カップル濃厚接触

 電車は走る、陽の光の下を。客はまばらだ。それなのに、扉の脇に立っている者たちがいた。どうやら発情期のバカップルである。その証拠に、二人の距離はやけに近い。

「ねえ貴幸、ここヤバいよ。」

 和乃は、唐突に言い出した。

「ほら、マスクしてないオッサンがいる。」

 あからさまにその方向を見て、周りに聞こえるかどうかを気にしないさりげない声量で言いながら、二つ先の扉の近くに座る客の方を和乃は目で示した。

「うわやべえ。次の駅で移ろうぜ。」

 二人の防疫意識は相当のものだ。薄いマスクがもごもごと動く。そして、二人は指を絡め合い、いろいろと我慢できなさそうにしている。そのオッサンに気付く前も、その後も。

「あたしたち予防してるから平気じゃん?」

「そうだよ。」

「でもさあ、なんかあったら伝染されそうじゃん。」

「そうだな。」

「賠償金とか慰謝料取れるじゃん。」

「取れる取れる!」

 どうやらこの二人は、あまり賢くはないようだ。

「それで海外でも行っちゃおう。」

「じゃ…ハワイがいいかな、バリかな。」

「ソウルか北京くらいならすぐ着いてラクじゃん。」

「それもいいな。」

 和乃は、何かに気付いたか思い出したかといった、昔の漫画なら頭の横に電球の絵がある雰囲気になった。貴幸より背が大分低い和乃は、踵を少し上げ、口を貴幸の耳に近付けた。やけに短いスカートから、これまでより多く太股が出た。後ろから見れば、昔の漫画の幼女のような状態だろう。謹厳実直な向きならはしたないと繭を顰める姿勢である。

「そういえば貴幸、今度の会社はボーナスあるって言ってたよね。」

「ああ。言ったっけ。」

「言ってた言ってた。それも使えるじゃん。」

 貴幸は悩んだ。和乃とつきあい始めた頃に吹かした出任せが、もしかすると枷になると気付いたからだ。実際のところ、貴幸はコンビニでバイトしているだけの身である。


 あれは数ヶ月前の肌寒くなり始めた日だった。貴幸は薄着でいた。

「ぶわああっくしゅなうぴょあ!」

 貴幸は、やたらと派手なくしゃみを放った。口には何も当てていない。そんなとき、一応知人程度だった和乃が優しかったのだ。

「大丈夫貴幸くん?熱とかない?」

 和乃は、貴幸の額に手を当てた。貴幸の目の前には、和乃のやたら長いつけ睫毛があった。生身の人間十人分くらいの量が、目を際立たせる。そして貴幸の鼻の中には、和乃がどっさりと吹き付けた安香水の匂いが広がった。

「熱はないね。」

 和乃が少し離れて言うと、貴幸はまたくしゃみをした。それから数日してから、貴幸は交際を申し込み、和乃も承諾した。身体の相性には恵まれたようで、二人はすぐに離れられなくなった。


 貴幸と和乃がいちゃついている間に、幾つかの駅が過ぎ去っていた。そして貴幸は気付いた。

「そんなことより、あいつ降りたぜ。」

「あっほんとだ!」

 和乃は、興奮して貴幸の手を強く握った。貴幸の荒い鼻息がマスクの隙間から漏れ、眼鏡を一気に曇らせた。


 そして電車は次の駅に着いた。隣の扉のあたりに、親子連れが、乳母車を押して乗ってきた。歩いている子供もいるので、総勢四人である。

「今度はガキかよ…」

 貴幸はあからさまに嫌そうな顔をした。賑やかな少年は、マスクをつけていない。いや、母親もしていない。乳母車の中は見えないけれど、父親だけが装備をきっちりしているようだ。

「あーでもお父さんをちゃんと守るってえらいよ。」

 和乃はそう言う。そうなのだ。この一家は、一人で稼ぐ父親だけは守ろうと、なんとか買えたマスクを父親にだけ使わせているのだ。もちろん和乃は、そんな事情を知らない。だが、和乃が刷り込まれてきた家父長制が、たまたま一家の事情と一致した結論を出させたのだ。

「そうだな…そういうのもアリかもな。」

 貴幸は、和乃の言うがままだった。家長として立てられているようでその実操られるだけのありがちな父親像のような図式は、貴幸の知能では理解できない込み入ったお話なのだ。

 少年は騒ぎながらうろつき回る。母親はそれを止めもしない。だが、和乃も貴幸も気にしていない。先程の敵の自滅を見たが故の解放感が、二人を瑣末な事情から自由にしたのかも知れない。


 特に和乃は、自分の未来を想像して、いい気分になっていた。この寝巻きで現れた両親のように、子供を自由に育てる。自分は専業主婦なので、子供に集中できる。そんなさまを空想するだけで、立ち仕事が続く売り子業の辛さもいつか終わると信じられるのだ。


 そして電車は駅に着いた。そこは、二人が目指す、ネットで知ったラブホの最寄である。二人は電車を降りた。

「すごいよねアレ。」

「ヤバい。マジヤバい。」

 すごい。やばい。そう表現されるのは、独自性のある個室であった。

「空いてるかな、あの部屋。」

 その中には、どうやら特殊なプレイのための部屋も僅かながらあるようだ。

「どうせならコスも着たいし。」

 コスプレ衣装も、貸し出されているらしい。


 和乃も貴幸も知らない。そのラブホテルが、自粛休業中であることを。

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