あらやだ奥さん

 これかな、いや、あっちかな…品を吟味する目は鋭く、手の動きは決して止まらない。取っては置く動きは、例えるならひよこの鑑定士のような雰囲気である。もっとも、本物と違い、そんなに素早いものでもないのだが。

 そこは、スーパーの野菜売り場である。黒江は、ばら売りのじゃが芋を検品していた。端から端まで、いや、時々ずれながら、同じ値段で買えるより大きく見栄えのするものを探して。黒江の指紋は、すべての芋に刻まれていく。妥協しない黒江は、後ろの客の苛立ちなど気にも留めない。そこに、見知らぬ老婆の手が伸びてきた。既に日課となっている黒江の検品が、邪魔された。ナニよいやねえ、そう思った黒江は、仕事を中断して他の売場を見ることにし目を上げた。


「あらやだ奥さん、ちょっと!」

 そんなとき、知人の浜田を見つけた黒江は、いつものように声をかけた。

「あらやだ!黒江さんの奥さんじゃないの!」

「ちょっと、高松さんとこのダンナさん、こないだ出張で東京に行ったんですってヨ!」

「んまー。このコロナの中を?いやねえ。」


 黒江と浜田は、20cmの距離まで顔を近づけながら、5mは離れても十分届く声で会話している。


「そうなのよ。ばい菌を持って帰ってどうするのよ。ねえ。」

「いやあねえ。」

「それがね、ご心配をおかけしてなんて言って、お土産くれたのよ。」

「んまあ。」

「ライブハウスに行ってきましたってお饅頭。これがけっこうおいしいの。」

「あら。よかったわねえ。」

「でもねぇ…いやよねえ。」

「イヤねえ。」

 浜田が嫌がっているのは、東京土産でも東京出張でもない。自分は土産をもらっていないことである。だが黒江は、そんなことを気にも留めない。そして浜田は、無意識に話題を変えた。

「だいたい最近はマスクも買えないし。」

「そうよねえ。すぐなくなるでしょあれ。うちなんかもう二千枚くらいしかないわ。」

「今朝も買えなかったしねえ。」

「ホントひどいわよねあの薬屋。あ、見てよ奥さん、あれ。」

「なによあの男、マスクもつけてないじゃないの。」

 正義の憤りを覚え、黒江たちは興奮してきたようだ。マスクの上の隙間から出た息が、店内の冷気で白く曇っている。マスクのない男を指差しながら黒江は吐き捨てる。

「あんなんじゃコロナで氏ぬわよ。」

「いやだわ、伝染されそう。」


 黒江と浜田が道を塞ぎ、客は他の隙間を通るしかない状態が数分続いていた。二股に分かれた道の一方が完全に閉じているのだから、人込みもそれなりになる。だが、黒江たちにとって、それは問題でもなんでもない。自分に累が及ばないからだ。それでも、傍迷惑なのは間違いない。近くで品出しをしている店員は、だったらお前らが先に氏ねよと願っていた。不潔なのがいやならなぜ検品するんだとか、ウィルスはばい菌じゃないだろとか、お前らの着け方じゃマスクの意味なんかないだろとか、色々と突っ込みたいのを抑えてきたこともあるのだろう。


「あらやだ?!」

 電話機が音を立てた。どうやら浜田のライナーに連絡があったようだ。

「あらやだ!『マスク売ってる』ですってよ!」

「あらやだ!」


 黒江と浜田は、買い物籠を放置し、ドラッグストアへと走って行った。店員は、ため息を隠さず、黙って籠を片付けた。だが二人は知らない。根拠のない確信を持って二人が今向かっている先は、マスクが売り出されたところとは別の店だと。

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