自粛三昧
4月末頃、数日ぶりに行き付けの居酒屋の前を通ったら、面妖な貼紙があった。
「はりきって自粛営業中!」
いったいどういうことなのだろうか。私はとりあえず、店を覗くことにした。貼紙がなくても覗いていたのは間違いないが、とにかく気になった。
「いよっ!」
店主は、何時も通りの声で迎えてくれる。この店はこうでないといけない。とりあえず、私は、自粛前と変りのないカウンターに座った。
「まず、いつもの。」
常温の二級酒。ここに来たら、私は最初にこれを頼む。なんとなく、そういう習慣が出来た。
「お待ち!あとこの突き出し、自粛につき無料!」
主が出した皿は、人参と大根のなますだった。
「これが肴かい、珍しいね。」
「自粛っていうからね、ちょっと簡単なものにしてみようかと思ってね。」
酒を舐めながら机の上を見ると、品書きもいつもと違う。
「これも自粛ですかね。」
「自粛しないとね、世間がうるさいからね。」
自粛しているということなのだろう、並ぶ品書きは少ない。それでも、私のような老人には見慣れないものもある。
「モツ…モッツツツレレ…」
「あ、モッツァレラとトマトのサラダ、それ、すぐ出せるよ!」
「その…モッチャレラレってのは何だい?」
「西洋のチーズでね、白っぽくて、うまいよ。」
「やめとくよ。ちょっと待ってくれ。」
「あいよ。」
「お、マグロの刺身自粛版、これにしよう。」
「はいよっ!」
しばし待って出てきたのは、何の変哲もない鮪の赤身であった。鮮かな赤みが、どこまでも深い。ただ、この手の店にしては珍しいところもあった。つまの大根以外、何もついていないのだ。
「地味だねぇ…」
「地味だよ!自粛だからね!」
鮪をつまみながら、改めて品書きを眺める。
「赤魚みぞれ煮…いや、金目鯛酒蒸し…うーん…」
「お悩みで?」
「ああ、いつもと違うと、選ぶのも難儀でねえ。」
「いつもの肉系なら、牛たたきおろし醤油味、これかね。」
「醤油味?ぽん酢じゃなくて?」
「白醤油を使って、いつもと違う味に仕上げてみたのよ。」
「じゃあ、それで。」
それにしても、普段と違い過ぎる。パプリカと山うどのサラダなんて、この店で見たこともない組み合わせだ。キムチのマヨネーズ添えなんてのも、前はなかった。気になるが、気にし過ぎても腹は膨れない。
白醤油で食べるローストビーフは、ちょっと珍しい味だった。特別うまいわけでも、ひどくまずいわけでもない。薬味には、唐辛子を勧められた。
「それにしても自粛で大変だね、大将。」
「そうなんだよ、やってらんねえよ。」
「やっぱり、きついかねえ。」
「キツいねぇ…」
牛たたきを出した大将は、奥に下がってマスクをずらし、紫煙をくゆらせた。
頼みたくなる品が少なかったので、私は、煮え切らない気分で店を出た。だが代わりになる店は開いていない。そして気付いた。自粛品書きは、ことごとく紅白の色合いだった。あたかも慶事でもあったかのように。大将は、自粛するつもりなどさらさらなかったのだろう。
その後、店の扉を自粛警察が蹴り壊した。店は休業に追い込まれた。定休日ですら掃除に来ていたあの大将を見かけないまま、日が過ぎている。孫に聞いたところによると、不謹慎な店としてインターネットで叩かれていたそうだ。世知辛い世の中である。行く店が減った私は、昼間からそんな話を聞きながら安酒を飲んでいる。なんとも世知辛い世の中である。
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