逃走の涯

「次のニュースです。メグマウィルスの感染者が、国内で発見されました。」

 TVは伝える、外国で猛威を振るうウィルスがついに上陸したことを。感染者は、一週間程度の潜伏期間を経て、急激な高熱と下痢に悩まされる。知られた症状との違いは、放置すれば症状が数ヶ月続き、その間に筋肉が萎縮して日常生活すら困難になるらしいということである。骨も弱まるらしい。詳細は明らかでないものの、時に脳にも症状が出るという。一見した症状は、インフルエンザあたりと似ているといえば似ている。とはいえ、同じ薬が効くわけではない。


「くだらねえな。」

 TVの画面を見ながら、惠祐は言い放った。無学で粗野な惠祐は、頑健な身体を持つ。それ以外何もないのだ。確かに惠祐は風邪すらひいたことがない。実際には、惠祐が自身の体調の変化にすら気付いていないだけなのだが、本人は常に健康なつもりでいる。つまり、主観的には風邪をひいたことすらないのである。そんな惠祐は、メグマウィルスの脅威を空騒ぎだと思っている。そしてそもそも、細かいことは惠祐には理解できない。

 ちゃぶ台の上に乗った出来合いの惣菜や弁当、そして安酒は、今日もいつも通り減っていた。惠祐の食慾は日頃と変わらない。つまり、体調も変わっていないのだろう…と、観察者がいたらなら判断したことだろう。


 一週間ほど後、外国での事例が深刻なものとなり、メグマについての報道が増えた。感染しても症状が出ないのも稀でないことが、そろそろ知られてきた。それでも世の中では、これまでと変わらない生活が続いていた。

「熱が出た方は、一週間待ってください。検査はそれまでできません。」

 政府はそう言い放った。検査すれば統計上の感染者が増えるからだ。もっとも、感染を確認したところで大した対策もできないので、検査しても仕方がないとも言えた。また、検査も感染の機会なので、かえって事態を悪化させるという考え方も、成り立たないではなかった。その頃、どこかの国で、メホホブルササンという薬がメグマに効き、初期に投与すれば後遺症を抑えられるという報告が上がっていた。その話はネットでばかり広がり、マスメディアはほとんど伝えていなかったが。


 そして数日。

「熱なんか出してるヤツはダメだな。」

 惠祐は今夜も、画面に向かって語りかけていた。量販店で買える大容量の焼酎甲類は、順調に減っていた。それはつまり、生活に変化がないということだ。もっともそれは、変化があってはならないという強迫観念の故かも知れないのだが。そして惠祐は、朝になれば仕事に出かけるのであった。

 ところで、惠祐は現場で働いている。だから、時に自由が効かない。水を飲みたいとか排泄したいとか思ったとき、建物や用地の構造次第で、数十分も歩かないとどうにもならない場合もあるのだ。今日の惠祐は、そこまで厳しい環境にはいなかった。だが、現場監督の渋い顔を見ることになり、惠祐もばつが悪かった。何度も便所に走ったからだ。たまになら、問題はない。だが今日の惠祐は、午前中だけで五回も便所にこもった。こうなると、さぼっているように見られる。使う側からすれば、それは無理のない見方である。

 この頃、明らかになってきた話もある。メホホブルササンは、初期なら効く。ウィルスの増殖を抑えるからだ。だが、悪化してからでは大して意味がない。この薬だけでは、人類が負けることになりかねないということだ。


 次の日の午後、惠祐は現場で転んだ。大丈夫かと駆け寄った同僚は、惠祐の熱に気付いた。高熱で意識が朦朧としていると見るのが、順当だった。惠祐は、自力では起き上がれなかった。これはまずいのではないか、救急車を呼ぼうという話を同僚が始めた段になって、惠祐は強く断った。だが、現場監督は事態を憂えた。何かあって自分の責任になったら困るからだ。かといって、かたくなな惠祐の態度を変えるのも大変である。そして、幸いにも、作業の進み具合は順調だった。そこで監督は、早仕舞いの後に惠祐を医者に診せることで妥協した。事が決まった後、監督は電話を何本もかけていた。医院の予約か何かのような雰囲気のものも、そうでないものもあった。

 しばらくの後、終業となったところで、監督は惠祐を車に乗せた。正確には、乗せさせたとか積み込んだとかいったところか。惠祐は既に、自力では歩けなかった。一次請けの作業員が一人動員され、惠祐を後部座席に押し込み、その作業員が助手席に座って、車は出た。

「もしかしてアレですか?」

そう尋ねる一次請けに、監督は眉間に縦皺を作って答えた。

「違う。」

一次請けは、監督の意図するところを理解した。もし感染者が出たら、現場が止まる。そうなれば納期が遅れ、損害賠償の話になる。そこまで行けば、監督自身の経歴に傷がつくだけでは済まない。だから、アレであってはならない。いや、アレではないという事実が既に明らかなのだ。

 果たして医者は、簡単な問診の末に、惠祐をただの風邪だと言った。アレでないという事実が確定した。監督は胸を撫で下ろした。しかも、仕事とは無関係で、労災ではないということである。監督は、熱が下がるまで休むよう惠祐に命じた。


 医院側にも、惠祐の症状を聞いて、それなりに疑いを抱く者はいた。その中の一人である看護婦が、担当の医師に尋ねた。

「あの患者さん、メグマじゃないんですか、先生。」

「ありえる。だがな、あの程度じゃ検査にも回せないだろ。国策だ。」

「ひどい…でも、感染が広がったら…」

「知らんよ。あの会社はな、うちも世話になってるんだ。患者は出なかった、それでいい。患者だったら、うちも困るしな。」

 医師の一門は、確かに、その建設会社やその系列会社ともたれ合っている。小規模な医院の建設にまで大手が関わるのにも、事情がある。それは、お互いの上層部の裏金造りのためである。この医師がそこまで知っているかどうかは、明らかでない。だが、いずれにせよ、波風を立てないよう訓練されていると看取されるべきところである。


 なんとか帰り着いた惠祐は、眠った。そして目が覚め、いつものように仕事に向かった。だが監督は、一晩で回復するはずがないと、惠祐を帰宅させようとした。惠祐はいわゆる一人親方である。だから、休業の補償はない。よって惠祐は帰宅を嫌がった。しかし惠祐は、監督が何もできない若造であっても、最後の最後に逆らえない相手だとはよく知っていた。だから惠祐は、押し問答の末に折れた。


 現場は、惠祐抜きでも滞りなく動く。末端の労働者の価値など、そんなものだ。朝礼が始まり、もうすぐ終わる。

「感染は、しない、させない、許さない!そういうことで行きましょう!ご安全に!」

 そう言って朝礼を終えた監督も、げほげほとしている。だが、誰も気にしない。


 惠祐はとぼとぼと歩いた。マスクをつけた通行人たちは、足元もおぼつかない惠祐をけげんそうに見ては避けた。そのうち惠祐は、公園の端の椅子を見つけた。惠祐はそこに腰掛けた。

 空は青い。だが惠祐は、空も目の前の木も気にしていない。惠祐の意識は、既に混濁していたからだ。そこから、誰も椅子に座った労働者のことなど気に留めないまま、惠祐は椅子の上に在り続けた。こう表現せねばならないのは、深夜になって警察官が動き、その数時間後に惠祐の死亡が確認されたからだ。死んだ後については、座っていたとは言えまい。


 惠祐の妻子は、とうの昔に逃げ出している。だから、無事だった。しかし、現場や医院では、惠祐がウィルスを撒き散らしていた。一連の事象は、感染源不明のパンデミックっぽい何かとして何気なく統計の数字となるのだろう。どこまでがなかったことになり、どこからがパンデミックの一部となるかは、関わる者たちの匙加減次第である。

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