ。

 自分も強くならないといけない。


「よっし」


 朱里は膝丈の茶色いワンピースを叩いて立ち上がった。ポケットに入れた乾いた植物の蔓を取り出し、黒い髪を一つに束ねる。


「みんながいないうちに、済ませなくっちゃ」


 朱里は瞳に力を込めて、西の砂岸に向けて足を踏み出した。


 ***


 島の住人はみんな秘密を持っている。

 朱里はそう感じていた。

「秘密をかかえていますよね」と率直に聞けば、全員に笑われるかもしれない。けれど、その時には誰もが苦笑いでごまかすだろうと確信していた。


「やっぱり何もない」


 西の砂岸で、遠方に目をこらした。


 ここは、島のリーダ――自分はそんなつもりはないと口をへの字に曲げて言う那須平――が仕事を終わらせたあとで大半を過ごす場所だ。

 拾ってきたであろう木材の山を丁寧に組み合わせ、平らな足場を築いている。日が昇っている時間中はもちろん、夜遅くまでここに座っていることが多い。


 那須平のゴミ拾いの速度は島で一番だ。

 彼にかかれば、早朝からわずか一時間程度で朱里の何倍もの廃材を見つけてしまう。

 空き缶はもちろん、何かのリモコンやビー玉のような小さなものまで、目ざとく見つけて拾い上げるのだ。

 二人でゴミ拾い中に「おっ、見つけた」という言葉が聞こえる度に、「私がさっき通り過ぎた場所だ」と申し訳なさのあまり頭が上がらなくなるのだ。

 浅い場所では、砂の流れに果敢に足を踏み入れることすらあった。一歩間違えば命を失う危険すらあるのに。

 朱里はその度に「すごいなぁ」と感嘆の声をあげつつ、自責の念に駆られるのだ。


「お借りします」


 足もとに無造作に置かれていた双眼鏡を手にとった。使い方は那須平の動作を見て知っている。一度覗かせてもらったこともある。

 本当なら両目で見られるんだけどな、と悲しそうに微笑む那須平が「世界変わるぞ」と朱里に貸してくれたことがあった。


 世界が変わる。


 朱里には意味がわからなかった。ただ、この双眼鏡が途方もなくすごいことは分かった。

 片方のレンズが割れているのに、遥か遠くの景色が手で掴めるほどに近くなる。

 思わず何度も虚空に手を伸ばしたものだ。


「那須平さんは何を見てるんだろ」


 けれど、那須平が見ているものは一向に理解できなかった。

 食事ですよ、と声をかけに来たときも、教えてほしいことがあって尋ねてきたときも、那須平はずっと双眼鏡を覗いてはぶつぶつつぶやきながら小さな手帳に何かを書いているのだ。

 書かれている内容は知らない。

 聞いても答えてはくれない気がするのだ。


「うーん……分からないなぁ。方向はあってると思うんだけど。もう少し上なのかな」


 見えるものといえば楽園島だけだ。一度は行ってみたい憧れの島。

 そもそも景色のほとんどは砂の海だ。

 白い流砂と砂面を泳ぐ生き物、他のゴミ島の影が見える程度のそれに面白みを感じられるはずがない。

 双眼鏡を少しだけ上に向けた。楽園島を覆うひっくり返した巨大な半透明の器の中に、小さな建物が見えた。

 ビルやマンションという名の建築物だ。間近で目にしたことはないが、父親の話では天を衝くほどに大きいという。


「あの中に人がいるんだよね……」


 どんな世界なのだろう。どうやって高い建物を作るのだろう。

 朱里は頭を悩ませる。

 一晩中、光が絶えず、水にも食べ物にも困らない世界。

 流砂を渡らずに薬が買えて、ケガを治療する人がいる世界。

 そして、娯楽というものがある世界。

 いくら想像を膨らませても、そんな世界は夢物語のようで現実味がなかった。

 しかし、娯楽だけは少し理解できた。


「たぶん絵本がたくさんあるってことだよね」


 朱里は双眼鏡を丁寧に置いて、代わりに持ってきた絵本を手にした。

 ぼろぼろの表紙には朱里の知らない猫という動物が描かれていた。前足をあげてこちらを見つめる黒い猫の顔は、どこか誇らしげで、愛嬌があった。

 朱里は小さく笑い声をあげた。


 この絵本は手帳と共に宝物の一つだ。

 人に捨てられた猫が世界を恨み、出会う動物すべてに冷たく接して自分も嫌われてしまうのだが、必死に生きていく中で認められて仲間ができるというストーリー。

 朱里はこの猫に自分を重ねてがんばろうと思うのだ。


「でも、私って足引っ張ってばっかりなんだよね」


 大きなため息が漏れ出た。途端に肩が重くなった。

 朱里は自分が役に立てないことに悩んでいた。何をしても三人には敵わないからだ。

 絵本を一枚めくって物語に没頭する。一枚が終われば、顔をあげてまた楽園島を眺める。


「全然ダメだ」


 朱里はそっと唇をかんだ。

 ずっと眺めるにもこの暑さだ。絵本で気を紛らわせても、動かない楽園島を見つめ続けるのは苦行だ。

 那須平の行動の意味を知れば近づけるかも、と安易に考えた自分が恥ずかしくなった。


 朱里は立ち上がって移動を開始する。

 次は中央付近の高台だ。

 そこは、だいぶん前に未久が喧嘩を仲裁した場所だ。

 三人が戻るまでに、まずは全員のすごさを理解しないとだめなのだ。こんなチャンスは、島にたった一人残った今日しかない。

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