第10話 平未久 1
ある日の昼下がり、未久は横たわる砂サメを前に唸っていた。首をひねり、疲れてきた右腕をぶらぶらと振って、「もう!」と怒りを口にする。
「なっさん、やっぱりこれ無理だって」
ブルーシートの天井を見上げ、独り言とともに草刈り鎌をあきらめ顔で放り出した。黄土色の砂サメの腹には何度も刃を突き刺そうとしたあとがあった。
那須平の実演以来、ひそかに練習を繰り返している未久だったが、成果は芳しくない。
「ああっ、なんでできないの!」
苛立たし気に床板をどんどんと踏みしめた。
貧相な柱が不快気に揺れ、大事な小屋がびりびりと振動する。
我に返った未久は、はっと顔を青ざめさせ動きをとめた。そのまま、下を向く。
――朱里もできるようになったのに。
心をざわつかせている原因はそれだった。妹のような存在だと思っている朱里は、いつの間にか砂サメの解体技術を身に付けてしまっていた。目の前でつたないながらも器用に身を切り出す光景が未だに脳裏から離れない。
その朱里を、嬉しそうに褒める那須平の顔はもっと頭から離れない。
「力がないからできないよねー」と笑って顔を見合わせていた二人のうち、妹分が卒業してしまったのだ。
こうなっては、力不足を理由に言い訳ができなかった。さすがに朱里よりは力は強いはずだ。
隙間を探すように――
心を落ち着かせて、そっと目を閉じて那須平の言葉を思い出す。咎めるような視線と不愛想な顔を思い浮かべて、未久はため息をついた。
砂サメは東の入り江で捕獲できることもあるが、運が良い時だけだ。それ以外では市に出かけて買ってくるしかない。
二郎の料理当番を密かに変わってもらうにも限界がある。
目の前の一匹も決して無駄にはできないのだ。何より大事な水袋を傷つけてしまえば価値がなくなってしまう。
「いやになるなあ」
未久は小さな妬みを混ぜた重い息を吐いた。
身を翻して大股で小屋を出た。任されている仕事は一つではない。
次は必需品の確認だ。落ち込んでばかりはいられない。
島の中央の丘で、未久は抱えた廃材を放り出して腰をかがめた。
目の前には直径二メートルほどに掘られた大きく浅い穴。その上には、穴の中央だけを塞いでいるオレンジの金属板。
ぼんやりと手を伸ばし、
「熱っ!」
悲鳴とともにひっこめた。板に黒字で書かれている『安全第一』の文字が自分をあざ笑っているように見えた。
「もうっ!」
苛立ちを吐き出しながら、どうかしているな、と思う。
朱里にできて未久ができないという事実が、思っていた以上に重かった。
なっさんやじっさんも内心で呆れているんじゃないか――そんな想いがさっと未久の心の中を走り抜け、顔から血の気が引いた。
「ダメだ、ダメだ、こんなんじゃ」
未久は素早く上空に顔を向けた。両手を広げ、「あーっ!」と大きな声を出し、気を取り直す。落ち込みそうになる気持ちが少し晴れた。
「よっし! 次っ!」
穴の横に放り出されている長めの金属棒を手にとった。そして、先を板の下に差し込み、
「えいっ」
掛け声とともに、ひっくり返した。
穴の中央で、新たな空気を吸い込んだ種火が嬉しそうにぱちぱちと跳ねた。未久がほっと息を吐き出す。
火種の管理が未久の仕事なのだ。
「よしよーし。今日も消えてないね」
優しい笑みを浮かべ、労わるように話しかける。
火の管理は重要だ。焼くにも煮沸するにも、暖を取るにも必ず必要になる。冷え込む夜にも使用する。
この中央の種火の穴は島で最も大きなものだ。リスクの分散のために、他にいくつかのポイントに同じものを設置しているが、いつも最初はここに足を伸ばしていた。
未久は満足げな顔で、金属棒を火種に突っ込み、下からかき回すように炭を混ぜる。
余分な炭は穴の外側へ。中央には新しい空気を送るように。何度も繰り返して身に付けた一つのコツだ。
続いて、用意していた廃材を火の勢いを見ながら慎重に放り込む。木材だけではない。ビニールやプラスチックの板など、燃えるものは何でもつかう。
流砂の世界で、異臭や黒煙などに気をつかう余裕は無い。
「よし」
最後に、雨除けの金属板を火種のうえにかぶせれば終わりだ。
未久は意気揚々と次のポイントに足を向けた。
ちょうど、最後の火種を確認しにいこうと移動していた時だ。
双眼鏡を覗き込んでいた那須平が、抑揚のない声で横切った未久に告げた。
「二十二番が来た」
未久は反射的に体を強張らせて、足を止めた。
収まりつつあった、ささくれ立った気持ちを黒く塗りつぶすように、暗澹たる想いが広がった。
膝が小刻みに震えだし、背筋に氷でも当てられたかの寒気を感じた。
これに比べれば朱里に抱く嫉妬など可愛いものだ。
未久は自嘲しつつ無理やり笑う。頬に力を込め、ぎゅっと歯をかみしめて那須平に尋ねた。
「もう……そんな日だったっけ?」
震えそうになる言葉を必死に押さえつけた。
「決まった日なんてないだろ。楽園島とあいつらの都合次第だ」
那須平はただ淡々と事実を告げた。
いつもと同じ、無駄話をそぎ落としたかの無遠慮な言い方だ。
未久の荒れ狂った心中に、小さな小さな白い凪が生じた。
――これだ。
未久は意識をそこに集中させる。一人では平常心に戻れそうにない。
この瞬間を逃せば顔に出るだろう。那須平にも、二郎にも、ましてや朱里には絶対に見せてはいけない顔なのだ。
何度も浅い呼吸を繰り返した。
那須平はずっと双眼鏡を覗いたままだ。俺には関係ないと言わんばかりの横顔を盗み見し、未久は胸に手を当てた。心拍が少しずつ落ち着いた。
ようやく自分の心に仮面をつけることに成功した。
「……ねえ、なっさん。なにか欲しいものある? 頼んであげるよ?」
「ねえよ」
いつも通りの問いかけに、いつも通りの即答。
未久は無言で踵を返した。那須平なりの優しさなのだともう知っている。嬉しくて自然と口元が緩んだ。
「急がなくちゃ」
同じ質問を朱里と二郎にもしなければならない。
これこそが、島にいる未久が最も役に立てる仕事だからだ。
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